『平家物語』~逃げ惑う人々、そして「小宰相身投」 ~
『平家物語』のジャンルは軍記物語なので、合戦を描いた物語というイメージがありますが、合戦の場面だけではなく、合戦の渦に巻きこまれた人々のことも、丁寧に描かれています。
武家貴族といわれた平家の人々は、朝廷の高官(公卿・殿上人)となります。和歌を詠み、管弦や舞にすぐれ、宮中では人気者でした。清盛の孫たちの多くは、母親が公家貴族の娘で、戦争を知らない子供たちでした。源頼朝が打倒平家をめざして兵を挙げていなければ、大将軍(平家の子弟がなる)として戦さに参加するのは、まだ先の話だったかもしれません。
平家、都落ちして西国へ
寿永二年(1183)7月 木曾義仲が比叡山延暦寺(山門)と手を結んで攻め込んでくるという情報が平家に届きます。ほかにも各地の源氏が攻め込んでくるというので、平家一門の武将を大将軍とする軍勢が都に通じる要所に派遣されました。ところが、突然、全軍が都に呼び戻されます。平清盛亡き後、平家一門の棟梁となった宗盛の指示でした。
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同(1183年)7月24日の夜更けに、前内大臣宗盛公が、建礼門院がいらっしゃる六波羅に参上して申すには、「最近の状況は、いくらなんでもそこまでひどいことにはなるまいと思っていましたが、もはや進退極まったように思います。とにかく都の内で決着をつけようと、味方の人々は申していますが、目の前で平家が滅びる姿をお見せするのも気の毒なので、院も帝もご一緒に、西国の方へお連れしてみようと決心いたしました」
後白河院はすばやく鞍馬に逃げていたので、平家は6歳の安徳天皇と三種の神器とともに都を出立します。
家来の肥後守貞能は「西国に逃げても、落人と呼ばれてあちこちで攻撃をうけ、不名誉なうわさが流れるのがおちです、とにかく都の内で決着をつけましよう」と主張し、それが宗盛に受け入れられなかったので離脱しますが、平家一門の人々は、不満であっても、安徳天皇をお守りして西国へ行くという方針に従うしかありませんでした。
平家一門の人々は、維盛を除いて、妻子を連れて都を出ていきました。(維盛についてはいつか別稿で書きたいと思います)
平家、筑紫で追い返される
平家一門は、かつて支配していた筑紫に向かいますが、「平家を追い返せ」という後白河院の指示がすでに鎮西(九州)に届いていました。時忠(二位尼の兄)の横柄な態度に怒った緒方三郎維義が攻めてくるというので、普段なら自分の足で屋外を歩くことなどほとんどない公卿、殿上人、女房たちが、足を血だらけにして逃げます。建礼門院も例外ではありませんでした。
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輿を担ぐ者もいないので、(帝が使う)葱花、鳳輦は名ばかりで、安徳天皇は腰輿にお乗りになった。国母〈建礼門院〉をはじめ、身分の高い女房たちは、袴の脇をつまみ上げ、大臣殿〈宗盛〉以下の公卿殿上人は、指貫をたくし上げて、水城の戸を出て裸足で歩いて我先にと箱崎の港に逃げた。(中略)慣れないことなので、足から出る血は砂を染め、紅の袴はさらに紅く染まり、白い袴は裾が紅くなった。
筑紫から逃げる途中、重盛の三男清経が、さいごに笛を吹き、念仏を唱えたあと、船から海に身を投げます。「都をば源氏がために攻め落とされ、鎮西をば維義がために追い出さる。網にかかれる魚のごとし。いづくへ行かば逃るべきかは。ながらへはつべき身にもあらず」と前途を悲観してのことでした。人々は深く悲しみました。
平家の人々は四国に渡り、屋島に内裏を造りますが、建物が完成するまでは船を帝の住まいにします。敵の攻撃におびえながらの慣れない船上の暮らしに、女房たちは衰弱し、目は落ちくぼみ、誰が誰かもわからなくなったとあります。通盛の北の方、小宰相もその中にいました。
一ノ谷合戦前夜
都に入った木曾義仲と、後白河法皇、源頼朝が争っている隙に、平家は勢いを取り戻して摂津国に戻ります。再び都に戻ることをめざして、生田森、一ノ谷に陣をかまえました。頼朝は範頼、義経軍を派遣します。
