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「迦陵頻伽の仔と旅人」(一)

前回「迦陵頻伽かりょうびんがの仔と墓標」


ギャツォ?」
「ほら、しょっちゅう経文きょうもんに出てくるだろ、法華経ほけきょうの中。『或漂流巨海』だの『梵音海潮音』だの『福衆海無量』だの……。坊主たちに訊いてみたら誰も見たことないんだとよ、散々唱えてるくせに。納得いかないっつうの、なぁ?」
「……海なんてただの水の塊だ、目の前のヤムドク湖と変わらない」
「よく言えるな、お前だって見たことないくせによ」
鍛金たんきん師に海なんて必要ない。僕たちの人生には無関係だ」
「無関係ねぇ。……そりゃ寂しい話だな」

 薄らぐ意識の奥底で、かつて兄と交わした言葉が蘇っていく。戯れのような会話の一つ一つが、今となっては少しだけ懐かしくもある。いつしか再会を果たしても、同じように接する機会は二度と訪れないだろう。それでも、僕はあいつ・・・に会わなくてはならない。だから、こんな所で死ぬわけには──。

 ゆっくりと開いたドルジェの瞳に映る空は狭く、低く、そして黒い。
 焦点の定まらない目が、瞬きをする度に世界を捉え直していく。仰向けになった身体は犛牛ヤクの黒毛で織られた天幕の中。開け放たれた側面からは穏やかな風が吹き込み、微かに波打つ水面は橙色の陽光に照らされている。その輝きは黒い瞳の奥を貫き、虚ろな意識を覚醒させた。同時に、忘れていた鈍い痛みが再び頭の奥を突いた。
 ──そうだ。僕は湖畔の側で落馬した。余所見をしたまま駆け出した矢先、あろうことか姿勢を崩して地面に転がり落ち、頭を打って意識を失った。この目の違和感も、きっと当たり所が悪かったせいだろうな。
 心に言い聞かせ、ドルジェは眼前の異質な存在を納得させた。天幕の外に座り込んでいる男の身体は自分の一回りも二回りも大きく、未だかつて見たこともないほど人並み外れた巨躯だった。遠巻きに見ても一目で判るたくましい背中から、ドルジェは故郷から仰ぎ見た遥かなるヒマラヤ山脈を思い起こした。

「……おぉい……」

 ドルジェはあらん限りの力で、掠れた声を男に向けて放った。吐き切った息を再び鼻で取り込むと、ヤクの糞が焦げていく形容し難い臭いが襲い掛かる。乾燥させたヤクの糞は、高原を歩む旅人なら誰もが頼る燃料だ。火起こしの最中だった男──良嗣よしつぐは振り返り、砂狐のように感情の乏しい細目を少しだけ見開いた。

「……あなたが……助けてくれたんですね」

 良嗣は屈んで天幕の中へ歩み寄った。近寄れば近寄るほど、尚更その姿はドルジェの瞳に異様なもの、かつ確かなものとして映った。自分より頭二つほど背が高く、肩幅の広い巨体を持つ人間の存在は、決して目の錯覚ではなかった。
 ドルジェは改めて良嗣の全身を見渡した。薄い褐色に染まった顔と、極めて質素な白地の服は、噂に聞く漢人の特徴に似ている。高原育ちの自分の煉瓦れんが色の肌、襟や袖に金地の装飾を施した衣装とは似ても似つかない。呼び掛けに対する反応の薄さは、きっと越えようのない言語の壁のせいだろう。果たして言葉が通じない相手に、身振り手振りだけでどのように感謝の意を示せばよいものか……?
 鈍痛が響く頭を抑えて思案にふけるうちに、威勢のいい少女の軽やかな声が、今度はドルジェにも明確に理解できる言葉で天幕を震わせた。

「あなたじゃない、あなたたち・・って言え!」

 ドルジェと良嗣の間に突然、幼い少女──オトが割り込んできた。首から下を外套で覆った姿はさながら一端いっぱしの旅人であり、得意げな笑みを浮かべる顔は良嗣よりも更に色白く、新雪と同じ無垢な色をしていた。
 言葉が通じる人物の存在にドルジェが安堵の声を漏らそうとした途端、良嗣は素早くオトの肩を掴んだ。その所作は体躯に似合わず、獲物へ飛び付く猟犬のように機敏だった。

「お前、今何を──」

 眉間に深い皺を寄せた良嗣と、目と口をぽっかり開けたオトは、互いの困惑を交差させた。

「この男の言葉か? なぜ知っている!?」
「いや、知らない! 知らないんだけどわかる、わかるんだ。言われたことは頭の中に入っていくし、伝えたいことは口から勝手に出てきた。きっとこいつの言葉・・・・・・に合わせて」

 どうしようもなく漠然とした回答から感じた驚嘆の念を、良嗣は胸に仕舞い込んだ。
 旅の最中に、オトは声色から感情を読み取る術を会得した。それでも他言語を用いた具体的な意思疎通ができた試しはなく、漢語の話者に対しては良嗣が通訳を買って出ていた。
 元から持ち得ていた妙なる調べを奏でる声、遠方の微かな音さえ拾い取る聴覚。そして、今発揮された力。旅路を進めるにつれて更に人間離れ・・・・していくオトの神秘的な力は、自分たちの歩みを終着点まで導くために存在するのではないか──。いつしか良嗣は理屈の追求を止め、都合の良い解釈で自分を納得させていた。

「とにかく、今はお前に委ねるしかない。このまま頼む」
「おう、おれに任せとけ」
「余計なことを口走るなよ」
「当然! いい加減ヒミツには慣れっこだからな」

 日本語と漢語しか身に着けていない良嗣にとって、この瞬間に発揮された力は好都合だった。見るからに唐の出身ではない眼前の旅人との交流は勿論、未知の言語が飛び交う高原を進む上で、土地土地とちどちの人間と接して協力を仰ぐためには、彼らの言語を遅かれ早かれ習得する必要がある。こうべを垂れて教えを乞う自分の姿と、得意げな顔をする小さな師匠の姿が、良嗣の脳裏にまざまざと浮かんだ。

「……あの、ちょっと、二人とも──」

 他人の想像など露知らず、ドルジェは腕を上げて手をはためかせると、人差し指を自身の口に向けた。

「今はどうだ? 何と言ってる?」
「『うるさいぞデカブツ! 俺を無視すんな!』だってさ」
「……もっと真面目にやったらどうだ」
「おーおー、そんな偉そうにしていいのか? もう手伝ってやんないからな」

『水を下さい』という切実な願いが二人の元へ届くまでには、もう暫くの時間を要した。

「迦陵頻伽の仔と旅人」(二)へ続く


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