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細川藤孝で考える🤔したたかなプリンス(貴公子)とは?~前編~

細川藤孝(幽斎)、その男は戦国時代の中でも、かなりしたたかである。

彼は三淵家という足利将軍近習の名家に生まれ(将軍御落胤説等、諸説あり)、その教育と血統により、学識・教養高く、武勇に優れ、容姿も端麗だったに違いない。

☝️細川藤孝(幽斎)の顔グラと優秀なスペック!名将と言って間違いない!

が、その人生は決して平坦ではない。若き日は京から追い落とされた将軍と共に、朽木(今の滋賀県大津市の山中)に長く潜伏したり、北陸の朝倉家や近江の六角家に世話になる為にその調整役も担っている。

この朽木潜伏中には、夜間の勉学の為に、灯す油がなく、神社から無断で拝借していたところを見つかり、説明して謝罪したという逸話もあるようだ。(田辺城資料館説明文より)。苦労知らずのプリンス(貴公子)ではない。

その後、友でもあった明智光秀の取り次ぎもあり、将軍は織田信長の力を借り、京へ戻っている。

☝️恐ろしく高いスペックを持つ友人、明智光秀!天下を狙いたくなる気持ちもわかる?

この頃、残念ながら今まで支えてきた将軍足利義昭は、京で織田信長と不仲となり、細川藤孝は信長の配下に鞍替えしている。

この時から、明智光秀の与力的な立場になっているが、心中はいかほどであっただろうか?もちろん、出自や教養を考えると、彼が若き頃の羽柴秀吉や柴田勝家に承服し与力として仕える可能性は低い。明智光秀の与力だからこその鞍替えとも言えなくはないが、その先見性と決断力は尋常ではない。

その後、明智光秀と共に、丹波・丹後地方の攻略に取り掛かり、一度は丹波の赤鬼こと、黒井城🏯の赤井直正に撃退されるものの、赤井直正病死後の再攻略にて、最終抵抗拠点的な立ち位置の八上城🏯・黒井城🏯を陥落。八上城城主、波多野秀治は処刑。丹波・丹後地方の制圧を完了させている。

明智光秀・細川藤孝のコンビを撃退する程、なかなかのスペックの持ち主、赤井直正!

波多野秀治のスペックは全体的に低めだが、一年以上も明智・細川軍を籠城により停滞させ、なお辞世の句では、「あの世でやり返す」と謳うファイティングスピリットの持ち主!武勇の値はもう少し高くても良い。

ちなみに私的には、この丹波・丹後地方攻略のストーリーこそが、明智光秀の武将としてのメインになるべき部分と思っていただけに、以前の大河ドラマ「麒麟がくる」では、サラッと流されたことが残念でならない😢

この、明智光秀・細川藤孝コンビによる、丹波・丹後制圧により、光秀は丹波一国を藤孝は丹後半領(一色家が半領所有)を統治することになった。

この頃が、明智家・細川家にとって、最も幸せな時期だったのかも知れないのだが、あの戦国時代を激変させる「本能寺の変」が、今まさに起ころうとしていたのだった…💧

続く


きつたん