見出し画像

『平家物語』~とことん合わない二人 源義経と梶原景時

判官びいき

江戸時代にも熱狂的な義経”推し”がいて、『平家物語』にでてくる”色白のちびで、すごい出っ歯”の義経(九郎は色白うせい小さきが、むか歯のことにさしいでてしるかんなるぞ)は、わたしたちの義経様じゃない!別の人!と言っています。

判官ほうがんびいき」という言葉もあるぐらいで、平家討伐でめざましい活躍をしたにもかかわらず平泉で不遇の死をとげた、九郎判官義経の熱狂的なフアンは、今でもたくさんいます。梶原景時はそのとばっちりを食っている感があって歌舞伎などでも悪役キャラですが、『平家物語』の梶原景時は、常に”先陣”をめざし、息子を救うために死地に飛び込んでいく(二度之懸)など、熊谷直実にも共通するところがある、典型的な東国武士です。

源義経と梶原景時、『平家物語(覚一本)』ではどのように描かれているのか、ご紹介します。

逆櫓さかろ

一ノ谷合戦から1年がたつのに一向に進展しない平家追討にしびれをきらした義経は、後白河法皇に直訴し、屋島にいる平家を攻めます。

元暦二年(1185)2月16日、渡辺津(現在の大阪市)で戦術会議がひらかれました。東国武士は馬での戦いのは得意ですが、舟の戦いはほとんど経験がありません。梶原が提案します。

梶原 今度の合戦では、舟に逆櫓さかろを立てたいと思います。
義経 逆櫓とはなんだ。
梶原 馬で駆けようと思えば、左へも右へも方向をかえやすい。舟はすばやく押したり戻ったりするのが大事です。船の前と後ろに櫓をちがう向きにたて、船端にも梶を入れて、どの方向にも簡単に押し出せるようにしたいのです。
義経 戦さというものはな、すこしも退かないぞと思っていても、時機が悪ければ退くのが常のならい。はじめから逃げる準備をして、どんな利点がある。門出というのに縁起でもない。逆櫓をたてようが、さかさま櫓をたてようが、あなたがたの舟には百挺でも千挺でもお立てください。わたしはいまの櫓でいく。
梶原 すぐれた大将軍というのは、駆けるべきところで駆け、退くべきところは退いて、わが身を守り、敵を滅ぼす。それがすぐれた大将軍というのです。一方向だけに進むのはのしし武者といって、良しとしません。
義経 猪のししか、鹿のししかは知らん、戦さはただ一気に攻めて勝つのが、気分がいい。

渡辺には大名小名寄りあひて、「そもそも舟軍の様はいまだ調練せず。いかがあるべき」と評定す。梶原申しけるは、「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候はばや」。判官、「逆櫓とはなんぞ」。梶原、「馬はかけんと思へば、弓手ゆんでへも馬手めてへもまはしやすし。舟はきっとおしもどすが大事に候ふ。艫舳に櫓をたてちがへ、わいかぢをいれて、どなたへもやすう押すやうにし候はばや」と申しければ、判官宣ひけるは、「いくさといふ物は、一退きも退かじと思ふだにも、あはひ悪しければ退くは常の習なり。もとより逃げまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ。逆櫓をたてうとも、かへさま櫓をたてうとも、殿ばらの舟には百挺千挺もたて給へ。義経はもとの櫓で候はん」と宣へば、梶原申しけるは、「よき大将軍と申すは駆くべき処をばかけ、ひくべき処をばひいて、身をまったうしてかたきをほろぼすをもって、よき大将軍とはする候ふ。片趣きなるをば、猪のしし武者とて、よきにはせず」と申せば、判官、「猪のしし、鹿のししは知らず、いくさはただ平攻めに攻めて、勝ったるぞ心地はよき」と宣へば、侍ども梶原におそれてたかくは笑はねども、目ひき鼻ひき、ぎぎめきあへり。判官と梶原と、すでに同士軍あるべしとざざめきあへり。

巻十一逆櫓

侍たちは梶原に遠慮して大声で笑ったりはしませんが、たがいに目くばせしたり鼻を動かしたりして、ひそかに自分たちの気持ちを伝え合いました。このとき侍たちはどんな感想をもったのでしょう?義経と梶原の不仲は誰の目にも明らかだったようです。

