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『感情史とは何か』

☆mediopos2264  2021.1.27

ひとの心は
思考・感情・意志から
成っているといわれる

神秘学的にいえば
思考は過去から
意志は未来からくる
そして感情は今生まれている

感情のさまざまな働きは
かつて神々が私たち人間に
外から働きかけていたものが
しだいにわたしたちの内的な
魂の働きになってきたという

本書はもちろん
そうした神秘学的な視点ではなく
歴史的に形成されてきたものとして
感情をとらえている

感情というカテゴリー自体は
比較的新しいものだというが
それにあたる働きをあらわす言葉は
古代ギリシアにもあり
アリストテレスは感情を
認識の諸形態としてとらえていた

やがてヘレニズム期のストア派は
あらゆる感情的反応を
判断を誤った結果であると考え
さらにそのとらえ方を継承した
キリスト教の神学者たちは
神に向けられる感情のみを
正しい感情だともとらえるようになる

やがて一三世紀に神学が哲学や医学と融合し
一七世紀にデカルトは心と身体の二元論において
感情をとらえるようになり
ロックは情念を経験の産物とみなしたが
その後感情は機械論的で物理主義的に
アプローチされるようになる

そして現代にいたって
感情は脳の特定部位によって引き起こされると
いわれるようになってきていたが
そうした「古典的見方」への挑戦のひとつとして
本書の著者は感情という「秘密の生活」を
長い時間をかけて習慣となった身体的実践を通じて
表現される「感情史」としてとらえようとする

感情を歴史的に形成されたものとしてとらえるのは
感情の働きが人間の魂の進化にともなって
内的な魂の働きとなってきたという観方に通じている

感情の働きはひとそれぞれ千差万別である
そして本書にもあるように
共同体によってある種の傾向性が
育てられているところも多分にある

現代の人間の進化的な課題は
自我がアストラル体に働きかけて
霊我へと変容させることだとされるが
言葉をかえていえば感情や感覚を
高次の姿へと育てていくのだといえる

かつてのストア派のように
単に感情を統御しようとするだけではなく
複雑な現れ方をしている無数の感情を
(ひどく単純な感情しかない場合もあるが)
調和的に生かしながら豊かに育てていくことで
生きた思考や意志をも育てていくこと

おそらくそうすることが
かつて神々の働きであったものを内的なかたちで
新たに創造していくことにもなるのだろう

■バーバラ・H・ローゼンワイン/リッカルド・クリスティアーニ
 (伊東剛史/森田直子/小田原琳/舘葉月 訳)
 『感情史とは何か』(岩波書店 2021.1)

「感情史は、感情とは何かといった類の概念に依拠する。このことは思ったよりも難しい問題をはらむ。皮肉に聞こえるかもしれないが、私たちはどうやって感情が感情であることを知るのだろうか。その答えを私たちは知っている(と思っている)。「それについてどう感じる?」と親戚や配偶者や友人や担当のセラピスト、あるいはテレビ・レポーターに質問されるとしよう。私たちは、「幸せ」とか「怒っている」と答えたり、突然泣き出したり、鼓動が速まったりする。しかし、これらの言葉や涙、鼓動は、どれほど正確に感情の表徴であったり、感情自体であったりするのだろうか。何がこうした言葉や身振りやそれらが含む概念を、「感情」にしているのだろうか。感情は私たちに生まれつき備わっているのだろうか、それとも学んで身につけるものなのだろうか。感情は理性的なのか、非理性的なのか。私たちは、自分がどう感じているかを本当に分かっているのだろうか。それとも、感情は私たちの知り得るものを超えた何かを含んでいると言った方が良いのだろうか。」

