こんな夜更けにバナナ食べたい。って堂々と主張できるなんて最高だね。
喰わず嫌いでいたのですが。見ました。
以下、不登校と障がい者、この両者が混合して出てきます。まだ小さかった息子の、それなりの主張。混合したなりに読んでいただければ幸いです。
以前、息子がこんなことを言いました。
「絶対に言っちゃだめなことだってわかってるから、一回だけ言う。
ぼくさ、不登校のやつとか障がい者とかって嫌いになったかもしれない」
何があった?
人の悪口を言わない息子が。どうした。
今、いろいろな生徒が増え、学校側の配慮も大変なことになっています。どの生徒にも、クラスの中に役割がないといけない。学校に居場所がない、などということがないように。なので、学校に来ていなくても「係り」が任されます。
でも、本人は学校にいない。もしくはできない。などいろいろな理由でその係りに穴があきます。学級委員だった息子は、その穴埋めを先生に任されたそうです。
「クラスに何人、係りができねーやつがいると思ってんだよ。けっこうな人数だよ。部活にもいけねーし。内容がわからなくてもやらなくちゃいけねーし。めっちゃ働いてるんですけど」
わたしは言いました。
「それは学校の持って行き方がまちがっている。きみがそういうふうに思うのは自然のなりゆきだから、我慢しなくていい。いやだと思ったら、断ってもいい」
「でも、断れないじゃん」
「なぜ」
「断るとするじゃん。何が起きるかわかる?
そもそもぼくだって学校にすっげー行きたいわけじゃないんだよ。でも、行くじゃん。頑張っていくじゃん。それが、普通。でも、不登校の場合、行ったということで超賞賛されるんだよ。特別クラスの友達は「特別クラスで何かがあるから」って消えちゃう。ぼくが穴埋めをしたことに対してありがとうなんて誰も言わない。それどころか穴埋めをしないとクラスに迷惑がかかって、ぼくの評価が下がるんだよ。何だか不平等じゃね?しかも、その不登校のやつさ、たまに来たとしてもぼくの目の前で『次の授業はいやだから出ない』って言って帰るんだよ。え?と思ってると先生がやってきて『無理はするな』ってそいつに言う。と思ったら僕は『何やってるんだ、早く移動しろ』って注意されるんだよ。不登校になった友達のことをちゃんと考えろって言われても、先生が考えて欲しいようにはちょっと考えられない。言っちゃいけないけどさ。そういう人達のことをぼくはいやになったかもしれない。」
「そうか。正直でいいと思う。明日はどうする」
「やるよ。ちゃんと」
「そうか。いやだったら先生に主張しなさい。先生も言ってくれないと気づかないこともあるから。やってくれる人に頼んじゃうものだよ。自分で言わないと、わかってくれないよ。それで評価が下がってもいいじゃないか。自分を曲げてもらった評価よりこれだけ考えて動いたことなんだからさ」
評価が下がることはないと思いますが、そこは先生と大いに議論してもいいところです。
結局、息子は、自分で自分なりに落とし前をつけた様子でした。今は息子も大きくなり、人にはそこに到る過程があることを知り、知識も増え、このようなことを言いだすことはなくなりましたが、その時の気持ちは強烈に記憶に残っていると思います。
でも、思った。学校は「こうしたいんだ!」「ああしたいんだ!」「これはいやなんだ」「あれはいやなんだ」と大声で主張できない場所なんだね。「わかりあって優しくいないといけない」場所。「それを身を持って知る場所」ではない。知る過程がなく、すぐその地点に到達していないといけない。だからみんな腹に気持ちや言葉を溜めて、ある子は学校に来なくなり、ある子は家で爆発する。ある子は学校で爆発して、何かしらのレッテルを貼られる。もしかしたら主張しても何かを貼られる。どっちの、どの意見でもいいのに、その議論ができないんだ。心の中でたくさんたくさん思っても、主張できないんだ。そもそも主張するようには育ってきていないんだよね。ああ、わたしの育て方、まちがってたんだな。
で、「こんな夜更けにバナナかよ」です。
この映画では、全員が対等でした。「やってあげてる」「やってもらってる」がない。筋ジストロフィーの主人公が自ら自分の特性を話し、ボランティアを探し、チームを作っていく。ちゃんと好きな人ができたり振られたりいろいろ画策したり。「一人になると生きていけない」ということを声高にきちんと主張して生きている。それって今の世の中、結構な勇気です。
人間、「○○のために」と「わたしがしたいんだ」が両方バランスよく自分の内側に共存していないと、必ずどこかで破綻します。どちらかが大きく出ると物事が続けられなくなる。特に前者ですね。
逆の立場からの話で。
以前、駅のプラットホームで突然がつっと腕をつかまれたことがあります。落ちるかと思いました。振り返ったら、目の不自由な方が私の腕をつかんでいるのです。
「なんですか!」
「わたしは目が悪いんです。〇〇というところまで連れて行ってください」
「突然つかんだらびっくりするでしょう?」
「でもあなたは見えるんだからいいじゃないですか。わたしは見えないんだから、親切にお願いします」
「なーんてずうずうしいっ!」
まあ、最後のセリフは、もうちっと社会的に大丈夫な言い方でしたが。
いろいろ考えました。腹が立ったり、笑えたり、どう解釈すればいいのやら。
そして、わたし、結局そこには案内しなかったんです。だって、わたしは乗り換えの人。彼は改札を出る人。わたしが余計な電車賃を払わなければいけなくなります。
「案内はむりですよ。でも、駅員さんにお願いしていきますから。誰もだめだったら私が改札で『だれか~たすけて~』って叫んであげます」
まあ、駅員さんは困るだろうけれど。でも、こうやってリレーでもして、何とかいろんな人の手を煩わせて到着できればいいんですよ。私自身、これから年をとっていけばなおさら理解が難しくなって、事細かに助けてもらわないと、生きていけなくなると思う。彼と同じように、余裕がなくなって誰かの腕をつかむときが来るんです。同じなんですよ。
「障がいがあるから、親切にしないといけない」
「おおめにみてあげないといけない」
なんて考え方は、反吐が出ます。
自分だったら、そんなふうに思われたら憤ります。だったら、自分でやる!となります。全員、対等です。
この映画の主人公は、そこも越えて
「だれかがついていないと自分は1秒たりとも生きていけない」
という自分を堂々と打ち出して、まわりに家族を作った。みんな、よく怒るし、みんなよく泣くし、みんなよく慌てるし、みんなほんとによく笑う。
「彼のために」と「わたしがしたいんだ」がバランスよく保てる場であり、集まりであったんだろと思います。
フラットな関係で、みんながそこにいた。わたしは、こんなふうに、人と向き合いたい。
時間がかかりますね。いろいろな差別問題が人間の心の中に残っていて時々顔を出します。同じようにこの問題も、とても時間がかかって解決していく。人間の心に巣食った「差別」という根っこは、世代が代わって、教育がきっちりとしてこないとなくならない。そして実際にいろいろな人に接していかないとそもそも思考が始まらない。そんな機会が欲しい。不登校。障がい者。そういう言葉がなくなるのが理想。そういう人がいなくなるのではなくて、そういう人達を区分けする必要がなくなる社会。考え方。時代。
今度、「息子の中にそういう区分けがあることを知ってしまった日」というお話をします。いつかね。
さあ、枠をとっぱらう時です。
できるできる。
絶対できる。できるよ。
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