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ミンギルとテウォン 5 〈完〉

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32 異国の笛の音

 その後、ミンギルとテウォンのいる分隊は議政府ウィジョンブで中隊に合流したが、米軍と南朝鮮軍の猛攻に耐えきれず、結局山を越え谷を越え国境の鴨緑江アムノッカンの近くまで後退することになった。
 朝鮮人民軍全体が敗色濃厚で、平壌ピョンヤン元山ウォンサン咸興ハムフンも陥落し、自分たちはもうすぐ敗戦国の兵士になるのだと誰もが覚悟していた。

 だが同じ共産主義国家である隣国の中華人民共和国が、中国人民義勇軍と名付けられた大軍を送って朝鮮戦争に参戦したため、戦争は終わらずその後も続いた。

 一時はほぼ朝鮮全土を占領する勢いがあった米軍と南朝鮮軍は冬が近づく十月シウォルの終わりごろに後退に転じたが、彼らを撃退し戦線の主導権を握ったのは朝鮮人民軍ではなく、中国人民義勇軍であった。

 朝鮮人が朝鮮を取り戻すために始めた戦いは、気づいたときには米軍と中国人民義勇軍という、異国の軍隊同士の戦争に姿を変えつつあった。

 ◆

 朝鮮人民軍で使われる景気の良いトランペットの音とはまったく違い、朝鮮の民謡で使われる笛の音ともどこかが違う、不気味でうるさい支那の笛の音が、清川江チョンチョンガンが流れる音に重なって真夜中に響く。
 十一月シビロルの末の清川江チョンチョンガンを挟んだ朝鮮半島の北西の渓谷は、木の根が岩石の隙間を這う地面に霜が降りる寒さであった。

 木々の葉の隙間から見える頭上の星空も冷たく、吐く息は白いもやになって消える。

 そうした静かで暗い夜に中国軍は密かに米軍を包囲して退路を断ち、笛の音と共に現れて奇襲を成功させ、混乱した米兵を一網打尽に壊滅させていた。

 だが一方でミンギルとテウォンのいる分隊を含んだ朝鮮人民軍の中隊は、勢いよく進撃を続ける中国軍の後をただ着いて回るだけの、何の役にも立たない軍隊になっている。
 夜の暗闇に紛れて戦闘が終わった林を歩き、ミンギルは地面にいくつも転がっている米兵の死体の数を数えて、ため息をついた。

「支那軍は米帝の兵士を、本当にたくさん殺したんだな」

 ミンギルの足下には背中を撃たれてうつ伏せになった米兵の死体があり、数歩進んだ先には足から大量に血を流した米兵の死体がある。
 米兵はあちこちに散らばって倒れているので、ミンギルはどちらに歩いても死体に遭遇することになる。

 時折り何語かわからない呟きやうめき声が聞こえるので、全員が死んでいるわけではなさそうだが、この夜の冷え込みでは怪我人のほとんどは助からないだろうとミンギルは思った。

「分隊長に戦場の様子を見てくるように言われたから見にきたが、見てどうするっていう状況じゃなさそうだ」

 ミンギルの後ろをついて歩くテウォンは、あまり死体をじろじろ見ないように気をつけながら、できることを探している。
 虚に目を見開いた異邦人の死に顔は、ミンギルもそう目を合わせたいものではないので、服や装備などなるべく違うところに目を向けた。

「とりあえず、防寒着とかあったら拾って増やそうかと思っとったが、こいつら朝鮮の冬を舐めたような格好をしとるんだよなあ」

 ミンギルは屈んで、冷えた手で米軍の軍服の生地に触れてその薄さを確かめた。

「米帝は金持ちの国だって聞いとったが、何でこんなに寒そうな服で戦争をしとるんだろう」

 冬用に綿の入った軍服を着込んだテウォンが、夏と変わらない装備で死んでいる米兵を見て首を傾げる。

「何にせよ、支那軍はおれたちよりもずっと数が多くて、満足に冬の服も用意できない米軍よりも強いってことだ」

 ミンギルは米兵の軍服から手を離して、むなしさでいっぱいになって立ち上がった。
 まったく敵と戦う機会がないわけではないが、何人殺したとしても結局勝ち負けは中国軍の働きで決まるので努力したかいがあるわけではない。

「朝鮮は小さい国だから、支那よりも人の数が少なくなるのは仕方がないが……」

 笛の音が遠ざかっていく方角に目をこらして、テウォンはつぶやいた。

 実際の数を知っているわけではないものの、国境から移動してくる大軍は、ミンギルとテウォンが目にしたことがある朝鮮人民軍よりもずっと数が多いように感じられ、頼もしさよりも恐ろしさを感じる味方である。

 特にやることがないミンギルは何となくあたりをぶらぶらと歩いて、また別の死体にも目を向けた。
 ミンギルとテウォンよりもやや年齢が上に見えるその米兵の死体は手に何か紙を手にして倒れていた。

 その紙が何なのか気になったミンギルは、固く強張こわばった手からややむりやり紙をとってみた。

「何か、あったのか」

 ミンギルが見ようとするものに興味を持ったテウォンも、その紙を覗き込む。

 そこに描かれていたのは、白黒で人の集団が描かれた精巧な絵であった。

「これはもしかして、写真っていうやつか」

「ああ。多分、この人の家族を撮ったものだな」

 見慣れない品をまじまじと見つめるミンギルに対して、テウォンはそれが何なのかがわかるとすぐに離れた。

 写真に撮られている人々は年齢と性別にばらつきのある白人で、皆きちんとした洋服を着ており、うっすらと微笑みを浮かべてこちらを見ている。
 その幸せそうな集団の姿に、ミンギルは彼が今は防寒着を持っていなかったとしても、故郷では豊かで恵まれた存在であったことを理解した。

(でも冬の夜の戦場では、家族の写真は役に立たない)

 裕福で幸せな人生を送っていたはずの存在が無惨に野垂れ死んでいる現実を前にして、ミンギルはかすかな優越感を抱いた。自分たちよりも上の階級に属する人間が不幸になるのを見るのは、正直それなりに気持ちが良かった。

 だが同時にミンギルは、自分たちを待つ家族はどこにもいないという事実を思い出して、寂しくもなった。
 戦場に転がる死体の数だけ幸せな家庭があるというわけではなく、ミンギルとテウォンはありふれたもうひとつの不幸の中にいる。

(おれたちは最初から家族がおらんから、家族が死ぬ辛さは考えてもわからん)

 安らかとはあまり言えない苦痛にゆがんだ米兵の死に顔を眺めながら、ミンギルは残された彼の家族がどう感じるのかを想像した。

(テウォンが死んだら、おれもきっと辛いんだろうけど)

 家族の死について考えていたミンギルは、そのままごく自然に、唯一かけがえのないと思える相手であるテウォンの方を見た。
 テウォンは死体は目を合わさないように、木々の隙間から星空を見上げていて、ミンギルの眼差しには気づいていない。

 あまりにも長い間二人で生きてきたので、ミンギルは自分にとってテウォンが本当はどんな存在なのかわからないところがあった。

 もしテウォンを失ったとしたら、どれくらい辛くて、どれくらい辛くはないのか。
 また逆にミンギルが先に死ぬのだとしたら、テウォンはどれくらい悲しんでくれるのか。
 そのどちらかがわかってしまうときのことを考えるとミンギルは、一瞬だけ不安になる。

 しかしずっといっしょに生きてきたんだからきっと死ぬときも一緒なんだろうと根拠もなく確信すると、ミンギルはすぐにその不安を忘れた。

「見終わったら、写真は元に戻しとけよ」

「ああ。ちゃんと返しとく」

 ミンギルが写真をもう見ていないことに気づいたテウォンが、人が人を想って死ぬ邪魔をしないように助言する。

 その言葉に従って、ミンギルは遠い異国の家族写真を死者の手に再び握らせた。

33 誰かが殺した死体

 中国人民義勇軍は押すか引くかの判断を巧みに下しながら前進し、十二月シビウォルの初めには平壌ピョンヤンを奪還してさらに沙里院サリウォンに迫る。

 日に日に寒さが増していく中、ミンギルとテウォンのいる分隊はその日、所属している中隊とともに、中国軍による反転攻勢によって米軍と南朝鮮軍が退却した朝鮮半島の中西部のあたりを進んでいた。

 戦闘を避けて敵が立ち去った後の、山間部を外れた場所の移動であるので、道中に問題はあまりなかった。
 だが一日の終わりにある村に立ち寄って休もうとしたとき、朝鮮人民軍の兵士たちはその場所で異常な事態が起きていたことを知った。

 住民が逃げ出して誰もいないことならよくあるのだが、その村は家の中も外も、至るところに住民の死体があったのである。
 性別や年齢を問わず殺されているその死体の数は、ぱっと見ただけで数十人を超えていて、全員数えたらどれくらいになるのかまったく見当がつかないほどであった。