「「感情」というカテゴリー自体は比較的新しいが、それにほぼ相応する用語----意向、情緒、情念----は、古代ギリシア以来の西洋の言語に存在する。だが、各々の単語が意味する範囲は今も昔もぴったりとは重なり合わないし、新しい離単語である「感情(emotion)」も、研究者によって別々のものを意味する。それでも、この単語の曖昧さを分かってさえいれば、議論をするのに十分な共通性はある。
 感情を理論的に把握する仕事は、長いあいだ哲学者の領分であった。アリストテレスは、『弁論術』第二巻で感情について多くのページを割いている。弁論家は聴衆の考えを左右する必要があったが、それには事実を述べるだけでなく、心を動かす事も重要であった。アリストテレスはによれば、感情----古代ギリシア語のパテーpathe---とは、「人々の気持ちが変わり、判断の上に差異をもたらすようになるもので、それには苦痛や快楽がつきまとっている。例えば、怒り、憐れみ、恐れ、その他この種のもの、および、これらとは反対のものがそうである」。アリストテレスにとって感情は、認識の諸形態であった。つまり、それは与えられた状況への個人的に評価に左右されるものであった。(・・・)
 その後、ヘレニズム期のストア派とエピクロス主義の科学者たちが感情の考察をお家芸としたが、それは、感情を支配し克服するためにすぎなかった。(・・・)総じてストア派は、あらゆる感情的反応は、判断を誤った結果であると考えていた。(・・・)
 四世紀末にローマ帝国がキリスト教化されると、哲学者よりもむしろ神学者が中心となって感情を理論化するようになった。初期キリスト教時代の多くの修道士は、ストア派の慎重な見方を受け入れたが、中には、感情が正しい道に、すなわち、現世の物事にではなく神に向けられる限りにおいて、感情を歓迎する者もいた。(・・・)
 一三世紀に神学が哲学や医学と融合すると、感情に関するさらに複雑な議論が続けられた。一七世紀には、哲学者であり数学者でもあったルネ・デカルトの『情念論』(一六九四年)が心と身体を分離したとされ、この二元論が長期に渡り影響を持つことになる。哲学者で医者のジョン・ロックの『人間知性論』(一六九〇年)は、愛情から羞恥に至る情念を経験の産物とみなした。一八世紀になっても神学者、医者、哲学者が感情を理論化する課題を共有し続けたが、時とともに、世俗的で機械論的で物理主義的なアプローチが支配的になった。そして、一九世紀のあいだに「感情」は、情念や情緒やその他多くの言葉に取って代わって選ばれし術語となった。それは事実究明に絶好の便利で簡素なカテゴリーとして、実験を行う科学者たちによってほぼ独占される現在の状態をお膳立てした。」

「脳の「秘密の生活」に関する最近の著作の中で、神経心理学者のリサ・フェルドマン・バレットは、感情が普遍的で、ハードウェアに組みこまれた反応をし、それぞれの感情は脳の特定部位によって引き起こされる、という「古典的見方」に挑戦している。「私たちは、感情がなんであるかちうこと、どこから来るかということについれ、新しい理論が必要である」。バレットが科学を頼りにしているように、私たち感情史家もその「秘密の生活」を明らかにするために、感情の歴史を見ているのだ。私たちは、感情がその中に、過去、現在、未来の意味を含んでいることを知っている。すなわち、感情は一つではない(一つの「怒り」、一つの「怖れ」というものはない)。感情は単に(ダーウィンがすでにそう言っているように)「体を通じて」表現されるだけではなく、長い時間をかけて習慣となった身体的実践を通じて表現されるのである。そして、感情は、共同体によって異なる。
 単刀直入に言ってしまおう。感情生活についての考えに革命を起こす時だと、私たちは考えている。教育者、政治家、宗教的リーダー、親、そしてメディア・クリエーターたちは、感情の歴史を考慮すべき時だ。彼らは、人間の条件や社会についての知識、合意、助言を広める人々だ。これは理論上の話ではなく、私たちの日々の生活に常に関わってくることなのだ。友達が「幸せだ」と言うとき、私たちはその顔が笑顔で輝くのを待つ必要はない。逆に、友達が何も言わずに微笑んだときに、私たちは友達は幸せなのだと単純には推測できない。私たちは、友達の幸せ、そしてその表明が、近代社会の要諦と結びつく比較的新しい出来事だと分かっている。そして、経済的独立というかつての意味合い、あるいは天国の至福という同様に古い観念が、そこに息づいているのを知っている。私たちは友達の幸福が本物ではない可能性、それがこの友達が時機が来たら公言する、あるいは自分の内に秘めておくかもしれないより多様な感情の一部である可能性を考える。また、この幸福に関する私たちの理解というものが、この友達がどのように自分を感情を表現する傾向があるのか、幸福が友達のレパートリーの中でどのような位置にあるのかということに依ることも理解している。同様に、もし子ども「私は不幸せだ」と言うなら、その子にしかめっつらをするようには言わないだろう。その子の「不幸せ」という言葉がその子の言いたいことの最後だとは思わないだろう。その子の涙がより多くの痛み、しかし同時に喜びをも与えることを分かっているだろう。その子が徐々に他の感情も表現するようになることを、私たちは期待するだろう。そして、私たちが恋をするとき、愛する人に触れたいと思うとき、もしくはそれをためらうとき、この渇望がすべてのものの中に、愛についての多くの意味をめぐる長い歴史があることを分かっている。私たちの愛は、欲情、犠牲、そして愛の排他性へのロマンティックな考えと古くから結びついている。私たちは、愛が、怒り、怖れ、メランコリー、あるいは見せかけの無関心を伴うものであったとしても驚かない。
 私たちは皆、自分たちの感情がいかに力強く、深く、複雑であるかを知っている。感情史は、なぜ、どのようにそうであるのかを理解することの手助けとなる。そして、感情史が、私たちが日々の感情を理解し生きるやり方の中に浸透すれば、それは、私たちを悩ませる感情とうまく付き合うことも助けてくれるだろう。」

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