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旅をすることII -魅力に溢れた不完全な現実-

時代の進化、テクノロジーの進化に反して、時代を逆上したいと思い、古き良きを求めてしまうのは何故だろう。

ただ単に、進化についていけないと言う思いゆえの屁理屈なのだ ろうか。
進化し続け便利が蔓延するこの日本の中には、こじんまりとした民家や団地が並ぶ光景がまだあり、それが減るのと反比例するように、日々何かしら新しい家が建ち、新しい町の光景が増えている、、、その相反する2つの、相容れない、不協和音を不思議に感じた、この夏の帰国。
不協和音をいたるところで感じた。

光には影が必要で太陽には月が必要で、この世には必ず二極の相対するものが、陰と陽で 存在するのだろう。
不協和音のように見える相反するものは、実はお互いをなくして存在 できないものなのかもしれない。
些細な事だ。日本で、コンビニで毎回ともらうビニール袋は、断る事の方がありがたいとされ、断ればお礼まで言われるほどだった。
袋を受け取る事の方が普通である事。ここにもごく自然と全員一致の“当たり前”が存在していた。 その行為の裏には何があるか考えたことがあるだろうか。時には、ただ5分の持ち運びの ために受け取るそれは、動植物の一生を絶せることができてしまう。そして、ゴミの山と化す地球からの最後のツケは私達に返ってくる、、、。人間は自然と共存できるはずだ。 私達が一方的に、自分達の都合を良くしていく事だけに目を向けた事により、自然の神秘は日々失われ、自然の猛威に振り回される事実を受けている。
それらは私たちが受けるべき陰と陽の陰の存在であり、陰と陽の相反するものが存在する為に、私たちが避けて通れない道なのかもしれない。陰と陽の関係にならなくても済んだはずの、共存できるはずのものなのに。
便利の裏には必ず、犠牲となるものが必ずある。そう思った。

罵声やクレームを浴びさせられるのが当たり前の人間は存在しないはずだ。誰の手にもかからずに、綺麗な街や公共施設、家や部屋は当たり前に存在しないはずだ。 誰も手を動かさずに料理が運ばれてくる当たり前は存在しないはずだ。 誰も動かさずして電車は動かないし、誰も家を作らずして家には住めないし、誰も商品を運ばずして、コンビニには商品が並ばないのだ。

もっと言えば、太陽が昇らずして日中は存在しないし、月が昇らずして夜の視界は存在しない。
罵声に答える人間がいて、綺麗に保つために働く人間がいて、毎日空腹に苦しまずに済むように料理を出してくれる人間がいて、、、。
日が昇り、月が昇る地球が存在する。
当たり前の裏には、必ず誰かがいて、何かがある。
日本の厚い厚いサービスの裏には、犠牲になる人間が必ずいる。
サービスは当たり前じゃない。サービスは、人の優しさと思いやりと協力と支えと自己犠牲と、、、いろんなものの上に成り立っている。
サービスが当たり前になってる日本、不協和音の流れ続ける日本が嫌だと感じた。

“サービスが良いから日本は良い、すごい” それらの言葉はそのサービスを“受ける側”だから。その裏に、捧げ続けている人がいる温かみとありがたみを、日本人であるからこそ自覚していたい。

受け続ける甘みは、人を天狗にする。
あげられる人になりたい。感謝されるためではなく、そのありがたみ、思いやりをパスしあいたいから。パスを自分の番で止めては行けない。

例えば、家に帰ってご飯がある事、綺麗に洗った服が毎日用意されてる事。 例えば、一日中、事あるごとに情報を流し、安全を第一に守ろうとしてくれている駅員さんがいる事。 例えば、レジで丁寧にお礼を言いながら品を入れ、確認し、時には台にまで移してくれる店員さんがいる事。

当たり前は当たり前には存在しない。店員さんにお礼を言わないで去るのが普通ってなんかおかしいんじゃない?クレームを受けるだけが電話相談室の役目っておかしいんじゃない?日本人は素晴らしい。でも、もっともっと優しさが広がって欲しい。

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待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!