「一体どういうことだよ、これは」

「そりゃ民間人が死ぬことだってたまにはあるだろうが、ちょっと数が多すぎやしないか?」

 休耕の季節の田園の静寂や立ち並ぶ伝統家屋の牧歌的な雰囲気とはまったく噛み合わない惨状に、兵士たちは訝しんだ。
 中国兵が殺したとわかっている米軍や南朝鮮軍の兵士の死とは違う不気味さが、その村の住民たちの死にはあった。

 しかも死体は銃で撃たれた者だけではなく、抵抗できないように縄で身体を縛られ殴り殺された者から、首を切り取られた者まで様々な死因の者がいて、中には明らかに拷問された形跡がある者もいた。

 幸い真冬であるために腐敗臭は少なかったが、あまりの惨状に吐き出す兵士も出はじめる。

 ミンギルとテウォンのいる分隊も、ミンギルと分隊長のジョンソ以外は全員、異様な大量死を怖がって身体をすくませ、俯いたり他所を見たりして目をそらした。

 特にテウォンの怯えようはかなりのもので、途中で地面にしゃがみこんだまま立ち上がれなくなって、胃の中のものが無くなるまで吐き続け、その後もずっと嘔吐えずいていた。
 ミンギルは側に屈み込み、テウォンの背中をさすったが、どんな言葉をかけたらいいのかはわからなかった。

(おれだってこんなに人が死んどったら少しは怖いけど、死人が蘇っておれたちを殺すわけじゃないし……)

 理由がわからない不気味さは感じるものの、差し迫った危険がない状況では、ミンギルは殺戮の痕跡を過剰に怖がるテウォンの気持ちを理解することができない。

 ミンギルが顔を上げて他の三人を見てみると、お調子者や同意する男はテウォンほどではないにしろ動揺し続けていたが、不平家は比較的平常心を取り戻している様子だった。
 不平家は理由さえわかれば恐怖が薄れるという様子で、一番わかっていそうな雰囲気で腕を組んで立っているジョンソに訊ねた。

「何なんでしょうか。これは」

「誰がやったのかは知らないが、これは多分外国人が言う虐殺ジェノサイドってやつだな」

 期待されていたほど事情を理解しているわけではなかったが、ジョンソはとりあえず大勢の人々の不可解で無惨な死に方の名前を教えてくれた。

「これが、虐殺ジェノサイド……」

 テウォンの背中をさするのに飽きたミンギルは、ジョンソが言った言葉を繰り返して呟き、そっと立ち上がって周囲を見回した。

 夕暮れの赤くなった空の色が血の色に見えるほど、あたりは死と死の気配に満ちている。

 様々な死体がある中で、民家の塀の影に打ち捨てられるように横たわって死んでいる七、八歳くらいの少女の姿が、ミンギルの目を引いた。
 周囲には母親らしき女性の死体や兄妹らしき子供の死体もあったから、おそらく家族で皆殺しにされたことが伺えた。数え切れないほどの死体がある中で、ちょうど少女のその手がこちらに何かを求めているように向けられていたので、ミンギルは彼女が気になった。

 ミンギルが近づいて見てみると首のあたりに紐の跡があったから、絞め殺されたのだと思われた。つぎはぎだらけの野良着を着た小さな少女の手足はやや細いけれども健康そうで、苦しげな死に顔は彼女の死が異常なものであったことを物語っている。

 その少女の死体を見てやっと初めてまともに、ミンギルは自分を重ねることができない他者の死にやるせなさを覚えた。

 代償を払わなくてはならないような恵まれた出自というわけではなく、貧しい一生を懸命に生きていた何の罪もない少女が命を奪われる理由はどこにもないはずだと、ミンギルは理不尽さを感じる。

(こういうちゃんと可哀想な子供なら、おれだって守ろうと思えるのに)

 自分たちよりも幸せな存在に冷淡なミンギルも、弱く貧しい無力で不幸な死者には同情を寄せることができる。

 だからミンギルは少女の恐怖に見開かれた両目に手を伸ばしてまぶたを閉じさせようとしたけれども、時間が経ちすぎているせいか上手くいかなかった。

 寒冷地に生まれ育ち相当な寒さに慣れているミンギルも、死んだ少女に触れた瞬間には、背筋に冷たいものが流れ込んだように体中に寒気が走った。

34 信仰と虐殺と

 度を越えた虐殺の状況に、中隊を率いる役職についている人々も情報をまとめる必要性を感じたらしく、急遽士官を集めた会合が開かれた。

 ジョンソもその会合に呼ばれたので、残った五人は比較的綺麗に残っている空き家を見つけて、そこで休んで待った。
 住民がほとんど消えたそれなりに大きな村であるので、中隊全員で寝床を探してもそれほど困らない。

「あんなに大勢が死んだ土地に泊まるとか、変な夢を見そうで嫌だよ」

「じゃあ気分転換に、しりとりでもするか」

「それは良い考えだと、俺も思う」

 ぶつぶつとぼやく不平家に、お調子者が声を引きつらせつつも遊びの提案をして、同意する男が静かに同意する。

 ミンギルは村に入ってからずっと青い顔で黙っているテウォンの隣で、寝っ転がってぼんやりとしていた。
 皆ジョンソがいないことを喜んでいるわけではないが、上官がいない時間をゆっくり過ごそうとしている。

 だが会合は案外長引かずに終わったらしく、ジョンソはすぐに戻ってきた。

 虐殺の真相を気にしていた不平家は、縁側テッマルで靴を脱ぎ部屋の中に入ってきたジョンソに駆け寄って訊ねた。

「あの人たちを殺したのは米軍でしょうか? それとも南朝鮮軍でしょうか?」

 京城ソウルを退却する際に自軍が何をしたのかをよく考えてみれば、敵が民間人を殺戮することも理解できないわけではない。
 しかしジョンソの返答は、その場にいた全員が予想していたものとは大分違った。

「いや、どうもこれは敵軍じゃなくて、共産主義側の暴動を恐れた耶蘇教やそきょうを信じる住民の自警団の仕業らしい」

 一足先に事情を知って、空いていた上座の座布団に座わるジョンソは、微妙に顔をしかめていた。

 ミンギルは耶蘇教やそきょうのことを知らなかったが、説明を聞いてもわかる気がしなかったので、とりあえず何かの宗教であるという理解で終わらせる。
 一方でしりとりに興じながら荷物の整理をしていたお調子者は、中途半端な知識はあるようでジョンソに聞き返した。

耶蘇教やそきょうって、アーメンってよく言ってるやつでしたっけ。イエス・キリストの復活がどうたらこうたら、みたいな」

「なんか色々宗派があるようだが、まあそれだ。共産主義は反宗教的なところがあるってことになってるから、危険を感じたんだろう」

 適当な推測を挟みながら、ジョンソは説明を続ける。
 村には生きている人がいるようには見えなかったが、おそらく残された記録や周囲の住民などからある程度は情報は集まったのだと思われた。

「ということは彼らは敵軍に殺されたわけじゃなくて、住民が住民を敵と疑って殺して、そして逃げたってことなんですね」

 だいたい話を飲み込めたらしい不平家は、ため息をついて端的に話をまとめた。

 民間人の手で民間人が大量に殺されたというこの村での出来事は、敵軍による虐殺よりもある意味ではずっと恐ろしい惨劇である。

(兵隊じゃなくて普通の人が、あんな風に人を殺すものなのか)

 兵隊という肩書がなければ人を殺してはいけないと素直に信じているミンギルは、明かされる事実にいまいち納得できない。
 ミンギルの腑に落ちない表情に気づいたジョンソは、言葉を選びつつさりげなく自分の意見を付け加えた。

「同じ民族が思想によって敵か味方かに分かれるから、隣人が敵に見えることもあるし、実際に敵であることもあるんだろう」

 論点が的確なジョンソの分析は、鋭すぎて感覚で物事を捉えるミンギルには届かない。
 だが他の四人はよくわかったようで、各々頷いたり、視線を落としたりしている。

 ジョンソはミンギルに話が通じていないことをおそらくわかっていたが、それ以上の説明は諦め、物事の別の側面について語って区切りをつけた。

「だが多分、共和国は表向きにはこの虐殺を米軍のせいにするんじゃないか。そういう話の方が士気が上がるし、解放されるべき同胞が善良な市民に対して虐殺事件を起こしてるんじゃ怖いからな」

 淡々と現実的なことだけを話して、ジョンソは考えても仕方がない問題を終わらせた。
 同胞が同胞を殺すよりも敵が殺していたほうが都合が良いことは、頭が悪いミンギルもはっきりと理解することができる。

