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自己決定のむずかしさ

あるツイートを見て思い出したことがあったので。

行きたくもない大学にいって適当にゲームしてたら留年した

これだけを見ると、自業自得と捉える人も多いんじゃないかと思う。


私は小中学生でもう十分お腹いっぱいに学校に嫌気がさしていたし、何度も不登校を繰り返していて、診断こそ成人してからついたものの、当時すでに自分には集団や組織が向いてないんだろうと察していたので、中学を卒業したら働くつもりだった。

なのに母は私に「高校へ行け」といった。

「今の時代最低でも高校くらいは出ておかないと」と、中卒の母に言われた。

今の私には母の気持ちが理解できる。
自分がした苦労を子である私にさせたくなかったのだろう。将来の選択肢を広げて欲しかったのだろう。

しかし、当時の私にとっては「義務教育を終えてやっと強制集団生活から解放されるのに、またあれが始まるのか…」という絶望でしかなかった。

そもそも私は勉強は嫌いではなかった。本を読むのも好きで、授業に出ていれば勉強をせずともそこそこの点を取れていた。ただ、ADHDの特性が顕著に出ていた。遅刻や忘れ物は毎日のようにするし、夏休みの宿題などまともに出したこともない。教師からすれば完全に「やればできるのにやらない怠惰な生徒」であり、印象は最悪である。友人はいたが、いじめにもよく遭っていたので無自覚にASDな部分も出ていたのかもしれない。

そんな私にとって「学校」とは刑務所や地獄のようなもので、高校へは行きたくなかったし抵抗した…はずなのだが、気づけば行くことになっていた。正直そうなった経緯はあまり覚えていない。気づけば行くことになっていたし、行く気になっていたし、中学3年の夏、私は塾に通い始めた。

中学は1/3ほど不登校だったので、勉強での躓きが酷く、余計に学校へ行くのが憂鬱になっていた。授業中に当てられるのがとにかく怖かった。そんな状態から塾に通って何か変わるのか?と自分でも思ったが奇跡が起きた。講師の先生との相性がとても良かったのだ。先生は地の底を這う私の自己肯定感を上げてくれた。それからは授業中に当てられるのも怖くなくなっていた。この頃の私はもう完全に高校に行くことが希望になっていた。勉強が楽しかったからだ。

そんなこんなで地元の公立高校へ無事受かり、1年はJ Kをやった。せっかくなので謳歌した。しかしやはり、ADHDの性である遅刻や提出物がどうしても改善できない。失われていく信頼、自己肯定感、出席日数。ASD由来の完璧主義も災いして、もうどうでもよくなっていた。意欲が失われ、授業に出ていても何も頭に入らなくなっていた。今振り返れば鬱のような状態だったのだろう。最後の方は学校に行けず近くの公園でハトに餌をやったりしていた。

そんな状態を見かねたのか、母の方から「どうするの?」と聞かれ、高校は自主退学した。

結果的にやめたとはいえ、高校へ行ったことは良かったと言える。でも、それは今だから言える、今だからわかることで、当時の自分はそれはそれは苦しかった。

自己決定のむずかしさ

タイトルの話に戻る。私はいつのまにか高校へ行くという自己決定をしていた。したつもりだった。しかし、それはおそらく純粋な自己決定とは違った。「高校へ行くメリット」と「行かないデメリット」だけを繰り返し話すことによって洗脳が成功していた。

母は何かあるたびに「よく考えなさい」と私に言った。しかし、私が考えた結果ではなく、母の中での正解がすでに決まっていた。私はそれを察して答える。これはきっと母も私もお互い無自覚に行われていた。悪意どころか、善意で、愛で、行われていた。

私が親の立場になった今、母の愛は理解できる。私もついつい子へ自分の正解を押し付けてしまいそうになる。大切だからこそ、そうなってしまう気持ちは痛いほどに理解できる。

しかし同時にあの頃の私が諫める。止めてくれる。だからこそ、あの頃苦しんでて良かったと思う。


雑なまとめ

・知識ではなく知恵を教えること
・視野を広くさせてあげること
・選択肢のメリットとデメリットを伝えること
・出来うる限りで環境を整えること
親にできるのはそれくらいなんだと思います。

自己決定をすること、させることのむずかしさを思い出した話。

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