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たった一度だけ開いた、祖母の宝箱の中身。

「素敵な人だったんだよ」
私だけが知っている、おばあちゃんの打ち明け話。

* * *

父方の祖母は筋が通った人だった。
厳しいといってしまうと、少しイメージが違う。
自分も他人も、折り目正しくあることを美徳としている。こんな書きかたで伝わるだろうか。
小さいころから挨拶、敬語、立ち振る舞いなどなど、礼儀作法はきっちり仕込んでもらった。私はずいぶんおおざっぱな質で、ノビ夫によく「基本雑だからなぁ」とため息まじりに言われるのだが、祖母がいなかったら目も当てられないモノと化していたに違いない。


とっつきやすい人ではない。
だけど孫である私のことを愛おしく思ってくれているのは、言動の至るところから伝わってきていた。


一緒に散歩をして、花の名前を教えてくれたこと。
つくろい物のついでに布と針を貸してくれ、縫い方を教えてくれたこと。
藤色のインクが綺麗な万年筆で、字の練習につきあってくれたこと。
歌うのが好きな私のために、大正琴でメロディーラインをなぞってくれたこと。


祖母との思い出はオールドレンズで撮った写真のように、ふわふわと輪郭が甘く、優しい色あいをしている。

* * *

大正生まれらしく、忍耐強い。
人に迷惑をかけることを嫌がり、意見は言うけど愚痴は言わない。
そんな彼女がいつか言ったことがあった。


「ほんとうのおじいちゃんはね、素敵な人だったんだよ。小学校の先生で、優しい人だった」

二人だけの夜だった。
祖母の寝室へ泊めてもらった折、ぽつぽつっと水滴が落ちるようにふいに降ってきた言葉。
古い壁掛け時計が秒を刻む音の中で、幼い私はなんと返事をしたのだろう。
感じるものがあって、それは私の中にずっとしまってあった。

* * *

祖母が亡くなってから20年以上が経ったお盆、みんなでお墓参りへ向かう。
蚊と戦いながらお線香をあげ、墓石に水をかけているとき、側面に刻まれた名前を見た母が
「おばあちゃんは戦争で弟さんを亡くして、つらかっただろうね」
とふと漏らした。レイテ沖の海戦でまだ10代の弟を亡くしたということだった。さらに
「最初の旦那さんも戦争で亡くなっているから、本当につらかったと思う」
と母が続ける。
「あ、小学校の先生だった人」
思わず言うと、父と母が驚いた顔でこちらを振り返った。
小さい時に一度だけ話を聞いたことがあると打ち明けると、感動屋の母の瞳が少しうるむ。


「おばあちゃんは我慢強かったから、その話を誰にもしなかったけど、あなたにしていたんだね」

* * *

若くして結婚し、子どもを授かることもなく引き裂かれ、思い出は自分の中にしかない。再び結婚し子どもをもうけ、きっと幸せだったはずだけど、その日々とは一線を画した大切な記憶。
その方と私には血のつながりはないけど、幼い孫に聞かせる言葉として”ほんとうのおじいちゃん”という言葉を自然に選んだのだろう。
たった一度だけ開いた、彼女の宝箱。
中を見せてもらえた私は幸せだ。


記憶は時々、痛みをもたらす。
そして不意打ちで激しい痛みをもたらすのは、圧倒的に幸せな記憶だ。
いつも一定だといいけど、生きることはどうしても波を描き、辛い時に幸せだったころの記憶を思い出して打ちのめされたりする。
「記憶なんてなくなればいいのに!」と、弱い私はよく思うのだ。
幸せな記憶が増えていくのがちょっと怖い。我ながらややこしいやつ。


祖母のような強さを持ちたい。
つらい記憶も幸せな記憶も、きちんと整頓して自身できっちり管理できるような。できるかな?自信はまだない。でも、いつかくるかもしれない不確かな不幸を怖がって、今ある幸せから目を背けていてはもったいない。

振り返って、同じ姿勢で気持ちよさそうに眠っているノビ夫とうさぎを眺める。
私の幸せが、ここにある。

お読みいただきありがとうございました!
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