 テウォンはそれまでの話をずっと、部屋の隅に座って黙って聞いていた。
 住民が住民を殺したとわかってからテウォンの表情がさらに強張っていくのを、隣にいたミンギルはただ見つめることしかできず、気の利いたことは何も言えなかった。
 凄惨な殺戮の現場をミンギルは適当に忘れることができるが、テウォンの方はきっといつまでも覚えていることになるから、二人の感じることはまるで違っていた。

35 二人の夜

 ミンギルとテウォンがいる分隊が選んだ民家は、以前に京城ソウルから逃げる途中に使った民家よりも大きな造りで部屋も多い。
 だからその夜は部屋を分けて泊まることになり、ミンギルとテウォンは久々に二人一室の部屋で眠ることになった。

 母屋の隅にある小さな板張りの部屋は、二人分の布団を敷いて寝るにはちょうどよい広さで、隙間風の音も聞こえず落ち着いた。
 布団も十分な枚数と厚さがあり、真冬でも暖かく過ごすことができるようなものが置いてある。

 布団の中にもぐり込んだミンギルは、嗅ぎなれた自分の服の匂いと、他人の家の寝具の匂いの混じった温もりに安心して心地の良い眠気を感じた。

 しかしテウォンはどれだけ布団を被っても、寒そうに身体を強張らせていた。

 ミンギルは布団の中で暖まっていて、まったく冷え込みを感じていなかったが、テウォンの様子がまだおかしいので声をかけた。

「さすがに夜は、ちょっと寒いか」

「ああ、少しだけな」

 明かりのない薄暗い部屋の中で、分厚い掛け布団を被って背を向けたまま、テウォンはミンギルに生返事を返した。
 本当に寒いなら牛小屋の隣にいたころのようにもっと近くで一緒に眠れば良いと考え、ミンギルはテウォンの方に腕を伸ばして抱き寄せた。

「今日は別に良いよな。おれたち以外誰もここにいないし」

 両手をテウォンの布団の中に入れて、身体をそっと包み込んでつぶやく。声も小声ならきっと、他の人には聞こえないはずである。

「ん……」

 テウォンは否定とも、肯定ともとれない反応で、ミンギルの温かな手に自分の冷たい手を重ねる。
 やけに大きく丈夫に育ったミンギルに比べると、小さくて細いテウォンの身体はずっと震えていて、ミンギルが触れるとその震えはより顕著になった気がした。

 テウォンは明らかに何かに怯えていて、もしかすると敵だけではなく、ミンギルのことも怖がっているのかもしれないとうっすらと思う。

(おれとテウォンは何もかもが違うからお互い頼りになるんだと思っとったけど、その違いが怖いこともあるんだろうか)

 おそらくミンギルはテウォンよりも戦場で生きることに向いていて、その違いがテウォンに頼もしさよりも恐ろしさを感じさせてしまうのかもしれないと、ミンギルはテウォンの冷えた手を握って考えた。
 もしかするとミンギルは忘れているけれども、テウォンを怖がらせたり傷つけたりするような言動をとってしまったこともあったのかもしれない。

 藁を敷き詰めた狭く小さい箱床はこどこで二人で寝ていた昔は、何の悩みもなく素直にテウォンを抱いて眠っていたけれども、今は余計な想いがいろいろと頭をよぎる。

(でもおれがテウォンのことを大事にしたい気持ちは、変わらないのに)

 どうしようもない切なさを感じたミンギルは、テウォンの薄く小さい背中を強く抱きしめた。
 心臓の音がうるさくなって、テウォンの身体の震えがわからなくなるほどに身体が重なる。

 ごく至近距離にいることで、ミンギルはテウォンが自分とは違うか弱くて繊細な別の生き物であることを深く感じ、より強く愛しさを覚えた。
 テウォンは声を出さずに手を握り返してきたので、ミンギルは拒絶はされていないと信じて、テウォンの少し伸びてきたやわらかい髪に口づけをする。

 それからしばらく、ミンギルとテウォンはただ二人っきりで横になり、お互いの熱と呼吸の音を感じていた。

 テウォンはほんの少し泣いているようだったけれども、後ろから抱きしめるミンギルには頬が濡れていることがわかるだけで、泣き顔がちゃんと見えることはない。

 涙の理由は、ミンギルにははっきりとはわからなかった。

 泣いていることを隠すためか、テウォンは暗い家の壁を見つめてつぶやいた。

「この家に住んでた人は死んどるんだろうか? それとも逃げ出しておらんのだろうか?」

 それはただ沈黙を破るためのどうでも良い問いだったけれども、テウォンの怯えを反映したものであった。

 できればテウォンに怖がられるのではなく、安心してもらいたいと願いながらミンギルは答えた。

「おれたちは生きとるんだから、そんなことはどっちでも問題ないだろ」

 ミンギルはそう囁いてから、テウォンの濡れた頬に口づけをした。
 冷たい身体に反して、涙は塩っぱくて温かい。

 きっとまだしばらくはテウォンは眠れず、夜が続くことをミンギルは知っていた。

36 火田民の家

 翌朝、ミンギルとテウォンのいる分隊は所属する中隊とともに虐殺が行われた村から去った。
 一軍は京城ソウルへと迫る中国軍の後を追って南を目指し、山間部を進んだ。

 元々貧弱だった朝鮮人民軍の補給は夏の後退後はさらに弱くなっているので、食料を現地調達する頻度も増えていく。
 冬枯れして野山には何の実りもない季節であるので、そうしたときはだいたい住民から徴発することになる。

 だからその日も食料を得るために、分隊の六人で民家を探していた。

「こんなところに住んでる人がいるもんなのかあ?」

 風も少なくひっそりと静まり返ったカラマツの森の景色を見回して、寒さに時折鼻水をすすっているお調子者が軽い調子で疑問を口にする。

「歩いても歩いても、景色が変わらない気がする」

 不平家は疲れた様子でお調子者の隣を歩いていて、どこまででも続く冷え冷えとした林道にうんざりとした気持ちを隠さず文句を言った。
 その前方を、ミンギルとテウォンを含む残りの四人が歩いている。

(まあ、これくらいの道ならまだ楽な方だと思うけどな)

 山道に慣れているミンギルは、足取りも軽くジョンソの背中を追う。
 隣のテウォンは人の気配のない大自然の中の方が調子が良さそうで、ミンギルも側にいて安心していた。

 冬になってカラマツの葉が茶色くなった森は、真昼でも話し声が木々の隙間に消えていくような心地がするほどの静寂に包まれていて、人が暮らしている雰囲気は感じられない。
 だがジョンソは後方の二人の不満を気にせず、迷うことなく道なき道を進んでいた。

「この近くに、火田民の集落があるはずなんだ。ほら、あれだ」

 森の少し開けたところに数件の家屋と広くはない田畑を見つけたジョンソは、勝ち誇るように指さした。
 その茅葺き屋根の家屋は掘っ建て小屋に近い造りで、寒空の下でそこらじゅうが崩れかけて荒れ果て、強風が吹いたら今にも壊れてしまいそうなほど危うい状態に見えた。

(この貧乏そうな家から、食べ物をもらうのか?)

 かつての自分よりも貧しい暮らしを送っているように見える家屋の外観に、ミンギルは何も声をかけることなくそっとそのまま立ち去りたくなった。
 テウォンも他の三人も同じ感想を持ったようで、戸惑いの眼差しをジョンソに向ける。
 だがジョンソはまったく気にせずに先に進むので、部下である五人も嫌々その後に続いた。

「火田民って、一体どういう人たちなんだ?」

 ジョンソが使った言葉を聞いたことがなかったミンギルは、テウォンにその意味を訊ねる。
 賢く溌剌はつらつとした雰囲気を若干取り戻して、テウォンはミンギルの知らない人々の暮らしについて語った。

「森を焼いたときにでる灰を肥料にして作物を育てて暮らしている人々が、火田民って呼ばれとる。中には過酷な政治のせいで生活が困難になり、主のいない山に逃げ込んだ結果そういう暮らしをすることになった人たちもおる」

 テウォンの説明を聞いたミンギルは、火田民と呼ばれる人々は単に貧しいだけではないのだとその歴史に納得する。

(貧しくても面倒なことを言う主人がいないなら、そっちの方が良いのかもしれんな。ただまあどんな生き方をしていても、こうやって戦争には巻き込まれるわけだが……)

 冷えた土を踏み締めて、ミンギルはついでにテウォンに問いかける。

「じゃあ火田民っていう人たちも、日帝から逃げてこうなっとるってことでいいのか?」

「いや、むしろ日帝は火田民の取り締まりのためにむごいことをしていたはずで、焼き畑をする人々が増えたのはもっとずっと昔からの話だ」

 様々なことを知っているテウォンの話を聞いていると、ミンギルは何をどうしても貧乏人は不幸であり続けるような気がしてきた。

 やがて、先頭を進んでいたジョンソが朽ちかけた家屋の戸の前に立った。
 そのすぐ後ろにいるお調子者は、部下らしく雑用は率先してこなそうとジョンソに駆け寄り訊ねた。

「俺が声をかけましょうか」

「いや、ここは俺が行っておく」

 ジョンソは普段は無愛想なわりに妙なやる気をここでは見せて、人当たりが良さげなお調子者を静止する。
 元料理人のジョンソは食事に関わることだけには常に積極的で、実際に彼が行動するところには食料が集まる。だから部下たちは今回もまたジョンソに頼ることにした。

