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遠景(1/4)

 老人が今夜見る夢でも娘は生きているだろう。彼は最近、若かったころの夢をよく見る。それは、まだ妻が生きているばかりでなく、もっと昔、一家団欒のころの夢だ。まだ娘は生きていた。彼女にまつわる何かを思い出すという行為が、もうほとんど意味を持たないようになってから、何年が経っただろうか。限りなく繰り返されたということだけでなく、繰り返したその日々も共に折り重なって、老人には、もはや改めて意味を考えることは難しかった。確かにそれは起きたのであり、そのことそのものにおいては、もう何も起きていないのと変わりなかった。

 老人が振り返ると、長男は足を少し引きずっていた。別にけがなどしていないのに。大きな赤いリンゴのクッションがカーペットの上に置いてあって、長男はそこに座った。それは彼のものではなかったはずなのに。それは持ち主と一緒に消えたはずだった。それを思い出して老人は、これが夢であることがわかった。どうして長男が足を引きずっているのかもわかった。それから三々五々、高校生たちが老人の家にやってきた。そのたびに、奥の部屋から人の本当に泣く声が聞こえた。今日の夢は、よくあるものとは少し違った。

 今日も四時三十二分に目が覚めた。今日も、と思ったが本当に昨日も同じ時刻に目が覚めたのかどうか、老人にはわからない。老人はポットの中の古くなった水を捨て、ガラスのコップで水道水を汲んで新たに注いだ。五杯注いだ。ポットのふたを閉めて、スイッチを入れ、近くの椅子に腰かけてお湯が沸くのを待つ。毎朝自動で起動するエアコンのおかげで暖かい。エアコンの作動音と、ふつふつとお湯の沸く音だけが家に響く。老人は、閉めきられたカーテンを見た。いつから使い続けているのかわからないカーテンが、真っ暗な外と老人の家を隔てていた。テレビはあるが、その前に物が置かれているため、老人はめったにテレビを見ない。来客はない。虫が出ることもない。この家には、変化はもう起きない。すべての変化は、長い年月の結果、この家から出て行ってしまった。

 高く、明るい色の音がしてお湯が沸いたようだった。老人は、両手で椅子をつかんでゆっくり立ち上がった。焦点が部屋の中を流れる。

 外に出ると空が白んできた。いつも着ている、五年前に息子夫婦が買ってくれた深緑のジャンパーを着て、いつも歩いている道を歩く。二十四時間営業のハンバーガー店に入る。

 席についてハンバーガーを食べていると、通りに朝陽が差してきた。勤め人や、ジャージ姿の若者たちが足早に歩いていく。見知った年寄りたちが、いつもの場所に座っていく。

「おはようございます」
「おはよう」
……

 目を覚ますと、老人は誰かが運転する車に乗っていた。車が走っているのは、家の近くである。寒い冬だ。寒いと思って両手を揉んだ。運転している誰かが、何かを言った。隣では妻が泣こうとしていた。泣くぞ、と思った。どうやら自分はこの先の展開を知っているようだった。泣くぞと思った後、やはり彼女は泣きだした。手足がひどく冷たい。なんだかあほらしい。

 この車は、老人には見覚えのない車だった。忘れただけかもしれないと思ったが、彼がこれまでに買い、そして一遍に売り払った車三つの、どれとも重ならないようだった。家の方に向かっているようである。車は、交差点に差し掛かった。

 ひどく苛立ってきた。運転手の運転が嫌にゆっくりで、丁寧で、なかなか交差点を通過しなかったためだ。タイヤの通る軌跡の一センチ一センチを気にしながら運転しているかのようだった。いやらしい運転だと思った。老人は、いっそ何か運転手に言ってやろうかと思ったが、そうすると妻はもっと激しく泣くので、どうしようかと思案した。そうやって老人が迷えば迷うほど、先ほどから聞こえている音楽が音量を増してくるのである。音楽。車内に響くのは、暖房の作動音と妻の泣く声だけだった。老人は窓にもたれて、かすかに流れていく交差点の風景を見ながら、これは自分の頭の中で響いている音なのだと考えた。ディラン効果というはずだ。学生のころ、この現象を題材にしてレポートを書いたことがあった気がする。老人は、そのゆっくりとしたメロディを聴きながら、パヴァーヌだな、と思った。

https://www.youtube.com/watch?v=1QZfK9O3wOM。

「亡き王女のためのパヴァーヌ」。

 昔よく聴いていた。それはオーケストラによるものだったはずだが、いま聞こえているのはピアノによるものだった。老人が曲の名前を思い出したころになると、ようやく車は交差点の真ん中を通過した。このまま右に曲がっていくと、緩やかに下った大きな道に出る。開けた景色が見えてくるはずだ。その道の、右側。老人の家のある方向に向かって、確かに右側の方だった。そこにある光景を彼は目にしたが、それが記憶される直前に、老人は誰かに肩を揺すられて夢から醒めてしまった。

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