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なぜ「まっちゃまち」か?(その3)

 前回まで、昭和までの松屋町について述べてきたが、さらに現代の松屋町について述べていきたい。

合区と松屋町住吉

 平成元年の合区により大阪市中央区となり、松屋町と住吉町も「松屋町」となる予定であった。しかし、祖母を含めた住民が「住吉屋藤左衛門の名前を消すとは何事か」と猛烈に反対し、住吉町は「松屋町住吉」となった。
 住吉屋藤左衛門とは17世紀末ごろに南組惣年寄として住吉町を開発した人物だとされている。住吉屋藤左衛門は大阪でも決してメジャーな存在とはいえず、私も祖母と母以外から聞いたことはない。住吉町が消えていたら、永遠に忘れ去られていたと思う。

住居表示により抽象化した地名

 昭和37年、住居表示に関する法律が施行され、行政の能率化のため地名の変更が頻繁にされることとなった。平成10年には郵便番号が7桁に変更され、地名のナンバリングが行われることとなる。地名は、土地の歴史、住民のコミュニティという意味が薄れ、しだいに数値化された抽象的な記号、単なる座標軸として、扱われつつあるのではないか。

消えた大坂町人

 住居表示実施以前の大阪の地名は、江戸時代から続いているものが多い。その中には数多くの町人の名前が残されていた。メジャーなところでは、淀屋辰五郎(淀屋橋)、岡田心斎(心斎橋)、成安(安井)道頓(道頓堀)、
堀久太郎(久太郎町)、山口屋宗右衛門(宗右衛門町)などがある。しかし、播磨屋久左衛門(久左衛門町)、青木半入(半入町)など数多くの町人ゆかりの地名が消えてしまった。鰻谷、周防町といった伝統ある地名も失われた。
 ただ、電柱についている電柱番号の区域名は、町名が変わっても変更されないため、まれに旧地名を見つけることができる。

大阪市電と高津原橋

 明治41年、大阪市電東西線の九条中通一丁目 ~末吉橋間が開業する。さらに、明治43年、末吉橋~上本町二丁目間が開業。このとき、長堀通の急斜面を市電が登り切れなかったため、長堀通が開削されることとなった。そのため、松屋町の東側は南北が分断されて、大きな谷ができることとなった。
 松屋町交差点の東側に今も長堀通を空中で跨いでいる橋がある。これが高津原橋で、南北に分断された松屋町をつなぐために架けられたとされている。
 ただ、大阪市電も昭和36年にトロリーバスに転換され、さらに昭和44年に廃止となり、市バスのみが唯一の交通手段となる。

地下鉄の開通

 平成8年、地下鉄延伸により長堀鶴見緑地線「松屋町」駅が開業する。松屋町筋で唯一の駅である。谷町六丁目との駅間距離は0.4km。京阪滝井~土居駅間が418mなので、大阪でも最短に近い駅間距離となっている。そのせいか、利用人数が長堀鶴見緑地線で最少である。駅のデザインテーマは「人形とおもちゃ」、人形のディスプレーがよく目立つ。
 同時に、バス停も末吉橋から松屋町と変わった。アクセスは以前よりかなりよくなった。

松屋町の未来

 商店街をめぐる状況も刻々と変化している。消費者の嗜好の変化、市場のグローバル化、インターネット取引の急増、さらに感染症の蔓延と、ひと昔前には考えもしないことが当たり前となっている。
 人形店の数も減少し、平成28年には福板屋も閉店となる。商店街の一部もマンションや駐車場へ姿を変えつつある。私の祖先の土地もすでにマンションが建っている。
 金融機関も太陽神戸銀行(現三井住友)、大和(現りそな)、相互信金などがあったが、すべて閉店した。唯一残っていた大阪商工信金本店も平成29年移転し、郵便局のみとなった。
 この先、松屋町がどうなるかは私にもわからない。ただ「まっちゃまち」にこめられた大坂商人の魂だけは消えないでほしいと願うばかりである。
(終)