「ごめんください」

 いつもと違う愛想の良い声で、ジョンソが戸の向こう側に声をかける。

「はい、どちらさまですか」

 物音や話し声ですでに来訪者の存在に気づいていた住民は、すぐに戸を開けて表に出てきた。
 そこにいたのは着古した簡素な白い民服に綿入れを重ねて着たあまり若くはない女性で、その足元には幼い男児がまとわりついている。
 どちらもこちらの軍服の種類を見てより警戒した表情になったので、おそらく共和国ではなく南朝鮮の勝利を期待している一家なのだと思われた。

(大人はともかく、子供に嫌われているのはちょっと辛いな)

 自軍が正義の味方ではないことを何となくわかってはいても、ミンギルは自分と同じ貧しい人々に悪く思われたくはなかった。
 だがこれから自分たちが彼らに頼む内容について考えると、好かれないのは当然であることも理解できた。
 不安げにこちらを見てくる住民の親子に、ジョンソは腰の低い態度を崩さずに名乗り話しかけた。

「私たちは朝鮮人民軍の兵士です。ほんの少しでよいので、食べ物を分けてもらえませんか?」

 朗らかで人が良さそうな雰囲気を装っていても、ジョンソのベルトには拳銃がぶら下がっていて、その他の全員も負い革でカービン銃を肩にかけている。
 そのため結局のところやっていることは脅しにしかならず、深くしわの刻まれた住民の女性の顔は曇る。

 どこからどう見ても、その親子には他人に食料を譲る余裕があるようには見えなかった。
 しかし親子には武器を持った兵隊に要請を断る力もまたなかったので、女性は静かに頷いた。

「わかりました。芋と味噌を少しなら……」

「ありがとうございます。本当に困っていたところなんです」

 本音を押し殺して了承しているだろう女性に、ジョンソが笑顔でお礼を言う様子は作り物の喜劇だと思えば笑えるが、残念ながらすべて現実である。
 だからミンギルもテウォンも残りも三人も、微妙な表情で目配せをして黙って、すべてが終わるのを待っていた。

 母親が食料を収納しているであろう木箱を開けている間、やせ細って子供らしい福福しさに欠けた男児は、親の影からこちらを睨みつけてつぶやいた。

「米帝がゲンシバクダンを支那におとして戦争をおわらせてくれれば、おまえたちに芋をうばわれることもないのに」

 男児はまだ七、八歳くらいに見えたが、おそらく身の回りの大人が普段話しているであろう内容の真似をし、難しい言葉を使って来訪者たちを非難した。火田民の人々は貧しくとも、少なくともミンギルよりは戦争についての世間の噂を知っているようである。

「しっ、黙りなさい」

 明らかに中国軍と朝鮮人民軍の敗北を期待している男児の言動に、母親は慌てて振り向いて息子の口を塞ぐ。
 そして六つの馬鈴薯と乾いて固まった味噌の塊を麻袋に入れ、怯えて引きつった表情でジョンソに手渡した。

「申し訳ありません。子供の言うことですから……」

 消え入りそうな声で、女性が男児の代わりに謝罪をする。

「いえ、こちらこそ、すみませんでした。貴重な食料、ありがとうございます」

 ジョンソは貧しい親子にまったく遠慮はしなかったが、敬意だけは十分に払ってお礼を言った。
 続けて、後ろにいる残りの五人もお辞儀をする。
 略奪者扱いされても否定はできないし、何にせよ食料は譲ってもらえたのだから感謝しなければならない。

「では、これで失礼させていただきます……」

 女性は早口で別れの挨拶をして、そそくさと戸を閉じた。男児はまだ何か言いたげにしていたが、母親に口を塞がれているのでどうすることもできずに不機嫌に別れた。

 やりとりは一瞬で終わり、ぼろぼろでもきっと暖かではあるはずの家屋の中と、曇り空の冷たい冬の空の下と、両者は再び隔てられる。

(まあ俺たちはひどい兵隊かもしれんが、これでもまだマシな部類に入るだろう)

 頭を下げたまま戸が閉まる音を聞いて、ミンギルはさらに悪どい人々のことを考えて安心しようとした。
 結果的に脅したことにはなっても、暴力で無理やり奪うことはない自分たちは、思い遣りがあって優しいのだとミンギルは信じたい。

「じゃあ次は、あっちの家に行ってみるか」

 ジョンソは芋の入った袋を手に、晴れやかな顔で別の火田民の家屋を指さして再び進み出す。

「はい」

 ミンギルとテウォンと残りの三人は、粛々と返事をしてジョンソに従った。

 物乞いを続けなければならない現状に、テウォンは曇った表情で深く暗いため息をついている。
 ミンギルは少しでも気を取り直そうと、テウォンにわからなかったことについて歩きながら訊いてみた。

「ところで、ゲンシバクダンって何なんだ?」

 火田民の男児が朝鮮人民軍を非難するときに使っていたその言葉の意味を、ミンギルはまったく知らなかった。
 テウォンはそれほど詳しくはなさそうだったがとりあえず意味はわかるようで、思慮深げな横顔でミンギルの質問に答えた。

「原子爆弾は米帝が所有している新しい爆弾だ。日帝を負かしたとてつもなく強力な爆弾らしいが、今のところはこの戦争では使われとらんはずだ」

 日帝を敗北させた新兵器と説明されて、ミンギルは昔どこかで話にきいたことがあるような気がしたが、それがどんな内容だったのか、今はもうまったく思い出せなかった。

「そんなにすごいものがあるなら、どうして米帝はさっさとそれを使わんのだろう」

「あまりにも威力が大きすぎるから、使うのが恐ろしいって話らしいが、よくわからんな」

 なぜ米帝が戦争を終わらせる力の兵器の使用を控えるのか、ミンギルは不思議に思ったが、その理由はテウォンも知らないようであった。

京城ソウルだって相当めちゃめちゃにされとったのに、あれ以上に恐ろしい結果なんてあるのか?)

 すべてが粉々に砕かれ黒く焼かれていた陥落直前の京城ソウルの姿を脳裏に浮かべ、ミンギルは自分の想像力の限界に突き当たって考えるのをやめる。
 テウォンもまた以前のように国家の理念や思想について語ることはなかったので、二人の会話はそこで終わった。

 その後、分隊の六人は他の家屋も訪ねて、十分な量の食料を手に入れた。
 彼らは一軒目の親子同様、朝鮮人民軍たちを敵視しているようだったが、こちらもあちらも戦う意思はないので敵になることはない。

 譲ってもらった芋や味噌は、ジョンソが温かい煮込み料理に調理して、皆で食べた。
 情けない手段で手に入れた食料であっても、それが美味しく空腹を満たしてくれることは、変わることのない現実だった。

37 殺戮を行う側

 独裁者からの解放を喜ぶはずの人民の冷ややかな反応を前にして、少なくともミンギルとテウォンのいる分隊は、もはや戦争の大義というものをあまり信頼しなくなっていた。

 しかし国の成り行きを決める政治家たちは、共和国の最高指導者も南朝鮮の大統領もどちらも戦争がそのまま終わることを望まず、同盟国とともに戦い続けることを選んだ。
 また米軍は大敗の屈辱を晴らす方法を考えていて、中国軍も指導者の息子が戦場で命を落とすほどに戦争に深入りし、どちらも朝鮮で戦うことに大きな意義を見出しているらしかった。

 朝鮮に住む人々の平和を望む心は無視されて、様々な都合によって戦争は続く。

 だから朝鮮人民軍の兵士であるミンギルとテウォンと他の分隊の仲間は、自分たちよりも偉い誰かが決めた命令に従って、敵とされる人々を殺し続けなければならなかった。

「本当に、皆殺しにしなきゃ駄目なんですよね」

 不平家がかなり愚痴っぽい声で、不平を垂れる。
 分隊は澄んだ冷たさの冬の青空の下に広がる森林を進んでいて、先頭にいるジョンソは不平家の文句にも苛立つことなく淡々と返事を返した。

「ああ。耶蘇教信者は全員殺せっていうのが上からの命令で、その村は耶蘇教信者の村らしいからな。この前の虐殺みたいなことを起こされたら困るだろ」

 ジョンソは真面目に物事を考える男ではなかったが、やるべきだと思ったことは真面目にやる男であった。
 そのため中隊を率いる人物が、所属する分隊にそれぞれ担当する区域を割り振り、住む住民の殲滅を命令したことも、ジョンソは当然のように受け入れている。

 だがミンギルとテウォンを含め、他の五人はあまり納得できているわけではなかった。

「でも皆が皆、暴力的な信者ってわけじゃなくないですか?」

「それもそうだが、いちいち区別なんかしてられないから仕方がない」

 自分たちは殺す必要がない人々を殺すことになるのではないかとお調子者が懸念を伝えても、ジョンソは適当に受け流す。
 三人のずれた会話を聞きながら、ミンギルもまた腑に落ちない気持ちを抱えていた。

(住民を全員殺すってことは、小さい子供も殺すってことだよな。それはやっぱり、おかしいんじゃないのか?)

