コラム「境を越えた瞬間」2023年7月号-西留美子さん‐
プロフィール
西 留美子(にし るびこ)
帝京平成大学ヒューマンケア学部看護学科 地域・在宅看護論領域 准教授
訪問看護師時代に出会った在宅ALS患者さんの生活や在宅重症心身障がい児のことを看護学生へ伝えたいという思いで、教員になりました。
現在、教員として少しずつ、在宅ALS患者の方々と学生をつなげるお手伝いをしているところです。
「桜は命がつきるまで散らないんだよ」
桜満開の春の日にA氏と妻(奥様)、娘さまと一緒にお花見に出掛けました。3人はおそろいのアロファシャツを着ていました。
あいにくの突風で、桜吹雪の中、車椅子を押す訪問看護師の私は何度もふらついてしまいました。
A氏は、ALSの診断後わずかな期間で人工呼吸器装着となりました。
A氏の文字盤は「あ」と言ったら「足の位置」、「き」と言ったら「吸引」など、こちらが悟って素早く行動に移すことを望まれるものでした。つまり、会話は短文どころか単語、頭文字のみで、最後の1文字まで読み切るという私の習慣は覆されました。
私が訪問を始めて、3回目の春に初めて家族との外出が叶い、それが突風の中のお花見となりました。
それまでの外出は、訪問看護師と近所のお寺へ行くのみでした。
A氏は人と会う外出を拒み、家族は外出すること自体に反対でした。加えて、ヘルパーも訪問看護師も定着率が低く、外出支援体制が十分整わない状況でした。
その様な中で、「や」・・・「やること(洗髪・清拭)をやって」、「さ」・・・「さっさと」、「か」・・・「かえれ」などの指示があり、文字盤を読むことがつらい時期が続きました。
外出をする意味があるのか・・と何度もくじけそうになりました。
しかし、そのくじけそうな気持ちを常に支えたのは、「退院したら外出をしたい」というA氏の言葉でした。
入院中のA氏の思いをヘルパーが読み取り、私たちに伝えてくれたのです。
その思いに応えるべく外出支援を続けていたものの、A氏からは外出に対しての感想や感謝の言葉はありませんでした。
「バイタルサイン測定→洗髪→清拭→外出」を何度も繰り返し、3年目の春がきました。
その日はA氏の妻(奥様)がすでに着替えを用意していました。
「これ買ってきたの。今日の外出にみんなでアロファシャツを着ていこうと思って、着替えはこれでお願いします。」と。
いつものお寺とは逆方向の桜並木を目指して出発です。
玄関を出てすぐにご近所の方に声をかけられました。
「奥さん、どうしたの?!!」
A氏の姿に驚いた様子でした。
A氏の妻(奥様)は「夫です」とA氏を近所の方々に紹介し、ご挨拶をしながら桜並木に到着しました。
A氏の顔に桜の花びらが舞い散るので、私は「せっかくの桜が散ってしまいますね」と話しかけました。
「さ」・・・・と文字盤で示すので、さっさと行けということかな?と思い「すみません、行きますね」というと、
「桜は命がつきるまで散らないんだよ。はかなそうに見えて、しっかりと木にしがみついているんだ。今散っているさくらは、命をまっとうしたんだね。」
と・・・。
突風が強すぎて文字盤をA氏の額に何度もぶつけながら、読み取りました。
その時、私は、A氏とそのご家族に対して、「ありがとうございます」という思いがこみ上げてきました。
私が境を越えた瞬間です。