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脱線日記「日常会話に新渡戸稲造を引用するでない」

・例えば、新渡戸稲造が「野球害毒論」を掲げて「野球は社会や若者に悪影響を与える」と声高に猛批判していたという逸話を聞きかじると、野球が苦手な話をするときに「野球が新渡戸稲造レベルで嫌い」って言いたくてたまらなくなってしまうけど、それは面白の提供というよりはむしろ知識マウントが行動原理となっている卑しい心理があることに最近気付き、猛省した次第である。
これは「細かすぎて伝わらないモノマネ」の歪んだ解釈も絡んでいるという説もある。「細かすぎて〜」は、「細かすぎるよ!」というツッコミが前提となっている土壌の上で初めて成り立つエンタメであって、日常会話での伝わらない例え話や例えツッコミは背景のコンテクストが全然違う。日常会話においては、なるべく相手のレベル感に合わせて、例えるとしても元ネタが共通認識として置かれていることを十分理解した上で使用するに越したことはない。いわんや新渡戸稲造を引き合いに出すことはよっぽどのことでない限りやるべきではない。稲造を引用していいのは五千円札の話題に花を咲かせているときだけだ。そんな機会は訪れないので、稲造はまず引用を控えておいて間違いないと言えよう。

・これも最近気付いたこと。それは「人には人の平凡・非凡が必ずある」ということだ。一見これといった特徴のない人、面白みのなさそうな人でも、接してみると面白味がにじみでてくるものだ。その人その人の唯一無二性、非凡性がどこかしらに必ずあるのだ。でもこの世には謎の秩序があり、その秩序とうまく歩調を合わせられ、たまたまハーモニーを奏でられた集合体が「非凡な才能」と認定され、持ち上げられ、崇め奉られる。要は「わかりやすい非凡さ」をたまたま有しているかで何かと生きやすさが決まってしまうのかもな、と思った。わかりやすい非凡さは例えば「勉強が得意」とか「コミュニケーション能力が高い」とか「歌が上手い」「脚本が上手い」「運動神経が良い」みたいな話だ。でもわかりづらい非凡さを持ち合わせると発揮する場がなくて難しい。前に日記で書いたこととしては「ペタンクがうまい」とかだ。ペタンクなんてやる機会がないのでこの才能に気づくこともなく死んでしまうかもしれない。他にも例えば「目をつむったまままっすぐ歩ける」とか「背中の触覚が指先レベルに繊細」とか「ものすごく趣のある埴輪を量産できる」とか。「自分には何の取り柄もない」と嘆いている人は、単にたまたま非凡な能力と社会のニーズとの反りがあってないだけの話なのかも。

・「トリビアの泉」の特番で一度だけ放送したコーナー「小さい”へぇ〜”見つけた」を覚えている方はおられるだろうか。このコーナーは”泉”に取り上げるほどでもない小粒なトリビアを紹介するコーナーで、それをタモリさん1人がミニへぇ〜ボタンで品評するのだが、この印象深かったのが、トリビアの品評に厳しいことでおなじみのタモリさんが、この小粒ネタに対して”泉”でも見たことがないような笑みを連発するのだ。
紹介されたトリビアは例えば以下である。

映画翻訳家 戸田奈津子は毎年トム・クルーズからお歳暮が届く

バッターが打った後 投げたバットが奇跡的に立ったことがある

カステラの文明堂の看板は松本幸四郎の祖父が書いた

吉永小百合の最も好きな将棋の駒は「香車」

これらはいずれもトリビアとしては小粒だが、タモリがニコニコし、高評価を押していた。
でも、こういうことだよな、と思った。面白いものは得てして「肩に力が入っていない」ものだったりする。
ウケてやろうという意気込みも、気に入られようとする卑しさもない、このくだらなさ、この言語化できない微妙な力の抜け感がたまらなく良くて、大事にしたい要素だ。例えるなら、町の中華料理屋みたいなものだ。どんなに高級料亭に行っても得られない良さみが町中華にはあるし、そこを守っていきたいとタモリと戸田奈津子から学んだ。

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