正論は正しいけど、救われるとは限らない。
会社員1年目の夏のことだ。
常に「なんでこの会社に入ったんだろう…?」という漠然とした悩みを抱えていた僕は、暇さえあれば転職の情報をチェックしたり、もっと楽しそうに働いている人のブログを読んだりして、今の延長線上には存在しない未来に思いを馳せていた。
職場に馴染みたいと本気で思っていたわけでもないのに、その場を取り繕うためだけに馴染もうとするものだから、空回りになってしまい、虚無感しか感じない。
新人だから仕方がないのだが、仕事が面白いわけでもないし、その場所での仕事が面白くなりそうな予感を感じることもできないし、行き場を失ったエネルギーを持て余すような日々が続いていた。
そんな時に、色んな人にアドバイスを求めたり、色んなWEBサイトを閲覧したりして、解決策を手に入れようとすると、決まって「正論」が僕の前に立ちはだかった。
例えば、とあるブログを読んでいたら、
会社が嫌だってうじうじ言ってるのってヤバくない?
だって、君が望んで「御社に入社させてください」って頼んで、会社から許可をもらって入社させてもらったのに、ちょっと嫌なことがあったくらいで「やっぱり辞めたい」って身勝手すぎるでしょ。
そもそも会社だって採用活動にも新人教育にも莫大な費用がかかっているんだから、すぐ辞めたいとか舐めてるよね?
と書かれてあり、ぐうの音も出なかった。
また人生の大先輩である父に相談をすると、
仕事っていうのは別に面白いものじゃない。
どんな華やかそうな仕事にも辛い側面はあるし、大事なのは仕事を楽しむために工夫をすることだ。
その意識がないと、何をやっても上手くいかないぞ。
とアドバイスをされたが、「いや、それはわかってるけど…」としか返すことができなかった。
正論は常に正しい。それは間違いない事実だ。
現に今の自分の視点で、当時の僕の悩み(というか、ほぼ身勝手なワガママなんだけど)と、それに対するブロガーや父のアドバイスを比較検討してみると、間違いなく共感するのは後者の方だ。
むしろ、当時の自分に対しては正直イラっとする。
ただ、当時の自分の気持ちが間違っていたかというと、決してそういうわけでもなくて、そういった色んな正論が正しいとわかりながらも「いや、でもそうじゃないんだよ…!」という本音の感情が優っていたのだと思う。
そもそも、人の感情は常に不合理なものだ。
客観的に見て正しいものが、特定の誰かにとっても正しくなる確率は100%ではないし、そもそも人の数だけ正しさも存在するのではないだろうか。
正論で救われるなら誰も苦労はしない。
世の中に存在するあらゆる悩みや問題や不安は瞬時に解消され、みんなにとって暮らしやすい世の中になっていることだろう。
多くの人の悩みが絶えないのは、みんなが正論をわかっていないから、正しい概念や物の見方や考え方を知らないからではなく、その人たちが抱える「誰も自分のことをわかってくれない」という思いが原因なのではないだろうか。
正論は常に正しい。だけどそれで救われるかというと別問題だ。
「望んで入った会社を嫌うなんてあり得ないよ」とか「仕事をどう楽しむかが社会人にとって重要なんだ」といった正論では救われなかった僕が救われたのは、同じように「会社が嫌で嫌で仕方なかった人」や「仕事の楽しみ方がわからなくて、環境や働き方を変えた人」との出会いだった。
そういう、自分の心を理解してくれる人たちと出会い「その気持ち、わかるよ」と肯定してくれる。その上で「じゃあこういう風に人生を変えていこうか」と道を示してくれる。そんな出会いによって、僕は自分の人生を前向きに歩いていけるようになった。
本当に辛い時、一番大切なのはまるで最大公約数のような正論ではなく、その心に深く寄り添い、肯定してくれる人の存在なのだと思う。
もちろん、誰かの本音に心から肯定できる人との出会いなんて、そんなに簡単に転がっているものではない。口先だけの「わかるよ。君の気持ち」なんて何の価値にもならない。
だからこそ「自分を心から理解して肯定してくれる人」に出会えたら、その出会いは奇跡だと思うし、ずっと大切にし続けていくべきものなんじゃないかと思う。
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