 なぜ自分たちが敵兵ではない同胞の住民を皆殺しにしなくてはいけないのか。

 ミンギルはその理由をテウォンに訊ねてみたかったが、今日のテウォンはいつもにも増して口数が減って死んだような顔をしているので、なかなかいつものように気軽に話しかけることは難しかった。
 ずっとミンギルの側を離れず歩いているのは普段通りなのだが、皆殺しの命令を聞いてからのテウォンは、まるで夜道の闇を恐れる子供のように不安げである。

 やがて分隊は森と人の住む場所の境目に置かれた木彫りの長栍チャンスンを通り過ぎて、村の敷地に入った。
 しかし点在する簡素な木造の民家には、人の気配はなかった。

「誰もいないように見えますね」

 逃げ出して住民がいないことは珍しいことではないので、不平家はこれなら自分たちが望まない殺戮に手を汚す必要はなさそうだと明るい声を出す。

 だが先行して奥の方の様子を見てきたお調子者と同意する男が戻ってきて、残念そうにジョンソに報告した。

「どうやらこのあたりの人は皆、あの建物に逃げてるみたいです」

 お調子者が指さした先には、周囲の民家に比べると同じ木造でもかなり立派な二階建ての建物があって、瓦葺きの屋根の上には金属製の十字架が掲げられているのが見えた。
 素朴で質素な伝統的な暮らしが送られていたはずの村の中で異彩を放つ、重厚なその建物を眺めて、ジョンソは大きく頷いた。

「あれは耶蘇教の教会だな。あそこにいるということは、全員耶蘇教信者ということだ」

 そして乱暴に結論付けると、ジョンソは議論もなく自分たちが今から何をするべきかを決めた。

「あの建物から人が逃げ出さないようにして火をつければ、今日の俺たちの仕事はだいたい終わりだ」

 ジョンソは何でもないことのように、ひどく残酷な提案をしている。

 銃で人を撃ち殺すよりも簡単で、だからこそ非道で救いのない方法に、ミンギルは反射的に拒絶を覚えた。

(あんなに立派な建物なら、信者じゃなくても逃げ込みたくなるかもしれんだろう。金持ちってわけでもなくて、反撃してくるわけでもない人を殺す必要なんかなくないか?)

 ミンギルは兵士として敵を殺すことは問題ないと考えているのであって、敵と思えない自分とは無関係の貧しい人々を殺すのは根本的に嫌だった。
 かつて痴情のもつれで人を殺したジョンソの過去はジョンソ本人の問題として受け入れることができても、これから一緒に無差別に人を殺すとなるとまた話は別である。

 だからそれまではずっと黙っていたミンギルも、とうとうジョンソに反論した。

「抵抗せずに逃げて閉じこもっとる人たちを殺すのは、ちょっと違うと思うんですが」

 ミンギルは正直に言うと自分と似ているところもある気がする、ジョンソの怜悧な瞳を見つめてはっきりと言い返した。

 意外な人物の反応に、ジョンソは驚いて目を見開いたが、それは一瞬のことだった。ジョンソはすぐに元の酷薄な表情に戻って、自分の中で成立している理屈を並べた。

「リム同務トンム。人を殺しくないのは皆同じだが、ここで殺さなかったことが後でばれたら、なんで殺さなかったと後で上に問い詰められるんだ。面倒なことにならないように、ちゃんとやれと言われたことはやっといた方が良い」

 身も蓋もないジョンソの意見が、冷たい空気に響いて消える。

 かつて自分が信じたものに裏切られたジョンソは、今は面倒事を避けて生き延びていくという利己的な方針に対してとにかく誠実で、その他の社会的な倫理は二の次だと思って生きているようだった。

 そしてそのジョンソの姿勢は、軍隊という組織の中でやっていくための一つの結論としては、ある種の筋の通った説得力が宿っている。
 過酷な戦場で死なずに生き抜くしぶとさと引き換えに、人間として大切なものを捨てているジョンソのいびつな強さは、ミンギルにもテウォンにも、もちろん他の三人にも対抗できるものではなかった。

 部下である五人は、しばらくジョンソに何も言い返さず黙っていた。

 テウォンもただ俯いて黙っていて、ミンギルとも言葉を交わさない。
 嫌なら嫌と言うこともできたはずなのだが、テウォンはミンギルと違ってなまじ頭が良いためにすべてを最初からわかってしまっていて、感情で発言することができないようであった。

 しばらくの間続いた少々長いその沈黙を破ったのは、それまで言葉を控えていた同意する男である。

「俺は、分隊長に従っても良いと思う。命令に従わなくて、敵の仲間じゃないかって疑われるのは困るから」

 同意する男はジョンソに同意しつつも、自分の意見も述べていた。

 味方に味方のままでいてもらうためには、不条理な命令にも従わなくてはならないという彼の意見は、ジョンソと同じことを言っていても受け入れやすいものだったので、残りの四人も何とかそれで納得したということにした。

 やることが決まった分隊の六人は、まず空き家の一部を壊して木材を手に入れて、教会の出入り口を塞いだ。
 窓の中は暗くよく見えなかったが、確かに人がいる気配はする。だが特に外に出てきて敵を攻撃しようという動きはなかったので、余計に中にいるのは戦う力のない人々なのではないかという思いが強くなった。

 それから火付け石で熾した小さな火を落葉等で大きくして、建物に火をかけるのに十分な強い炎を作る。
 羅南ナナムの兵営で新兵として教育を受けていたときに、大きな焚き木を燃やして皆で囲んで歌って楽しむ行事があったので、そのときの手順を思い出せば炎は調子良く大きくなっていった。

「よし、じゃあもうそろそろ燃やすとするか」

 最後はジョンソが頃合いを決めて、全員で民家を壊して作った太い木材を松明たいまつにして火をかける。
 手元の松明は明るくて熱く、これで焼かれるのは辛いだろうと思わせる。馬鹿なミンギルでも、焼死が苦しいことは知っている。

 まずジョンソが一番に燃えやすいように集めた藁から点火し、続いて他の五人が嫌々適当に松明の炎を壁に近づける。

 火をつける瞬間にテウォンの表情がひどく苦しげに崩れたのをミンギルは見逃さなかったが、何か声をかけようとしても、自分たちのしたことの結果からまず目を離せなかった。

 良く晴れて乾燥した、風がやや強い冬の日であったので、教会につけた火はすぐにぱちぱちと音を立てて大きくなった。
 黒い煙が空へ立ち昇るのを見上げながら、ミンギルは建材が焼け焦げる臭いにくしゃみをする。

 白い漆喰の壁と柱が美しく優美な教会が青空の下で燃えていく様子は、端から見る分には華やかで綺麗で、適切な距離を取れば暖かで寒い日には気持ちが良かった。
 だが中にいる人がこれからどういう目にあうのかを考えると、ジョンソ以外は暗い気持ちになって口を噤んだ。

 やがて炎上していく教会の中から、何人もの声が重なった歌が聞こえてきた。
 ミンギルが聞いたことがない旋律のその歌は、どうやら神に祈りを捧げるためのものであるようだった。

「これは賛美歌だな。賛美歌を歌うということは、やはり耶蘇教の信者で間違いない」

 ジョンソは冷静に歌が聞こえてくる意味を考えて、自分の判断が間違いではなかったと結論を下す。

 だがその歌声には明らかに子供の声が含まれていて、たどたどしく満足に歌えていない人もいるようだったので、他の五人はジョンソのように自分たちのしたことが正解だとは思えなかった。

(おれの知ってる神様は、おれたちを幸せにしてはくれなかったが、ここまで不幸にもしなかった)

 悲痛な歌声を聞きながら、ミンギルは故郷で広く浅く信じられていた山神霊サンシルリョンのこと考えた。
 人々の暮らしに関わる山を守護するその神のことを、ミンギルは熱心に信じていたわけではなかったが、信仰が人を不幸にするものだと思ったことは一度もなかった。

