アカデミックじゃないけれど 言葉にできないものを伝えたいから
気づくと2週間もたっていた。毎日講義、たまにディスカッション、課題に修論の準備のインタビューを読書会の合間に行う。もちろん朝夕は子ども達の送迎から家事育児。不安定な天気に洗濯も時間がかかる。そういえば初雪も降ったな。息子の発熱に子ども達の保護者面談。週末は補習校にPTA活動に友人の送別会にサッカー観戦にと、なんだか息つく暇もない。けっこう寝てる時間はあるのだが。
そんな付け焼刃な課題のペーパーをみんなで読みあいディスカッションするクラスが今朝開かれた。Anthropology of Material Culture。正直わたしはリーディングもほとんどできていなかったなか、みな真面目に読んでおり真摯に課題に取り組んでいた。わたしの曖昧なペーパーにも指摘やアドバイスをくれた。わたしの文章に欠けているもの。それはセオリーだ。どのセオリーをどのようにアプライしたかはアカデミアではとても重要なのだがそれが抜けている。そして分類が雑。これは致命的。少し落ち込みつつも、皆の面白いペーパーを読み楽しく話せたことでだいぶ消化された。コロナ期に父親が亡くなり母国に帰った時の航空券や、中国の水洗ではないトイレやなんの変哲のないプラスチックの椅子にまつわるパーソナルでソーシャルな物語たち。マテリアルは本当に身近で個人的で社会的で文化的で、私たちを形づくる何かなのだ。
どのペーパーもよく書けているし、なんならディスカッションは3部屋で行われこの授業をとっているのは50人は超えているはず。この中で希望するかはおいといて何人がアカデミアに残っていくのだろう。上手なペーパーを書くことと研究を続けていくことには何か違いがあるのだろうか。
ずっと言葉にできない感情や思いや考えや主張などをアカデミックな場で書きたいと思っていた。きっとそれは答えを探していたから。セオリーにのっとってこう解釈できると知ることができたら、それは達成されると思っていた。でも今はわかる。そこに、セオリーの中に答えがないことを。セオリーの限られた、アカデミアにのっとったルールでは伝えれない何かがわたしが表現したいものなのだ。これはもう答えを探す旅ではなく自分を表現する旅だ。そこに終わりも答えもなく挑戦だけが残されている。言葉でも絵でも音楽でもいい、できるなら。そんな欲求を知ることがわたしが修士課程で得たひとつの答えなのだと思う。