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載せ放題〜即活字


〜いつも読んで下さっている方ありがとうございます.今日は長文です。お時間のある時にどうぞ。しかもあまりふざけてません。元々ふざけは求めてられてないでしょうか。〜

先日、載せたエッセイ「母!喜寿!」に「note は載せ放題だよ」と書いた。以前は活字になる事に、ときめきがあり文字がキラキて見えた。それを夢みた。
母は10代から書いているだろうから、ノートとか原稿用紙がたくさんある?。パソコンは40代には触ってた。の前にワープロがあるわ。
気せずして物書きになった私が、note に載せなあかんね。途方にくれる。やはり妹と分け分け。
私も気せずして詩をかくようになったのが、中1。そもそも詩と気づいてなかった一時があり、まさか一目に触れるつもりではなく日記の一部みたいなもので、活字になるためではなかった。中2で新聞に載るのが、初の活字。活字になるトキメキ何度も眺める。活字になる夢。一応、処女作が小3の文集の選ばれる.が、それは藁半紙の先生の文字。書きためていたは、ノート。今も、保存はノート。
高校の時、同じ誕生日の親友が小説を書いていた。やはりノートを交換し合って感想を言った.
文芸部があったが、二人共入らずコーラス部に入っていた。文化祭になると、何食わぬ顔で毎年、文芸部の文集を買っていた。それも手書きを貼り合わせたようなもの。
活字になるには、入選、佳作とか入らなければならない。小説だと、1年1作くらいのペースが普通だろうから、年一回の賞にかけるだろう。佳作程度では文集には載らない。どこの文芸祭にするかも、絞らなけれならない.
詩は、原稿用紙2枚、2遍というものが、ほとんどです.まず、自分で2偏選ぶ必要がある。また原稿用紙2枚400文字という範囲の詩が残ってるのは、そのせいです。

応募要項というのが合って、3文字空けて「で、1行空けてなんちゃら、1文字空けて、(数字で才)とか、とか。決まりがある。それを黒の万年筆かボールペン。原稿用紙の指定。お気に入りの原稿用紙があったが、もう売ってない。応募する行為には、緊張感に願いが込められる。今は、パソコンに原稿用紙の書式があるんですよね?今は#をつけるだけ、緊張感が全くない.応募した事さえ忘れそう。
母は、今年も「文芸祭に賞に入ったらそちらに行くかもしれないから・・」と、妄想スケジュールを立てる。今も夢みる乙女というドキドキは変わらない。うちの近隣の市は文芸祭が盛んです。私も一緒に応募して一緒に掲載された。受賞は一緒にはならなかったかなぁ。

最初の頃の私の詩は句読点が付いている。載せるテイで書いてるわけでないので。こちらにはそのまんま載せたが、最初のものとばれるので、恥ずかしい。最初に詩のノートを見せたのが妹でした。 添削されて返ってきました。漢字の送り仮名の間違いが多い。漢字の間違い。文法の間違い。今は文法は置いていて、漢字は変換してくれる。ひらがなだらけだった作品も知らない漢字までは使える。他の方の作品もそうだろうが、変換すると知らなかったが、魅力的な漢字があって使うだろう。
こちらnote に「私’」載せた時。私は活字になった!面白い世界になったと笑っていた。高校の時にかいた。
うる星やつらのあたるの頭に‘が、街中を走り回る話。’がないのが本物だから探せ!そこから発想した。もちろん、手書きで。これを活字にできないからと、「私ダッシュ」と書いてしまうと何の意味もない。駆け回る別の私の中から、本物の私を見つけ出すために、ダッシュすると言う。二つの意味が含まれない。この詩というか、自分が歌うつもりでかいた詞です。本気度がなくコトバ数揃えてません。

また「○と力」の💧これも感動。
ある店の冊子に詩を載せてもらってた時なくなく、‘雫’とした。それでも、内容を理解してら下さる社長さんはありがたい。私が一番伝えたかった。基本は○それに一点に力が加わると💧の形になると、漢字ではなく形、見た目を伝えたかった。これまた活字?になる日が来るとは。

母はエッセイや小説とは別に新聞投稿も熱心にしている。周りに「よく載るねえ」と言われるけど、「それ以上に書いてるからね。」と言う。やはり活字なるトキメキはやめれない。
私はラジオにメッセージ&リクエストして読まれて「なゆたさん」と言われるのにときめく。あー、何度でも呼んで下さい✨

今や、この指でいきなり活字が出る。
送信ボタンを押すと誰かに読んで下さい。となる。自分での取捨選択も、選考委員に選ばれるステップもない。割愛される事もない。知らない方といらっしゃるかな、新聞など載る際、採用の連絡と共に、「割愛、編集しますがよろしいですか?」と電話等がある。で、掲載されたものを見ると、ばっさりどころか文章の構成、表現まで変わってます。そうされない事も目指すのですが。(←これは母の話)。
イラストがついた時、私達も感動した。私達家族の一時を、たった一枠に閉じ込めて下さった。大掃除を家族で分担してやってますというお話で、私はお風呂掃除を2時間もかけたら歌いながらやったと。相変わらずだ。イラストレーターさんからその原画をもらい飾ってある。そして母はそのイラストレーターとの交流がある。私も印刷した葉書だが、分けてもらい飾ってある.
私もやなせたかし先生に小さいですが、挿絵をつけて頂いた。サラッと書かれたであろうが、貴重過ぎます。

Twitterの定として今、思った事呟く。作品と違う。コメント。
noteだと作品という事になる。毎日、思い綴っていらっしゃる方でも、その積み重ねた、一遍の連なりが、作品となる。書く事の練習のつもりとして、何を書いていいかわからないながらも挑戦されてる方々もいる。
ここの辺りの時点では昔は表には出ず。自身も出すと思っていなくてノートに書いていた。

それが、即活字として表に出る。
note の方は作品を出す意義があるので責任を少なからず持ってらっしゃるとは、思う。

私はエッセイを書いてもすぐ載せれないですね。頭でグルグル書いて、タイトルだけメモしておいて、時間と気分が載った時に書いて、少し寝かすというか、推敲、加筆しますねぇ。まだ、いきなりは書けません。

次は変わって、直接受け取れる側のお話。
新藤晴一さん(ポルノグラフィティ)が、noteの意義についての話で、フィルターを通さず載せれる。晴一さんのフィルターは何枚あるだろうか。晴一さんのコトバを求める私にとっては夢みてい世界。
「自宅にて」というエッセイ集は、1回目は普通に読み。2回目は感想文書くために線を引きながら読み、3回目は時間が経ってからまた読んだ。私にはバイブルのようになる。まるで自分の考えかのように人に語っていたりする。小説も2作品出されてます。
そのフィルターを通さずに受け取るというのは、あ、晴一さんらしい言葉というのと、また新たな言葉考えを、早いテンポで、受け取れる。
作品とはっきりしてるものと、さっき話した綴っていく事によって作品になるもの。当然だか、そういう緊張感を持ってらっしゃる。
ありがたやー。願ったり叶ったり。

でnoteが多角的にやれる事をわかり、YouTubeまでやり始めてしまった。古い話をしてきましたが、夢みるおばさん49歳。母が大学入学したのが49歳。
また新しいSNSが始まったら、次の時代はSNSでもないかもしれない。また懲りもせず、また最初から載せ始めるのかなぁ。

よかったら、どうぞ
「私’」

https://note.com/now_you_tow/n/n21f4e077ea14

「○と力」

https://note.com/now_you_tow/n/ne36d6668b98c

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ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?