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【迷走ノート】影というアイデンティティ-もう一人の自分探し-

 小学生の頃に遊んだ鬼ごっこ遊びで「影踏み」というものがある。木の影や人の影など、影しか踏まずに鬼ごっこをする遊びで、私はその謎のルールに従順に従い遊びに参加していた。

 影は何故できるのだろう。小さな私はふと不思議に思うことがあった。太陽があるところには必ず影ができる。それは誰もが承知の事実だが、なかなかその理屈を理解できない私は「影はもう一人の私自身なのではないだろうか」と結論付けていた。

 小学六年生の頃に放映されたジブリ映画、宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」を友達同士で観る予習として、小学生の私は父親が買ってきたゲド戦記の1巻目を読んでいた。主人公の魔法使い見習いの少年ゲドは、何者か、得体の知れない「影」に追われ、怯え、恐れをなしていた。それはゲドをどこまでも執拗に追いかけ、彼を逃しはしない。しかしある時ゲドは気づくのだった。その「影」こそ、もう一人の自分自身だったのだと。

 このラストを読み切った時、私は小学生ながら感動に震えた。関係ないかもしれないが、私は当時は幽霊などが怖く、お風呂やトイレさえも一人で入るのが怖かった。何か得体の知れないものが背後から襲ってくるのではないか、という漠然とした恐怖心があったからだ。だがその恐怖も、自分自身の心の弱さが勝手に作り出したものなのだった。

 ドッペルゲンガー現象というものがある。当の本人はここに居ても、全く同じ容姿のもう一人の自分が全然別のところに現れるという怪奇現象である。私の周りでも何度かあり、例えば若干霊感があるらしいクラスメートが彼女の父親らしき人を見つけたが次の瞬間消えていたり、私とそっくりな人を違う場所で家族が見ていたりなど。意外とどこにでもありふれた話だと思うが、ちょっとゾクリとする現象である。また、自分と同じ顔の人物と二人か三人か同時に出会うと死んでしまうという都市伝説もある(双子や三つ子の場合はリーチじゃねえかと思うかもしれないが、これも一人ひとりそれぞれにそういう存在がいるらしい)。これもなかなかオカルトチックでそそる話だが、自分とそっくりな人物がいれば、ちょっとは会ってみたいという思いもある。

 影が重要要素として出てくる話では、ディズニー映画「ティアナと魔法のキス」という作品がある。あまり知られていない隠れた名作だが、個人的には大好きな作品である。ヴィラン(敵役)にファシリエというブードゥー教の魔術師が登場するのだが、彼の影に注目して観てみると、より面白く視聴できる。例えば顔は平然としながらも、影だけはガタガタ震えていたりなど、影には彼の本心が表現されている。ディズニー好きでなくてもおすすめの作品である。

 ちなみにだが、世界一のポップスター、マイケル・ジャクソン氏が亡くなった際、メディアが彼のかつての生家を取材していたのだが、壁から壁へと移動するヒト型の影が目撃されていた。私もその場面を観たのだが、かつて生きていたこの世に対する未練から、マイケルの魂が徘徊していたのではないか、と噂されたことがあった。

 ところでユング心理学には「ペルソナ」という概念があり、これは古代ローマの古典劇で、演者が身につける「仮面」が語源とされる。ペルソナは「人間の外的側面(周囲に見せる自分の姿)」を意味しており、人間は無意識のうちに環境や状況に応じて様々なペルソナを演じていると考えられている(例えば妻としてのペルソナや生徒としてのペルソナなど)。

 しかし、そんな自分自身のなかには、表に出てこないように抑圧し隠している部分もある。その一面をユング心理学では「シャドウ(影)」と呼ぶ。

 ゲド戦記の中で少年ゲドが自身の影を受け入れた時、彼は初めて自分自身の二面性と向き合った。ペルソナとシャドウは正反対の概念とされている。しかし、自分自身の内面に潜む二面性に気付き、向き合うことはなかなか容易なことではない。何故なら、本当は認めたくない醜い部分や弱い部分が人間なら誰しもあるはずだからだ。だが、自分を本当に受け入れ、心から認める上では、時に残酷なことなのかもしれないが、それが何よりも重要なことなのである。