寿永三年(1184)2月6日 山側から攻めてくる義経軍に備えるため、”山の手”の守りについた能登殿教経と通盛。通盛は、宿所に小宰相を呼び寄せて名残を惜しんでいましたが、目撃した弟の能登殿に「そんなにでれでれしてたら、戦さの役にたたんわ!」と怒られ、あわてて小宰相を帰しました。
通盛の死の知らせがとどく
一ノ谷合戦で平家は大敗、一族の多くが亡くなります。同年2月7日の夕方、小宰相のもとに、通盛の死の知らせが届きました。それからずっと床に伏せていた小宰相が、13日の夜ふけ、最後の逢瀬の時の通盛の様子を、乳母に語ります。
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明日出陣という夜に、仮の陣屋であったとき、ふだんよりも心細そうにため息をついて「明日の戦さで、きっと討たれるような気がするのだ。私になにかあったら、あなたはどうなるのだろう」などと言ったけれど、戦さはいつもの事なので、きっと討たれるとは思わなかったことが悔やしい。二度と逢えないと思ったなら、来世でも一緒になろうと約束したのにどうしてそうしなかったのだろうと思うことまで悲しいの。妊娠したこともしばらく隠して言わなかったけど、頑なだと思われまいと思って、お話ししたら、それはそれはうれしそうで、「私は三十歳になるまで子というものがいなかった。ああ男の子だといいなあ。つらいこの世の忘れ形見と思うほどだ。それで何ヶ月になるの。気分はどうだい。いつまで続くのかわからない波の上船の住まいなので、しずかに出産するとき、わたしはどうしようか」などといったのは、亡くなってしまった今となってはむなしい言葉ね。
「ただならずなる」とは、普通ではない状態になるということで、小宰相は妊娠したことを遠回しにこのように言いました。
はかなし
「はかなかりける兼言かな」の“はかなし”は現代語に訳しにくい言葉ですが、私はいつもこんなふうに説明しています。
「仕事が”はか”どる」の"はか”と語源が同じ。”はかどる”と言う場合、〈成果や結果が目に見える形ではっきりわかる〉、”はか”無しはその逆で、〈やっても手応えがなく、成果や結果があてにできない〉そこから、期待外れ、頼りにならない、手応えがない、あっけない、あっけなくむなしいなどと訳します。
でも、単語の意味をいくつも覚えるよりも、〈手応えがない、あてにできない〉というベースになるイメージを、それぞれの文脈の中で出てくる”はかなし”にあてはめるほうが、意味が直接こちらに伝わってくるように思います。
「はかなかりける兼言かな」――「兼言」は前もって将来のことを言うこと、〈男の子だったらいいな、出産のときはどうしようか〉と言っていた通盛さまの言葉が、”はかなく”なってしまった。この一文、現代語訳するのにけっこう悩んだのですが、「亡くなってしまった今となってはむなしい言葉ね」とひとまず訳してみました。(もう少し良い訳が浮かんだら修正します)
小宰相は船から身を投げた
前夜、明日死ぬかもしれないと言っていた通盛が、小宰相の妊娠を知って、将来のことを話し(能登殿が邪魔したけど)、1日もたたないうちに討ち死にしてしまった。小宰相は生きる気力をなくして、2月13日の夜中に船から身を投げました。
世間の人は、子どもを産んで育てなさいという。でも子どもをみるたびに通盛さまのことを思いだすにちがいない。そうだわ、生きていたら、別の人と再婚させられるかもしれない
そんなふうにぽつりぽつりと話す小宰相に、乳母の女房は取り乱します。合戦で夫を亡くしたのは、あなただけではありませんよ。出産したあと、出家して通盛さまの菩提を弔えばいいではありませんか。世の中のはかなさを痛感した小宰相に、乳母の女房の言葉は届きませんでした。
現在のかの国の情勢、命を狙い撃ちする人たち(させられているのかもしれないけど)は、人々の悲しみ苦しみを受けとめるアンテナが壊れてしまっているのかなあ。
#わたしの本棚 『平家物語』新編日本古典文学全集 小学館
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