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「撮影」について

 前回、「遠景」掲載後にこのようなエッセーを上げたので、その慣例に従って。
 写真は、写真自体の美しさはもちろんのこと、反射による写り込み(「二」性とでも言おうか)と、被写体の方が撮影者の方の愛する女性というところに惹かれて。

 思いつくままに、この小説を書いているときに思っていた(と考えられる)いくつかの要素を書いていきたいと思う。所詮、自分のためのメモ。もっとわかりやすいようにしないとダメだろう。


この小説でやってみたかったこと

 極限的な状況の中に登場人物たちを放り込んで、そこで彼らが何を起こすのかを見てみたかった。現代日本の、若者たちの、その日常の中で、極限的な状況とは、性の場しかないのではないか、という安易な思いつきによる。

 その一方で、人生が順調に進んでいる(と思われている)男が、素っ裸で、他人に見られながら泣き出してしまう、という場面を書きたかったというところもある。そんなことが起きるのは、上で見たような極限状態であろう、という、一応この小説が書かれる過程を事後的に語ろうとすれば、なるだろう。


・その他の要素

 恋愛小説であり、いじめ小説。

 そしてこれは私小説だ。発表媒体(大学の文芸サークルの新歓号)の性質を考慮して、徹底的に「本当にあったこと」のルポルタージュのような装いをする。
 そして主に前半では、私小説によく見られるような、饒舌な調子が用いられる。概念的な内容や、広い時間の間に起きたことを要約的に述べる際に使われた。
 後半では淡白で個別的な語りが多くなる。副産物的に、細かい事実への注目も増える。

 そして、「信頼できない語り手」という要素もある。このことがうまく表現できているかは、厳しいところだと思う。ラストの部分を丁寧に読めば、冒頭からの「(登場人物としての)直嶋」の語りがおかしいことがわかるはずだが……。

「信頼できない語り」を標榜することで、少し無防備に、「破局」が起きるまでの「山崎さん」の人物像をかなり性的なものとして読み得るようにしてしまった、という反省が残る。もっと明確に彼女の煩悶、苦しみをわかりやすく書くべきだったと考える。


・まとめ

 嘘つきの語り手と、それに虐げられる男、そしてそれを知っているにもかかわらず、いや、知っているからこそ一応その状況に従って行動しようとするその彼女。随分おかしな物語だな、と思う。

 最後は、そんな悪人の語り手から離れ、彼女はこれまで語られていたどんなこととも全く関わりのない、彼女だけの方法で、彼との時間を過ごす。そこに癒しが存在できていれば、個人的に嬉しい。

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