 だが今、目の前にある見知らぬ信仰は、信じる人も信じない人も不幸にしているように見えて、ミンギルの価値観を混乱させる。

 その部下たちの動揺に気づいているのか、それとも単に話したくなっただけなのか、ジョンソは空気を読まない無遠慮さで、また口を開いた。

「別に気に悩むことはないんだぞ。あの人たちの教えだと、ちゃんと信仰を守って真っ当に生きて死んだ人は、天国っていう極楽浄土みたいなところへ行けるということになってるんだ。だから俺たちはあの人たちを殺したんじゃなくて、天国というところに送ってやったと考えろ」

 真昼の炎に照らされたジョンソの横顔は冗談めかした笑みを浮かべていて、彼が欠いているものの大きさを物語っていた。

 少しはジョンソに心惹かれていたミンギルは、彼が妙に饒舌なのは後ろめたさがあるからではないかと思うこともできたが、それにしてもひどい言い分なのは確かである。
 隣を見てみるとテウォンは炎が作ったミンギルの影にいて、耳を塞いで目を瞑り、ただでさえ小さいのにより小さくなって震えていた。

 ミンギルはそのテウォンの両手に自分の両手を重ねて、周囲の音が聞こえないように気遣った。
 十分にテウォンを守ったと思えてから、ミンギルはジョンソの方を向いて、頭が働かないなりに皮肉を考えて込めてそっと問いかけた。

「じゃあその教えを信じず、悪いことをして生きとる人はどうなるんですか?」

 嫌味いやみに気づいているのかいないのか、ジョンソは顔色一つ変えずにせせら笑って、ごく簡単に答えてみせた。

「もちろん悪人は、死んだら地獄行きだ。でも俺たちはあの人たちの信仰を信じてないから、それは気にしなくても良いだろ」

 赤い炎を映したジョンソの切れ長の瞳は、いつもにも増して冷たく見える。
 ジョンソの言う通り、その場で炎の外にいる者たちの中には、燃やされている人々が祈りを捧げる神を信じている者はいなかった。

 賛美歌に矛盾を感じるミンギルも、震えて何も聞かず何も見ようとしないテウォンも、眼の前で死んでいく人々の信仰に共感するところはない。
 不平家もお調子者も同意する男も、その点についてはミンギルとテウォンと同じ立場で、困惑と恐怖が入り混じった表情でただ眼の前で起きていることすべてを恐れていた。

「まあ、耶蘇教の信者が全員神様とか天国とかを信じているわけじゃなくて、教会が食べ物をくれるから入信しただけの人も多いらしいけどな」

 そしてまた、斜に構えた態度をまったく崩さないジョンソが、さら余計な情報を付け足して、部下たちの表情を曇らせる。

(じゃあやっぱり、この燃える教会の中にいる人も敵じゃないかもしれんじゃないか)

 ミンギルは信仰の内容はまったくわからなかったが、与えられる食べ物のために信者になる気持ちは理解できた。
 しかしそのことを口にすれば、自分たちの罪をより重くしてしまう気がしたので、ミンギルは口をつぐんでいた。

 その後は、ジョンソも誰も、何も話さなかった。

 やがて賛美歌が悲鳴やうめき声になって、何も聞こえなくなるまで、六人は炎に包まれる教会を囲んでいた。
 炎が服や肌を焼いて肉を燃やし、煙が息を詰まらせる死に方の苦しみについて、ミンギルは深く考えたくはなかった。

38 冬の行軍

 一月イロルの最初に、中国軍と朝鮮人民軍は京城ソウルを再度奪還した。朝鮮で最も重要な都市を失った米軍と南朝鮮軍の士気はひどく下がり、兵士は中国軍に怯えてさらに南に後退した。
 しばらく敵の反撃はないと判断した中国軍が前線から離れて体制を整えた結果、朝鮮人民軍は東部戦線で主導権を握る。
 そのためミンギルとテウォンのいる分隊が所属する中隊は、東部の太白テベク山脈の方へ向かうことになった。

 太白テベク山脈は共和国と南朝鮮にまたがる長い山脈で、元山ウォンサンの南から釜山プサンの近くまで朝鮮半島東部を縦断している。
 中でも金剛山クムガンサン雪岳山ソラクサン五台山オデサンなどは奇岩の峰が連なりが美しいと評判で、紅葉や雪景色などの四季折々の姿を見せる景勝地として知られている。

 はっきりとした目標を与えられた中隊の士気はやや上向きになり、外套を着込んだ兵士たちは雪が積もった山間の道を明るい表情で行軍する。
 進めば進むほど空気は凍てつき鼻や耳が赤くなって痛んだが、冬用の装備は十分に与えられているため凍傷にはならずにすんでいた。

「あれが有名な太白テベク山脈か」

 ほど近くに見える白い雪に覆われた山々を眺めて、お調子者が感嘆の声を上げた。
 空は薄く曇っているが雨や雪が降っているわけでもない天候のおかげで、太白テベク山脈は墨で描いたような寒々しく美しい白と黒の表情を見せている。

「共和国に協力的な住民は西部戦線よりもずっと多いらしいし、意外と良い場所だと嬉しいんだけど」

 不平家は珍しく不平を言わずに、嘘か本当かわからない情報をもとに明るくお調子者と話していた。

「確かにパルチザンとかゲリラとかは、山間部の方が多いと聞いている」

 真ん中を歩くジョンソは妙に余裕のある態度を崩さずに、部下たちの会話に混ざっていた。
 同意する男は黙っているものの、分隊の兵士たちは民間人を無差別に殺戮したことを表面上は器用に忘れ、平常を取り戻している。

 だがミンギルの隣を歩くテウォンは、相変わらずすべてに怯えていて、最近はミンギルが話しかけなければほとんど言葉を発さず、笑顔を見せることもない。

(敵が怖いだけならどうにかできる気がするが、そうじゃないから困っとる)

 ミンギルは暗く陰ったテウォンの瞳を直視することはできなかったが、明るいはずの話題で気持ちを前向きにさせようと、いつも以上に能天気な人間であろうとした。

「味方だってはっきりわかっとれば、おれたちも敵じゃないかもしれん人たちを殺さんですむってことだよな」

 民間人が敵か味方か判別できない状態だから無差別に殺す必要が出てくるのであって、協力的な住民しかいない土地なら本当の敵だけを殺せるんじゃないかとミンギルは半分は本気で信じている。
 しかしテウォンはミンギルのように物事の都合の良い面だけを見ようとはせず、冷静に悲観的な事実を指摘した。

「本当に共和国に協力的な住民が多い土地だったとしても、敵だって買収とかいろいろやるだろうから難しいんじゃないか」

 テウォンの言葉は厳しく、ミンギルにとっても距離を感じさせる刺々しさがある。
 それでも何とか良い具合に楽しげな雰囲気にしようと、ミンギルは足りない頭で考えた。

「確かにおれも、金と肉と米をやるから国を裏切れって言われたら多分裏切るな」

 場を和ませるほんの冗談のつもりで、ミンギルは小声で呟いた。

 だがテウォンにとっては冗談ではすまなかったようで、ミンギルを見上げて睨んだ。
 そこでミンギルは、もう何も言わないことにして俯いて黙った。

(戦場って普通に敵がいて、普通に敵を倒せばそれで良いんだとおれは思っとったけど……)

 どうにも納得することのできない現実に、ミンギルは地面に転がっていた雪塊を踏みしめて砕いて進んだ。
 吐く息が白く広がる気温であるので、さすがのミンギルも歩き続けなければ体が冷えて凍ってしまうような、染み入るような寒気を感じる。

 ミンギルはテウォンと違って単純なので、おそらく真っ当な敵らしい敵と戦って勝つことができれば、疑問も葛藤もある程度は忘れられるような気がしていた。
 しかしミンギルが今歩いている厚く雪が降り積もった道に米兵の気配はなく、進んだ先に敵だと信じられる存在が待っているかどうかもわからなかった。

39 幕舎での一夜

 その後、何も起きることなく歩き続けた一日を終えた一軍は、辿り着いた山の麓で野営し、簡素な食事をとって就寝した。
 地面にも天幕を敷いて温かくした幕舎は見かけよりは居心地が良く、少なくともお調子者や不平家は熟睡していた。

 普段通りならきっとミンギルも寝ていたはずだったが、その日はなかなか眠れなかった。

 毛布を被せた寝袋に包まって十分に暖まり、ミンギルは天幕で遮られた暗闇を見上げて瞬きをする。

(夜になって、風が出てきたみたいだな)

 周囲の寝息に耳を澄ませていたミンギルは、聞こえてくる音から外の天候の変化を感じた。

 最近はずっと目の下にくまを作っているテウォンが、十分な睡眠をとれていないのはわかっている。

 だがミンギルはすぐそこに他人が寝ているのに、テウォンに話しかけたり触れたりするのがはばられて、背を向けて眠るテウォンの方を見ては目を閉じることを繰り返していた。

 そして他に特に考えることがなかったミンギルは、テウォンの後頭部を見つめながら、自分の人生について振り返ってもみた。

 ミンギルは正義や正しさというものを信じたのではなく、百姓よりも兵隊のほうが格好良い気がして、また暮らしも豊かに思えたので、軍隊に入って生きることにした。
 そうした即物的な動機を持っているミンギルにとっては、良いと思える気分がすべてであり、その気分が完全に損なわれたなら、戦場に身を置く理由は何もなかった。

