『若い兵士のとき』ハンス・ペーター・リヒター (小説・1967)

社会心理学者リヒターが、自身の戦争体験を書いた作品。記事タイトルで、小説と分類したが、記憶の断片という方がふさわしいだろうか。

訳者・上田真而子のあとがきに、以下のようにある。

「書かれている一つ一つのエピソードを読んで、どんなことがリヒターの心に残っていたかということが私には非常におもしろく感じられました。とくに、心に突きささった刺のような痛みとなっていることとならんで、あの極限状態にありながら自ずからのユーモアがあふれているいくつかのエピソード。(略)こういう豊かな人間性があるからこそ、一緒にやってしまったことの痛みも痛みとして持ちつづけ、それを容赦のない筆で書けたのだと思います。」

私も、このあとがきと同じ感想を抱いた。
ユーモアというのは、観察対象から距離を置くことだと思う。
私がスペイン語を勉強し始めたきっかけである、レイナルド・アレナスの『夜になる前に』にも、同じものがある。キューバ・カストロ政権下で政治犯とされたアレナスの、自伝的小説だ。たとえば、刑務所での場面の、強烈な愉快さ。嘆きなのに、カラッとしてしめっぽくない。

『若い兵士のとき』に話を戻すと、2点、特に印象に残った。

一つは、リヒターがこれを書いたという事実。
語り手は、リヒター自身とされるドイツ人の「ぼく」。兵士として遭遇した出来事を中心に、第2次世界大戦下の記憶をたどる。非常事態における人の有様を、自分も直接・間接に関わったと認めながら「容赦のない筆で」書いている。悲しみや苦痛に直面する場面も多い。「ぼく」が銃弾を受け、片腕を切断する場面もある。
これを書くためにリヒターがくぐり抜けたものを思う。

また、そんな内容なので、地名や人名はほとんど明記されていない。地理や人物の特徴も、きわめて簡潔な描写にとどめられている。そもそも、「ぼく」と家族以外の登場人物は、群像劇のように入れ替わり立ち替わりで、時間も場所も次々に移るので、一人一人を識別することも難しいくらいだ。
個別性を排したこの形式は、書かれている内容が特殊なことではなく、今も起こりうること、普遍的なものであるという感じを与える。一方で、私的な日記を読んでいるかのようなリアリティを生んでいる。

二つ目は、非人間的な場面を、多くの人が経験したということ。
死んだ敵兵から、味方の兵士が軍靴を取ろうとする場面がある。死体の腹部を踏んで軍靴を抜こうとするが、どうしても抜けない。兵士は悪態をついて、死者をなおも踏みつけて立ち去る。
しかし、この兵士も「普通の人」なのではないだろうか。平時であれば、死者から所持品をはぎ取ろうなんて考えないのでは。
自分の倫理を危うくする状況に、多くの人が置かれていた。戦争が終わっても、その記憶を抱えなければならなかった。それは一体、どんなことなのだろう。
忘れることにした人もいるだろう。仕方なかったのだ、と正当化した人もいるだろう。リヒターのように、向き合おうとした人もいるだろう。

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