 そんなペルソナとシャドウの概念を元にした「ユングタロット」というものもある。私も雑誌の付録に付いていたお試し版を持っているが、占いと心理学が融合したようなタロットで、心の深い部分を知るのに役立ちそうでなかなかに面白かった。

 付け加えると、通常のライダー版タロットなどにも、一枚のカードに正位置と逆位置という二通りの意味がある。同じカードでも向きが違えば正反対の意味を為すカードも多い。あえて正位置や逆位置の概念をなくすタロットもあるが、しかしこのような概念があることで、そのカードの持つ意味を深掘りできたり、多方面から占い結果を見ることに役に立つと私は考える。

 中学三年生まで通っていた絵画教室では、デッサンの練習をいくらか勉強させてもらったが、なかなか影と光の関係を捉えることが私には難しく、残念ながら結局あまり期待に添えなかった。大学のデッサンや油絵の授業でも、私はとにかく劣等生で、激しく悔しいことに「絵、好き?」と教授に嫌味を言われたくらいである(その時はさすがの私でもムカついたが即座に『大好きです』と答えた)。 

 だが、絵を描く行為自体は私は至福の時間であり、デッサンや油絵では影と光の関係をできるだけ捉えようと、極力努力したつもりだ。元来の不器用さと努力不足と才能不足で上手くはいかなかったものの、私の中では、影と光という相反するものの密接な関係性にひどく惹かれるものがあった。

 光が強いところでは、必ず影は濃くなり、影が濃いところの隣には光が必ず宿る。まるでそれは人の人生はおろか、世界の仕組み全てに通じる法則性ではなかろうか。下手くそで苦手なデッサンをガリガリ描きながら、私は対象物の陰影に世界の真理を感じていた。

 自分語りになり申し訳ないが、私は昔から根暗な性格で、精神的にもあまり強くはなく、これまで半端に暗い思い出を抱えてきたつもりだ。人生経験が乏しいくせに、いや乏しいからこそ毎日絶望感に囚われていた時期もある。
 
 それは今も進行中ではあるが、その一方で明るい未来も夢見てきた。いつかこの地獄から抜け出せる日が来るのだと。この先にはきっと良いことが待っているのだと。その希望を持てたのは、絵画教室やデッサンの授業で学んだ「影の隣には必ず光がある」という教えが絡んでいるのかもしれない。

 世の中には二面性がある。光と闇、太陽と月、昼と夜、男と女。最近は多様性の世の中で、いや元々混沌に満ちた世界をこれまでむりくり二面に分けていただけかもしれないが、二面性をとことん追及した先に新たな概念が発見できることもなきにしもあらずだろう。

 ヘルマン・ヘッセのデミアンを読んだ頃からか、私はいわゆる明るい世界の裏側にある暗闇の世界に惹かれるようになった。アングラ。ゴシック。黒魔術。「黒厨二」と一蹴されたらそれまでだが、世界には私のような平和ボケしたひよっ子が知らない暗黒面が、あまりにも多いと思っている。

 ただ、暗黒面に惹かれると書きはしたが、ゲドが影は自分自身の一部と気づいたのなら、光だって自分の中にあるはずだ、とも思っている。誰にだって自身の中に悪魔性と天使性を隠し持っているように。誰だって人生に暗闇と光を感じながら、それでもこの混沌の世界を、日々力強く生き抜いているように。そこに気付けたなら、私達は暗闇の中からでも光への入り口を探りにいけるだろう。

 もし過去に戻れるなら、影を踏みながら遊ぶ、少女の私にこう問いたい。君は君自身が影を踏んでいるのかい?それとも、影そのものが君自身なのかい?と。


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