(じゃあもう、こんな戦争やめて逃げるか。テウォンだって戦争から離れれば、また元気になるだろうし)

 真面目に国家や思想について考えていたわけではないミンギルは、枕代わりに背嚢リュックに頭を預けて頷き、いとも簡単に考えを翻した。

 兵士個人が戦うことをやめて戦場が逃げ出すということの意味の重さを、あまりよく覚えていない軍規の厳しさ以上に熟慮することができないミンギルは、何の思考の引っ掛かりもなくテウォンと二人で逃走する未来を呑気に想像する。

 軍隊という組織を裏切る選択が人を選ぶものであり、もしかするとテウォンには受け入れ難いかもしれないことを、ミンギルは理解していなかった。

(明日、頑張って一番に早起きして、テウォンに話してそうしよう)

 考えがまとまったミンギルは、寝袋に収まったテウォンの背中を見つめて、目を閉じた。

 すぐ側にテウォンがいてもミンギルは肝心なところで想いを察することができず、結局言葉を交わさなければ何もわからない。
 だが二人っきりで生きていた昔と違って、今は話したいときに話せるわけではなく、テウォンと自分の見ている世界がずれていることにミンギルはまだ気付けなかった。

40 冷たい自由

 一人決断を下したミンギルは、北東の故郷の赴戦嶺に似た雪山の麓で野宿をしていたその日の早朝、他の皆が起きる前にそっとテウォンを起こして連れ出した。

 雲に厚く覆われた空は暗く、ミンギルとテウォンが歩くと厚く雪に覆われた地面には足跡がついた。

「二人で話をするだけなら、こんなに歩かなくても良いし、荷物を全部持ってくる必要はないんじゃないのか?」

 しっかりと外套を着込んで二人分の荷物を背負い、宿営地から遠く離れた森林の深いところまで歩いてきたミンギルに、テウォンは訝しんだ様子で訊ねる。

 寒さの厳しい土地の野宿でも最終的にはよく寝てすっきりとミンギルとは対象的に、テウォンは目に疲労の色が浮かんだ追い込まれた顔をしていて、昨夜もやはり熟睡できてないようだった。

 宿営地の幕舎から十分な距離をとることができたと感じたミンギルは、一際大きなモミの木が生えていたあたりで立ち止まり、振り向いて考えを明かした。

「そう。だからおれは、こんな胸糞が悪い戦場からはもう去ろうって話をしようと思っとったんだ」

 得をすることが何もない戦争には、これ以上は付き合いきれないという素直な気持ちで、ミンギルはテウォンに脱走を持ちかける。
 おそらく疲れて頭があまり働いておらず、言われてやっとミンギルの考えがわかったテウォンは、まずミンギルを意図を危険視して突き放した。

「ミンギルはわかっとらんかもしれんが、脱走は死刑だとか、軍隊にはそういう決まりがあるんだから無理だ。死にたくなかったら、命令に従うしかない」

 憔悴した表情のテウォンは首を左右に振り、ミンギルの誘いを断って逆に脱走を諦めさせようと説得してくる。
 テウォンが指摘した通り、ミンギルは自分がどうでも良いと思った規律や規則はすべて忘れて生きてきたので、テウォンが逃げられないと思う理由がわからない。

 だがミンギルは逃げた結果どんな過酷な状況になったとしても、兵士として命令に従って何のためかわからない殺人に関わり、手を汚し続けるよりはましだと思って言い返した。

「でもこのまま人を殺し続けて、おれたちが幸せになれるとは全然思えんから。おれよりもまず、テウォンの方がこれ以上は無理だろ」

 ミンギルは自分が納得できない理由で人を殺し続けることも嫌だったが、本当に一番嫌なのはそうした人倫に反した状況にいることで、テウォンが自分を見失い追い詰められていくことだった。
 だからミンギルは多少テウォンを弱者としておとしめ傷つけることになっても、思ったことをはっきりと言った。

 ミンギルは戦争という前提があれば、武装した人間であれ気に食わない金持ちであれ敵に分類される存在なら殺して構わないと本気で信じている。
 しかしテウォンの方はどんな理由があっても人を殺すのは許されないという道徳心を保ち続けていて、だからこそ命令に従うことが正しいという基準以外を持つことができないらしいことを、ミンギルは妙なところで鋭く察していた。

(誰が相手でも殺しちゃいかんって考えるのは、テウォンの優しさでもあるし弱さでもある)

 ミンギルは冷静に二人の良心のあり方の違いを踏まえながら、テウォンの反応を見た。
 予想していた通り、ミンギルの言葉を聞いたテウォンはひどく恥じたように顔を歪めて、目に涙を浮かべていた。

 ミンギルは自分が、テウォンの心のもっとも脆い部分を攻撃したのだと自覚する。

 戦場では強さこそが正しさであるならば、ミンギルが正しいことをテウォンはその態度で認めていた。
 だが自分が弱いことを飲み込んでもなお、テウォンはミンギルに現実的で悲観的な反論を加えた。

「逃げてどうするんだよ。国を裏切ったら共和国の敵になるし、朝鮮人民軍にいた人間なんか南朝鮮でも敵扱いになるっていうのに。敵兵じゃない人たちだって、敵だと思ったら俺とお前を殺しに来るんだぞ。俺たちだって、敵兵じゃない人たちをたくさん殺しとるんだから」

 零れる涙はそのままに、テウォンは不安や迷いをそのままミンギルにぶつけた。

 テウォンが理想や正義を信じていたのは昔のことで、今のテウォンのすべての判断の基準になっているのは死への恐怖である。
 テウォンはおそらく何の罪もなかったであろうと人々を焼き殺す罪に加担したことで、自分も同じようにたいした理由もなく惨殺されるのではないかと考えるようになっていた。

 だからテウォンは、少なくとも朝鮮人民軍という自分が所属する軍隊が敵になることはないのだという確証を失うことを恐れて、ミンギルの脱走の提案を拒絶している。
 それが戦争が自分たちを救わず破滅させるとわかっていても、テウォンが戦場に留まり続けようとする理由だった。

 そしてテウォンは、脱走を企むミンギルが自分の敵になってしまうかもしれないことにも怯えて、ほんのかすかにミンギルにも敵意を向けていた。
 ミンギルはその恐怖が作る孤独からテウォンを助け出したくて、まずは手を差し伸べてその手を握ろうとする。

「だからとにかく、おれはお前を――」

 何か暖かく、救いになる言葉をミンギルは言おうとしていた。

 だがその想いとは裏腹に、ミンギルの両手は勝手にテウォンの腕を強引に掴み、ミンギルの脚は小さな蹴りを放ってテウォンの足元を崩していた。

 テウォンは武器に触れようとしていたわけではなかったし、ミンギルを攻撃しようとしていたわけでもなかった。

 しかしただの不安による小さな敵意に反射神経が反応して、ミンギルの身体はかつて新兵として教育を受けていたときに習った、武器を持った敵に対する格闘の技術に基づいて動いていた。
 銃の引き金を引けば機械的オートマチックに銃弾が放たれるように、ミンギルは考えるよりも先に態勢を崩したテウォンの腰のベルトからナイフを奪っている。

 そして気づいたときには、ミンギルはそのままの勢いでテウォンの身体にナイフを突き立てていた。

 人の肉を刺した嫌な音と感触に我に返ったミンギルが咄嗟にテウォンの腕を離すと、声を上げる暇もないまま呆気にとられていたテウォンは、地面に倒れ込んで呻いた。

 鮮やかな手並みは訓練で身につけた通りだったが、訓練と違ってミンギルが握っているのは模造刀ダミーナイフではなく本物のナイフであり、刃には赤黒い血が付着し、テウォンの軍服と身体の下の雪には赤い血の染みが広がっている。

 横向きに倒れたテウォンは苦しげに身体を丸め、何が起きたのかまったく把握できていない表情で顔を上げてミンギルの方を見た。
 だがテウォンをナイフで刺した張本人であるミンギルもまた、なぜ自分がテウォンに致命的な一撃を加えてしまったのかわからず動揺していた。

「いや、違う。何でこんな……」

 血のついたナイフを放り捨てて、ミンギルはテウォンに駆け寄った。

 ミンギルが慌ててテウォンを抱き上げると、少し前よりもさらにやせ細った身体は撃たれた兎のように軽かった。

 どうやらミンギルはテウォンの胸のあたりを刺してしまっていて、兵士になってから習った簡単な医学の内容を思い出してみても、テウォンに追わせた傷はどうにもできないように見える。

