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病と共に生きる

 大動脈弁狭窄症という疾患をご存じだろうか。中々聞きなれない病名だと思う。だが、実は「80歳代の高齢者の8人に1人は、この病気を患っている。」といわれるほどの、コモンディジーズなのだ。この病気は、自覚症状が乏しいことが多い。そのため、発見されにくいという特徴がある。
 その理由として第一に、一般的な健康診断で行う血液検査ではまず見つからない。心電図検査においても、(熟練した)循環器内科医でなければ、大動脈弁狭窄症の可能性を拾い上げるのは至難の業といっていい。
 第二に、高齢者に多い疾患であり、自覚症状がないため、高齢者が必要性を感じず、受診行動につながらない。例えかかりつけ医がいたとしても、正しく心臓弁膜症の重症度を評価できる医師が、この疾患の有病率に対し、圧倒的に少ないと思う。
 第三の理由。主観的な感覚の意見だが、これが一番の理由だと思う。患者に無関心な医療従事者が、驚くほど多い。患者に無関心な医師、看護師、理学療法士、ケアマネージャー。そして患者の家族。無関心がゆえに、心雑音や浮腫み、自覚症状の増悪といったサインに全く気付かない。いや、本当は気付いているのかもしれない。気付かないふりをしたいのかもしれない。行動を起こさない自分たちを、患者に無関心である自分たちを、認めたくないのだろう。
 少し前、大動脈弁狭窄症を患っている患者を担当していた。認知症もあり、一人で外出しては転倒を繰り返している人だった。最初は、訪問看護を導入することにも強い抵抗意識があり、「そんなことは頼んでいない。必要がない。」と連日拒否が続いた。しかし根気強く自宅へ通い、声をかけ続け、アプローチし続けた。1か月程度経過し、徐々に訪問看護師を受け入れてくれるようになった。笑顔をむけてくれるようになった。一緒に将棋を打てるようになった。
 私は、彼が抱える大動脈弁狭窄症という疾患を、然るべき医療機関で治療してもらいたかった。
 しかし、周囲はそうではなかったらしい。かかりつけ医も、唯一の家族である娘様も、訪問看護師の言葉を聞き入れなかった。無視をしていたのではない。無関心を決め込んでいたのだ。「大丈夫だろう。」「急変がおこることはないだろう。」「もう少し、放っておこう。」惰性、無関心、興味のなさ。彼は孤独だったと思う。
 癌と比較し、循環器疾患はある意味では(治療や自己管理によっては)可逆的である、という大きな違いがある。誰が治療するか、誰が看護するか、誰が、正しい情報を発信し続けるか。それが患者の予後を大きく変える。
 ある日、近所のスーパーで、彼の心臓は極限状態になった。突然意識を失い、救急搬送先の病院で、彼は一人で亡くなった。苦しかったに違いない。恐ろしかったに違いない。孤独だったに違いない。なぜ、救えなかったのか。彼は、然るべき治療を受け、然るべき看護を受け、然るべき社会的サポートを受けるべきだった。まだ、未来があったはずだった。家族との時間を過ごし、趣味の将棋をうち、安楽なケアを受け、よく眠り、よく食べ、穏やかに生活する。そんな未来が、彼にはあったはずだった。
 病気に対する無関心さは、人の命を蝕む。助かるはずの命が、不本意な形で終わりを告げる。治るはずの病気が、気付かぬ内に、静かに、しかし着実に、進行していく。
 心不全患者は、"病期の予後を軽く捉える"と言われている。癌とは違い、社会的な認知度が日本ではまだ、圧倒的に低いせいもあるだろう。そのせいで、心臓の病気を患っている人の、不本意な死がなくならないという現状がある。しかし、患者が亡くなった後にご自宅へ弔問に伺うと、家族は決まって「後悔」という言葉をこぼす。私たちは、黙して相手の言葉をただ聴く。聴くことしか、成すすべなはない。責めることも、慰めることも。
 人の命は、いつ、どうなるかはわからない。癌、脳血管疾患、循環器疾患、事故、事件、災害、心の病。みんな同じことだ。誰にも予知できないし、誰にも操作できない。未来には保証などなく、明日、不条理な死があなたの大事な誰を奪っていくかもわからないのだ。
 命は尊く、儚く、ある意味ではあっけなくさえある。看護師は、時には患者や患者の家族に、‟向き合いたくない真実”と向き合ってもらえるようなアプローチをしなくてはいけない。その手技やコミュニケーション技法、知識や経験値を身に着けていなければ、ケア者とはいえない。私たちは看護師というひとりの‟ケア者”としての自覚と、痛みを伴う真実を伝え、ともに向き合っていくという覚悟を持ち、ケアの対象者へと向き合っていかなければいけないのだ。

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