「私の話は誰も聞いてくれない」という思い込みの中で生きてきた私の小さな実験
何個か前の記事で「2024年3月に読んだ本」というのをアップしました。
その中で「13歳からのアート思考」という本にめちゃくちゃ感銘を受け、こんな記述をしていました。
それで、実際にその会をやってみました!
所属しているオンラインサロン内というクローズな場ではあったのですが、「本の内容をシェアして、一緒にワークをやってみる会」なんていうのは私の人生史上初めての試みでした。
それだけこの本が面白かったということもありますが、どちらかというと自らシェアしたり、自ら話したりというのを避けてきた人間である私が、なぜ今回このような場を開こうと思ったのか。それはちょっとした私の中の実験でもありました。
話の主導権をいつも奪われる
自ら話すことを避けるようになった原体験は明確に覚えています。
小学四年生の時。学校から帰った私は、学校でのことを母に聞いてもらおうと話しかけます。でも、まだ話の大事なところまで到達しないうちに、いつのまにか話の主導権が母に移っているのです。母はそのことにも気づかないようすで自分のしゃべりたいことをしゃべり倒して、満足そう。
こんなことは日常茶飯事で。「あぁまた今日もお母さんの話になった」とその度に残念な気持ちになっていたのですが、この日を境に「お母さんに学校の話をするのはやめよう」と決めました。
そのおかげで「話の主導権を奪われて悲しい」ということは無くなりましたが、「私の話は誰にも聞いてもらえない」という思い込みを強く持つようになった気がします。
声が小さい、通らない
思い出そうとすると色々出てきます。
私は割と声が小さくて、通らない方なので、実際に友達複数人と話している時に会話に加わろうと声を発しても聞き取ってもらえないことがあります。それはとても恥ずかしくて、開けた口をどうにかごまかそうとあくびをする真似をしたりと、きっと傍目に見たら不自然な動きをしていると思います。
会話の中心にいる人は、大抵、声が大きくてよく通る人。私はそれとは逆なので、3人以上の会話では聞き役に回ることが多かったし、その方が楽だと感じていました。
グサッと刺さる一撃のワード
口論も得意ではないので、兄弟喧嘩ではグサッと刺さる一撃のワードで相手を攻撃する作戦をとっていました。
妹は私とは逆で声の大きい方だったので、妹を一発で黙らせるような嫌な言葉を練って練って投げていたように思います。
小学校や中学校という場でも、誰かをからかうことで注目を浴びようとすることがありました。
他の子が思いつかないような変なからかい方をして、裏目に出て、めちゃくちゃ反省して、、、ってことが記憶の中だけでも一度や二度ならずあります。
こうして書いてみると、子供の頃の私はなんて不器用だったのでしょう。聞いてもらいたい。でも、聞いてもらえない。その葛藤から随分とひねくれた行動に出ていたと思います。
私の話を聞いて!私を見て!という叫びを、だいぶこじらせてきたようです。
写真と文章という形での表現
写真とブログを始めたことは、そんな私にとって転機でした。
2012年頃から写真に本格的に取り組み始め、それとほぼ同時にブログを立ち上げ、少しずつ「写真」と「文章」という形で自分を表現することを続けてきました。
大勢の前ではおとなしくなってしまう私だけど、写真の世界では「自分、どやっ!」と堂々と自分を表現できていたと思います。誰になんと言われても私はこれがいいんだ!というのを、写真を通してなら言えました。
文章についても、文章にする過程で初めて思考の整理ができるので、じっくり考えながら自分の気持ちや考え方に気づいていくプロセスはとても私に合っています。文章なら、その場のノリで相手に合わせた発言をしてしまうこともなく、まっすく自分にアクセスできる感覚があります。
大人になった私は、「私の話を聞いて!」という欲求を自分なりの方法で満たしていけるようになっていました。
リアルタイムの双方向のやりとり
写真や文章もすごく素敵な表現方法だけど、会話と比べるとどうしても一方通行というか、反応をいただいたとしてもタイムラグがあります。
今まではそれで良かったというか、それが心地よかった、安心だったのですが、最近の私は、「ちょっとダイレクトに反応を得てみたいぞ?」と今までになかった気持ちが湧いてきています。
そこで今回の本のシェア会開催に至ったというわけです。
場づくりを介した表現
本のシェア会では、その場でダイレクトに帰ってくる反応があって、すごく高揚感を覚えました。それは一人で本を読んで感じた高揚感とは比べ物にならないものでした。実際そのときに脈拍や体温をはかっていたら、以上な数値が出ていたと思います(笑)
「私の話を聞いて!」という欲求を、今度は自ら場を作ることによって満たすことができました。これは、ずっとこじらせてきた私にとってある意味実験でした。
私に限らず、誰もが聞いて欲しい思い、表現したいものを持っていると思います。そして、それをくすぶらせてしまっている人も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
私はそんな人や自分にとって、なにか表現するキッカケだったりとか本来の力を発揮するキッカケを作っていきたいのだなぁと、このシェア会の開催を通じてあらためて感じました。
まだ一回やっただけですが、すごく学びが大きかったです。できれば何度かいろんな場を開いていきながら、その可能性を模索していきたいと思います。
今日も読んでくださりありがとうございました!
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