「しまったな……」

 ミンギルの表情を見て、理由はわからないけれども突発的な事故のようなものが起きたのだと理解したらしいテウォンは、おそらくあまりミンギルを責めないようにしているのであろう様子でつぶやいた。

 つらいことなのか、それとも幸せなことなのか。ミンギルがナイフでテウォンに取り返しのつかない傷を負わせてしまってから、二人の関係は元に戻ったように思えた。

 ミンギルは溢れる血をどうにもできないとわかっていながらも、傷口を手で抑えた。
 血は生温かく、かすかに雪が混じった風は冷たかった。

 テウォンは自分が死につつあることを受け入れていて、自分が想像できる死因の中では比較的楽な方であることに安心もしているらしく、力なく微笑んだ。

「ちょっとだけ、失敗しちゃったな……。俺達……」

 咳き込み血を吐きながら、テウォンは残り少ない言葉を紡ぐ。
 楽しいこともつらいことも、何ごとも分け合って生きてきた二人だから、失敗も一人ではなく二人のものであるはずである。

 そうテウォンが伝えようとしていることに気づいたミンギルは、テウォンのぐったりとした身体を強く抱きしめた。
 ミンギルの大きな身体の下でテウォンは、本当にすべてが消えて無くなってしまいそうなほどに小さく感じられる。

「ごめん。おれはただ、テウォンをこんなところから連れ出したくて」

 ミンギルの頬を流れる涙が、凍える寒さにすぐに冷えて地面に落ちていく。

 ある意味で、ミンギルは本当にテウォンを争わずにすむ場所へと連れ出していた。
 ただしその場所は死と痛みが導く終局で、ミンギルが償うことのできない罪を背負い、テウォンと永遠に別れることを意味している。

 声の調子でミンギルが泣いていることに気づいたテウォンは、その涙を拭おうとして頬に触れた。
 しかしテウォンの手はもうほとんど力が残っておらず、すぐに離れて落ちていきそうだったので、ミンギルは自分の手を重ねて頬に引き寄せた。
 頬も服もテウォンの血で汚れたけれども、ミンギルは何も気にならなかった。

 テウォンはまだ見えているのかどうかわからない大きな瞳にミンギルを映して、途切れ途切れに囁いた。

「いいよ。わかっとるから。でもやっぱりお前を残して死ぬのは……」

 最後の方はほとんど吐息のような大きさの声で、それでもテウォンは今際の言葉を最後まで言うことはできなかった。
 ミンギルはテウォンの手に小さな震えが走ったのちに完全に力が失われるのを感じ、その目から光が消えるのを見た。

 瞬きもせずに開かれたままの目を見るのがつらかったので、死後の世界があるならそこが平穏であることを願って、ミンギルはテウォンのまぶたをすぐにそっと閉じさせる。
 幸い、目を閉じていれば眠っているように見えないこともない死に顔だった。

 だがもうテウォンはミンギルにいろんなことを教えてくれた明るい声で話すことはないし、ミンギルよりは感情豊かだった表情が変わることもないし、その手の細い指がミンギルの手を握り返すこともない。

 根拠もなくそうだと信じていた二人一緒に死ぬはずだという未来は訪れず、ミンギルの手によってテウォンの命は終わったのである。

(おれは一人ぼっちになったんだな)

 ミンギルはテウォンの身体を地面に置いて、改めて自分の置かれている状況を考えた。

 親の顔も知らないミンギルは、テウォンが死んだらいよいよ本当に孤独である。

 しかしまだテウォンに息があったときには後悔や絶望が大きかったが、もう死んでしまった後には、妙な落ち着きが残っていた。

 ミンギルはテウォンとお互いを大切に想ったままでいられて、殺してしまってつらいと思えたことにほっとしてもいたし、それはそれとして一人で生きていくこともできるという確信があることに納得してもいる。

 別れが苦しさは二人の心が離れたわけではない証拠であり、命を奪ってしまったことを後悔できるのはミンギルが本質が残酷ではないからこその救いである。
 同時にミンギルは、自分が兄弟よりも親友よりも近しい存在を殺して立ち直れる程度には善人ではなかったことが悲しかったし、それゆえにこそ自分の方が生きているのだという実感も持った。

 だからミンギルは手についた血をテウォンの軍服の汚れていないところで拭うと、持ってきていたテウォンの荷物から必要なものだけを抜き出して、自分の背嚢リュックに入れた。
 そして最後にまだ温もりの残っているテウォンのひたいに口づけをしてから立ち上がり、誰よりも見慣れたその賢かった顔を名残惜しく見つめてから、背を向けて歩き出す。

 眼の前には雪深い山嶺へと続く道があるが、昔から険しい山道を歩くのが得意だったミンギルにはその道を踏破して生き延び、軍を脱走しても何とかやっていく自信があった。

 ミンギルは朝を迎えて白んでもなお暗い、粉雪を舞い散らせる空を見上げて、唐突に育ての親に近かった老人のことを思い出した。

(おれは昔おじいさんが語っていた牛の話のように、理不尽にも負けずに生きていきたい)

 老人が意図した教訓はほとんど忘れたミンギルは、自分の都合のよいように意味を付与し、自分の中で牛の昔話を語り直しながら山道を進んだ。

 眺めの良い場所に来たところでふと振り向くと、宿営地の外れの空き地で一人の男が手を振っているのが見えた。
 どうやらその人物には山を登るミンギルの姿が見えているらしく、遠くへ立ち去ろうとするミンギルを見送っている。

(あれは絶対に、分隊長だ)

 はっきりと見えているわけではないのに人影がジョンソだとミンギルがわかるように、ジョンソもまたきっと山を登っているのがミンギルだとわかっているのだろうと、ミンギルは思う。

 ミンギルが脱走していることは明らかで、それはおそらく上官であるジョンソにとって面倒なことのはずだったが、それでもジョンソはミンギルの旅立ちを祝福してくれていた。

 重大な場面では人間性を疑いたくなるようなことしか言わないのに、微妙なところでは意外と思いやりがあるジョンソのことを、ミンギルはやはりどちらかと言うと好きなままでいる。

 だからミンギルは朗らかな気分になってジョンソに手袋をはめた手を振り返して、また歩き出した。

 滑り止めをつけた軍靴で山道を踏みしめれば雪が砕ける音がして、深く呼吸をすれば鋭い冷気を鼻に感じる。
 ミンギルはそうした五感に感じる冷たさに、心地よさを覚えていた。
 自由というものは孤独で冷たいからこそ価値があるのだと、ミンギルは今この瞬間に肌で知る。

 国が宣伝し教育するものとは違う、本当の自由の意味がわかったミンギルは、結局戦争で大切な存在を失っていても、故郷の領主の屋敷で奴婢扱いされていたころに戻りたくはならなかった。

 隣にはテウォンがいて、毎日食事にはありつけて一応は平和だったとしても、その日々が続くことが幸せだとはミンギルは思わない。
 ミンギルはつらく困難なことがあったとしても、山の向こうにあるものを、そして海の向こうにあるものを知りたかった。

(戦争がなかったら二人でずっと一緒にいられたのかもしれんし、ひょっとすると逆にいなくなるのはおれだったのかもしれんけど)

 生きている時代が違えば、きっとミンギルの方が上手くは生きられない役立たずで、テウォンの方が器用で世間で必要とされる存在になっていたはずだった。
 しかしありえたかもしれない未来について考えても、結局二人が生まれた時代には戦争があって、ミンギルがテウォンを殺した現実を変えることはできない。

 テウォンと違って物覚えが悪いミンギルは、これまでたくさんのことを忘れて生きてきて、きっとこれからも多くのことを忘れる。

 それでもミンギルは、この先いろんなことを忘れたとしてもテウォンのことは絶対に忘れず、けれども好きなように生きてみせると心に決めた。

〈完〉



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参考文献

国立国語院編(三橋広夫・趙完済訳)、2006、『韓国伝統文化事典 : カラー日本語版』教育出版
金渙著、2000、『韓国歳時記』明石書店
林鍾国(朴海錫・姜徳相訳)、1987、『ソウル城下に漢江は流れる : 朝鮮風俗史夜話』平凡社
銀城康子・いずみなほ・星桂介、2007、『韓国のごはん』(絵本世界の食事 3)、農山漁村文化協会
金元祚、1984、『凍土の共和国』亜紀書房
李大鎔、1968、『38度線 : 痛哭する勝利者』朝雲新聞社
デイヴィッド・ハルバースタム(山田耕介・山田侑平訳)、2012、『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上・下』(文春文庫)、文藝春秋
歴史群像シリーズ編集部編、2007、『朝鮮戦争 : 38度線・破壊と激闘の1000日』 (新・歴史群像シリーズ 8)、学研プラス

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