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#16 正解がない課題の正解を探し続けるから無駄に複雑になってしまう

うちの同居人くんは
普通の人が5分で判断するところを
2時間かかってようやく判断するようなところがある。

なんでもかんでも
そういうわけではないが
複雑に考えすぎて
どーでもいいこととどーでもよくないことが
分からなくなってしまうのは
とても頻繁に発生している。


ちょうど昨夜もそんなことがあった。

手紙をきちんと書式の通りに書いて送る、という
ミッションがあったのだが

「ほんとにこれでいいのかわからんやん」
「マジこの文化必要ない」

とひたすら言い続ける。くどくどと何度も。
※とはいえ手は動かし続けるのは偉い。なんだかんだで書き上げたし。


「人生で初めて書く手紙なんだから、正しいかどうか分かるわけないやろ」

「これまでの人生に必要なかったからって、今この瞬間に代替方法が思いつくのか」

と、だいぶ呆れ気味になだめすかしながら、
最終的にそこそこ及第のものが書き上げられた。


彼の中で問題になることが多いのは
「これでいいのか」「これを正解としていいのか」

ということである。

時間をかけたことが無駄になるのを
ひどく嫌っているし、
意味がないことをやるのは
人生において負けである、くらいの感じを受ける。


そんな彼の日常はYouTube鑑賞という
無駄な時間に溢れているのはなんとも皮肉である。


彼が言いたいこともわからないでもない。

これが正解、という道を進めれば人生順風満帆だったろうな、という家庭環境にあり、
その呪縛からまだまだ逃れられていないわけで、
自分で選んで「この道を進む」と家を飛び出したけれど
本当にこれでいいのか、辛いとき逃げ出したくなって愚痴るのもよく分かる。


けっきょく、根本的に
自分がこれまで経験してきたことの中に正解があるって前提の元に
モノゴトを判断しようとするから、
経験のないことに対して「これでいいのだろうか」「これが正解なんだろうか」となるわけである。

そうやって行き詰まって(息詰まって)実家を飛び出して来たわけのに、
まだまだその前提に気付かない。


自分の中にあるのは、経験したことへの答えだけである。

今まさに経験を積んでいる最中のことが、最終、正解かなんて分かりっこない。そもそも正解がないことのほうが多い。

正解がないものに対していつまでも正解を見つけようとしてアレコレ複雑にする人が、相談業をやっていたときにとても多かったが、同居人くんも同じくである。


自分で気づいてもらうしかないので、とりま私がやることは、初期設定とか初期衝動とか、本人が決めたスタート時点に戻してあげることである。

人を育てるとは同じことを400回言い続けること、と誰かが言っていたが、まさしくだな、といつも思ってる


下書きを10分で1記事に仕上げたチャレンジ16日目。

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