裁くことは愛なのか?
「暴くことは愛なのか?」
というぬー通信を書いたあとに
「裁くことは愛なのか?」
というフレーズが浮かんだ
(こういう瞬間が私は好き)
暴く、も、裁く、も
おのれの正義感をもってして
悪気なくやりがちなのだけど
暴く、も、裁く、も
それは愛か?と問われたら
イエスとは言いにくい
うーむ、それでも
暴く、や、裁く、を
してしまうのはなぜなのか
「正義」を盾にしたときに
暴く、や、裁く、が
ものすごく力を持ち
傷つけることに鈍感になる
そしてそれを
自分自身に向けさえする
傷つけていい人なんて
いないのにね
暴く、も、裁く、も
良かれと思ってやるのだけど
良かれと思って
やるものじゃないんだよね
暴きたい、裁きたい自分が
あらわれた時は
一呼吸おいて、慎重になる必要がある
そして、見るべくは
自分自身
弱い弱い自分と対峙するとき
なのかもしれない
そうなんだよねぇ
たいていは弱い弱い自分が
「正義」を笠に着て
力を持ったかのように錯覚して
叫んでいるんだよねぇ
うーむ、力を持ちたいのか?
力を誇示したいのか?
暴く、も、裁く、も
愛なのか?と問われたら
それは確かにNOなのだけど
暴く、や、裁く、が
疼くときは
自分に愛を向けるとき
愛を向けるとは
どうすることなのかは
分からない
人によって違うから
自分で考えてみよう
暴く、裁く、に続き
もう1ワード出てこないかなぁと
思っている
それでは本日も
”自分が一番の味方”な一日を♪
『 弱い弱い自分を受容できたとき
それが強さになり力を持つ 』
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