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脱線日記「カバディに見るこの世の生きづらさ」

・カバディというスポーツがある。聞いたことがある人も多いと思うが、一応説明すると、攻撃側は一息で「カバディ、カバディ…」と言い続けなければならないというルールがある。しかも、息を途中で吸ったり、少しでも咳をしたらアウトらしい。なんで言い続けなければならないのか?それをすることによってゲーム性に広がりが生まれるのか?と疑問に思い調べたが、よくわからなかった。「カバディと無心に言うことで身体と心が一体になり、不思議な活力が醸し出される」なんていう説があるとかないとか。
こういうゲーム性に直接関係ない妙なルールが搭載されているところにマイナースポーツたる所以があるのではないか。
物事にはすべて理由があり、意味のないものは淘汰されてゆくのが自然の摂理ではないか。それなのに、カバディ連呼は今日まで脈々と受け継がれている。そもそも「カバディ」という言葉に意味は特にないらしい。
新卒で入社した会社では朝のラジオ体操でまわりとリズムが揃わなかった社員(主に自分)は教育係によってやり直しをくらうという謎ルールがあったのを思い出す。謎ルールに縛られる生活にうんざりして人は遊戯をするというのに、その遊戯を謎ルールで縛り付けるのは本末転倒ではないか。この世はがんじがらめなのか。生きにくさもここまで来ると笑止に値する。

・最近私がよく使う構文がある。それは「〇〇い(一般に褒め言葉)けど、〇〇いだけだな」だ。
例としては「面白いけど、面白いだけだな」「おいしいけど、おいしいだけだな」「歌うまいけど、歌うまいだけだな」といった具合である(そう、私は基本的に偉そうなのである)。
日常は「よくできたもの」に溢れている。あらゆるものが一定水準を軽く超えており、我々に豊かさを提供してくれる。でも悲しいかな、ドキドキするものっていうのは滅多にない。良いんだけど、良いだけで、印象に残らない、みたいな感じだ。
ドキドキするものとしないものの差異って説明ができないので、ほとんどの人はそこを捨象しがちなんだけど、でもここってめちゃくちゃ大事だったりすることが往々にしてある。で、最近見つけたここの差異の見分け方は、「明日誰かに言いたくなるかどうか」じゃないかな、と思った。
昨日のトリビアの泉の話を引きずる形になるけど、トリビアの泉の画面左上には「明日使えるムダ知識をあなたに」とスーパーが出ている。私はこの「明日使える」が重要だと思うのだ。

ムダ知識であればなんでも「へぇ」なわけではなく、「明日使いたくなる」からこそ「へぇ」であり、へぇボタンを連打したくなるのだ。この左上の文言を考えた制作スタッフはよくわかっていらっしゃる方なのだろう。

・歩いてたら手をガードレールに思いっきりぶつけてしまい、手が青くにじんだ。おそらく内出血だろう。
「内出血」って「出血」よりも恐ろしくないですか。手の中で血管が決壊して血が皮膚の下の組織体に溢れ出ているということだろう。怖すぎる。それならいっそ外に流れ出てくれたほうが安心できる。
「皮膚の下でなにかが起きている」ことへの見えない不安と「皮膚の色がじわじわ青く変色する」というやけにおどろおどろしい現象の相乗効果。内出血と鳥肌のマリアージュのできあがりである。お好みでアットノンをどうぞ。

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