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言語と移住と正しい生き方への問い

インテグレーションってよく聞く言葉で外国に住む際にはみな避けては通れない課題だろう。特に文化や言語に違いがあればあるほど、例えば日本とヨーロッパのように隔たりが大きいほどその作業は難しく、現地の人のように生きるのは不可能だということをみなどこかで悟ることになる。そこで出てくる問いは、どこまでインテグレーションするかということだ。

言語を習うというのはインテグレーションを考える上で最も重要なタスクである。また言語習得は個人差が大きい。これは母語でも言語をどの程度使いこなしているかには圧倒的な違いがあるからだ。そしてほとんどの人はその違いに無自覚であるが故、言語習得の難しさを実感していない。また習得した言語に自身の感情を載せてコミュニケーションできるかは、上手い下手を超えたその人の生き方そのものである。たとえ言語が流暢であったとしても外国語で感情の機微を表すのが苦手な人もいる。心を通ったコミュニケーションを母語でしたいという願望がイコール外国語が苦手とは限らない。人々がもつ言葉で他者と繋がる世界は多様でそれぞれが複雑な小宇宙なのである。

ここで混合されがちな言語さえ学べばインテグレーションできるという幻想についても検証してみたい。言語を学ぶことは海外の地で暮す上で必要な知識や情報、また危険を回避する、そして仕事を探す助けになるし、現地の人とフランクなコミュニケーションをとることができる。しかしそれは現地の人となるまたそう扱われることとイコールでは決してないのである。元から言語が得意でない人の場合、その事実に気づきながら苦労を重ねるのは簡単なことではない。海外に長く住んでいながら、その国の言語を話せなかったり得意でない人は日本人に限らずごまんといる。

イギリス留学時に英語を話さない人をたくさん見てきた。語学学校で出会った何十年もイギリスに住んでいるらしい美容師をしながら家族を養っていた男性は、簡単な挨拶さえも知らず驚いたことを今でも覚えている。当時は彼らはなんで努力しないのだろうとどこか意地悪な視線を向けていた。わたしは両親の金銭的サポートをうけて勉強だけをしていい環境にあり、それがどれだけ恵まれたことであるかを全くわかっていなかったのだ。

英語習得のため日本人とできるだけ関わらず同じ学校でも英語で話していたわたしが持っていた意志の強さには今でも感嘆する。同時に英語を学ぶことで得た自信と奢りと他者への差別はベルギーに来てから徐々に溶け出しフラットになりつつある。わたしは公用語であるオランダ語を話せないしフランス語は片言だ。大学院の課題(英語)や家事育児、日本語教育など日々のタスクがいっぱいすぎて言語習得が後回しになってしまっているのが現状である。そんな日々に罪悪感を抱くとともに現地の言葉が話せないというジレンマは常にわたしのどこかにあり喉の奥につまっている棘のようだ。そしてそれはローカル言語を話せない皆が抱えている痛みなのではないかと思う。

現地の言葉を学び子どもが生まれたら日本語教育にも力を入れてバイリンガルやトリリンガルやら多言語が話せる子を育てる。これって思ったよりずっと難しいし達成しなくてはいけないラインでもない。子どもを日本語で育てることを諦めた母親を何人も知っている。みなどこか申し訳なさそうで、そんな気持ちになる必要ないのにと心から思う。言語を学ぶ、子どもに教える。仕事や生活に必要なことをこなす以外に海外に移住するというだけでどれだけのことを達成しなくてはいけないのか。言語ってまるで住めば誰でもある程度習得できる必要最低限のエチケットみたいに思われることにどうも納得がいかない。

あらゆる理由で人は国をまたいだ移動をし定住する。そこに純粋な自由意志で動く人が果たしてどれくらいいるのだろうか。語学が得意だから移住をするに至るケースもそこまで高くないのではないだろ。それでもそこに住むと決め生活を築いている人々がいる。移民と呼ばれインテグレーションしてないと思われても、時に理不尽な対応に歯を食いしばり、また時に仲間と人生を祝福しながらみな懸命に生きているのだ。そんな人々をわたし自身も含め、応援したいと心から思う。







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