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コンプレックスを拗らせた俺は旧友から逃げ出した



 俺は恥辱に耐えかねて、友人を無視して逃げ出した。

 本稿で述べるのはnoteを始めたきっかけ──“もう一つの自己紹介”とも言えるエピソードだ。投稿を始めて二週間ほど経つので、そろそろ詳述しておきたい。




 夜の散歩をすることが習慣化している。春先に経験した失恋から現実逃避するためだ。
 五月末のある日、俺は母校の幼稚園の側を歩いていた。何気なくその建物を眺めながら歩いていると、勝手口に鍵をかける女性がいた。門灯に照らされた顔と目が合い、俺は非常に驚いた。その女性は幼稚園・小学校時代の同級生だった。




 彼女とは一年に一度程のペースで会っており、最後に顔を合わせたのは昨年の年明け頃。同窓会(幼稚園と小学校を共にした数名で、たまに飲み会が催されている)で、彼女は先生として母校に帰ったことを告げた。大学を出て以降ずっと幼稚園に勤務していたのは知っていたが、まさか母校に赴任するとは。




 通っていた当初は知る由もなかったが、母校はそれなりに優秀だったらしい。一学年約五十人いる同級生の範囲内で、少なくとも四人は医者になっている。大企業勤めも多ければ官僚もいる。研究者の道を歩む者もいる。
 あの園舎には未来のエリートが集っていた。そして、そんな児童達の【もう一人の親】である担任を勤められるのは幼児教育のエリートだけだと聞いたことがある。晴れて彼女もその一員になったわけだ。




 現実は華々しいものではない。お遊戯のプラン一つとっても、綿密な計画と厳しい批評の上で成立しているらしい。かつて微笑みを絶やさず接してくれた先生達が持つ【厳しい上司】というギャップは中々受け入れ難いものだったそうだが、それでも彼女は日々責務を全うしているようだ。俺は彼女に畏敬の念を抱いた。一応断っておくが、異性としての意識は全くない。




 児童が帰った後も準備や会議を重ねていたからか、八時頃の退勤となったのだろう。そんな彼女が退勤時目にしたのは、色あせた安物のTシャツと七分丈のズボン、履き古したスニーカー。極力気を付けているつもりだが、おそらく姿勢は猫背。社会の歯車から逸脱している、【停滞】を全身で体現した男だ。マスクで口元は隠れていたが、四半世紀以上もの付き合いだ。「そっくりさん」では誤魔化せない。
 一瞬合わせた目をすぐに逸らし、気付かなかったふりをして俺はそのまま歩き去った。彼女は追ってこなかった。




 もうすぐ俺は三十歳になる。
 友人達の間で出世・目標の実現・結婚・出産の知らせが飛び交う中、俺はその輪に混ざれずにいた。
 ここ数年、ライフステージが全く上がっていない。今年三月に(内心)結婚を誓った人に振られ、人生を大幅に後退させた。三十歳までに結婚するという目標の達成は困難であるし、子どもや幼稚園といった話題は夢のまた夢だ。
 また、昨今の世界的な騒動でプライベート・仕事上共に人との関わりが激減した。自営業のルーチンワークを繰り返しながらゲームや映画といった受動的な娯楽を享受する、社会から隔絶された引き篭もり一歩寸前の生活を俺は送っている。
 そのような焦りを感じながらも無為に過ごす毎日。子どもから大人へ成長し、現実と理想のギャップに折り合いをつけ、努力と苦労を重ねて働いている彼女のような人達に顔向けできない。そんな自分が惨めで恥ずかしさばかりが募る。
 勿論彼女はそんな事を知る由もないが、俺のみすぼらしい風体から全てを見透かされたように思えた。非合理的な考えなのに、心は確かに恥辱にまみれていた。




 彼女から逃げ出した直後、あらゆる恥が無数の針となって俺を突き刺した。腕や胸が蕁麻疹で赤く腫れる。各所をつねって痛みを誤魔化そうとするも、増幅された痛みとともに沢山のコンプレックスが呼び起こされる。
 憧れていた研究者のコースを修士課程でドロップアウトした。稚拙で不甲斐ない出来の修士論文を恥じ、博士課程に進む自信を失くしたからだ。他の研究室にいた同期は着実にステップアップを重ねて数々の論文を投稿しているのに、俺の研究成果は何一つない。
 好きだった文筆活動が数年間全くはかどらない。俺がうだうだ過ごしていた間にも、かつての創作仲間達は沢山の作品を産み落としている。俺はさっぱり何も生み出せていない。
 長期的な異性関係を維持できずに【元彼女】ばかりが増えていく。破局して疎遠になるたびに【誰かと共に生きていた俺】の人生はリセットされる。「経験を次に活かせばいい」とよく慰められるが、人間の性格は十人十色なので、ヨリを戻さない限り過去の恋愛の失敗はフィードバックできない(と俺は思っている)。残るのは思い出と、ただ無為に歳をとった男だけ。




 過去最低の自己嫌悪だった。意識を過去に潜らせる度、人生が恥と無駄ばかりと意識させられる。かつては俺もエリート候補生の一員だったかもしれない。だが今はどうだ。旧友への劣等感を隠せず逃げ出すようなエリートが何処にいる?




 それと同時にふと考えた。ここまでの強烈なコンプレックスを味わった経験はない。普段滅多に心動かない俺が、単なる認知の歪みで強烈な感情を抱いた。これには何らかの意味があって然るべきではないか。




 もし原因となる恥と無駄を無視したら、俺の確かな感情まで否定しなくてはならない。それは人生そのものが全否定され、空虚なものと見做されるのと同義だ。ならばいっそ積み重ねた恥と無駄、湧き上がったコンプレックスを文章化して明確にしてしまおう。
 醜く情けない人生でも、それが決して空虚ではないことを俺は証明したい。



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