さて、梶原の提案、みなさんはどう思いますか?不慣れな船いくさを有利にすすめようと、舟に詳しい漁師たちにリサーチして、逆櫓を立てるという方法を提案、なかなか良い作戦ですよね。すぐに却下するのは惜しい。でも「すぐれた大将軍というのは‥‥」と上から目線で話すのはまずかった?などと、自由に考えてみてください。楽しいな♪楽しいな♪試験もなんにもない♪♪

かつて渡辺津と呼ばれていた旧淀川(大川)左岸のあたり。八軒家浜船着場(大阪市中央区)付近で撮影しました。

義経、10倍速で四国上陸

ちょうどその時、停めていた舟を破壊するほどの激しい北風が吹いていましたが、梶原と言い争いをした日の夜、義経はいやがる水手梶取を脅し、200艘中、わずか5艘で出航。「平家物語(覚一本)」によると、暴風雨の中、午前1時ごろに出発して午前7時ごろに阿波国勝浦(現在の徳島県)に到着しています。3日かかるところを三時(6時間)で着いたということは、10倍以上の速さで進んだことになります。上陸後も屋島にむけて夜通し駆けて、18日の午前4時には屋島の内裏の近くに到着しています。猪のしし武者もここまで極めるとすごい!

梶原は、すでに屋島合戦が決着した22日午前8時ごろ、残りの舟とともに屋島の磯に到着しました。

源平合戦の地を巡る|日本の歴史が動いた舞台「屋島」探訪|特集|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット (my-kagawa.jp)

同士どしいくさ寸前の二人

いよいよ源平の最終決戦、壇ノ浦合戦が始まろうとするとき、義経と梶原がともに太刀を抜こうとする緊迫の場面がありました。紙上中継いたします。

梶原 今日の先陣を私にまかせてください。
義経 私がいるからだめだ。
梶原 それはいけません。殿は大将軍でいらっしゃいます。
義経 そんなことは思ったこともない。鎌倉殿(頼朝)こそが大将軍だ。私は命じられて戦っている。あなたがたと同じ立場だ。
――梶原は先陣を許されない。
梶原 (つぶやく)天性この殿は侍のあるじにはなれない。
――これを聞いた義経が太刀の柄に手をかける。
義経 おまえは日本一の馬鹿者だ
――梶原も太刀の柄に手をかける。
梶原 鎌倉殿のほかに私のあるじはいない。

その日判官と梶原とすでに同士どしいくさせむとする事あり。梶原申しけるは、「今日の先陣をば景時にたび候へ」判官、「義経がなくはこそ」「まさなう候ふ。殿は大将軍にてこそましまし候へ」判官、「思ひもよらず。鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行を承ったる身なれば、ただ殿原と同じ事ぞ」と宣へば、梶原先陣を所望しかねて、「天性この殿は侍の主にはなり難し」とぞつぶやきける。判官これを聞いて、「日本一のをこの者かな」とて、太刀の柄に手をかけ給ふ。梶原、「鎌倉殿の外に主をもたぬ物を」とて、これも太刀の柄に手をかけけり。

巻十一 鶏合 壇浦合戦
屏風絵から、その場の空気が伝わってきます。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で活躍中のベテラン武士、三浦介義澄が義経に、土肥次郎実平が梶原に取りついて懸命に説得しその場は事なきをえました。「それ以来梶原は判官を憎みはじめて、ついに讒言して義経を死に追いやったということだ」(それよりして梶原、判官を憎みめて、つひに讒言してうしなひけるとぞきこえし)と『平家物語(覚一本)』にあります。

梶原はくじけない

ときの声よりも前、つまり開戦前に、梶原親子と従者たちは局地戦をはじめています。潮の流れが速い沖をさけ、岸の近くで平家方の舟を襲撃しました。壇ノ浦の潮の流れを、前もって調べていたのでしょう。

沖は潮のはやければみぎはについて、梶原、敵の舟のゆきちがふところに熊手をうちかけて、親子主従十四五人乗り移り、打物抜いてともにさんざんにいで廻る。分どりあまたして、その日の高名の一の筆にぞつきにける。

巻十一壇浦合戦

一方が善で、一方が悪、そんなふうにはじめから決めつけてしまうと、物語のいちばんおいしいところを捨ててしまうような気がします。

人間味あふれる義経と梶原、そうくるかあ~と思いながら、楽しむのはいかがでしょう。

#わたしの本棚   『平家物語』新編日本古典文学全集 小学館

この記事が参加している募集

古典がすき

わたしの本棚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?