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『民俗学の思考法/<いま・ここ>の日常と文化を捉える』

☆mediopos-2321  2021.3.25

「日常」は「当たり前」だろうか
民俗学はわたしたちの生きている「日常」を問う

「日常」はたしかに「当たり前」だが
その「生活世界の自明性」を成立させているものは
いったい何なのだろうか

日々生きられている「日常」は単なる「日常」ではない
非日常と対置され意識と無意識の交差する場所でもある
そのことが意識されないだけだ

その意味で
日常と非日常は
意識と無意識に交差する

日常は顕在意識として生きられているが
「当たり前」であるがゆえに
意識化してはとらえにくい

非日常は「当たり前」ではないが
単なる無意識的なものでもなく
顕在意識を超えた意識も生きられているがゆえに
意識的でありかつ無意識的でもある

民俗学は「当たり前」に
そしてときには非日常とされるものに光を当てる
そこにどのような角度で光を当てるか
照射されたものがどのように見えるかによって
さまざまな姿が見えてくることになる
それが興味深い

日常」のなかで意識化できる
さまざまな文化背景や歴史などはもちろんだが
それらが成立している言葉にならないものも
またそこで否応なく浮かび上がってくる
おそらくそれを問い直すことが重要なのだろう

さて本書のなかで
現在では「当たり前」になっている
「ネット社会」という「民俗」の概略が
記されていたので引用してみた

今ではスマートフォンやインターネットが
「当たり前」になっているが
現在のような「日常」になるまでに
テレビ放送の開始
各家庭ごとの電話の普及
各個人の携帯電話そしてスマートフォン
パソコンからインターネットそしてSNSなど
メディアの状況は急速に変化を続けている

そのなかで
わたしたちの生きられている「日常」は
どのように変わりさらにこれから
どのように変わっていくだろうか

そこで展開される「民俗」を見ていくだけではなく
まさにその「自明性」を問いなおし
「<いま・ここ>の日常と文化」のなかで
何が起こっているのかを問うことこそ
「民俗学」の重要な役割になってくるのではないかと思われる

■岩本通弥・門田岳久・及川祥平・田村和彦・川松あかり 編
 『民俗学の思考法/<いま・ここ>の日常と文化を捉える』
 (慶應義塾大学出版会 2021.3)

(岩本通弥「日常」より)

「(日常とは)自らの身の回りのありふれた事柄のことであるが、民俗学では当たり前になってゆく動態的な日常化も含めている。柳田國男は民俗学を「事象そのものを現象として、ありのままに凝視し、「わかっている」「当たり前だ」といわれているその奥の真理を洞察すること」だと定義したが(『民間伝承論』1934)、そう言われて見過ごされがちな卑近な事象に眼を注ぐことは、生活世界の自明性に対し、思考を停止させてきた素朴な態度や判断を一端保留させ、内省的行為を促す作用を持っている。
 ドイツでも日常(Alltag)は、多義的で含み豊かな分析概念として使用される。祭日と対置される日常、ルーティン化された日常、家族的日常、家庭外労働の日常を含むとともに、アルフレッド・シュッツの現象学的理論やブルデューのプラチック論とも接続するほか、後期資本主義における大衆消費社会の社会政治分析としての疎外理論、ルフェーブルの日常生活批判やアドルノらの文化産業批判も含意される。自身の日常を問うことは、自らの足元を照射し、民主主義の根本や近代への反省を問いなおしてゆく。
「柳田はしばしば平凡という言葉を使って、日常に言及した。「我々の平凡は、この国土に根をさした歴史ある平凡である。少なくとも其発生の根源に於て、必要も無く理由も無いといふものは一つだつて有り得ない」と述べ、『明治大正史 世相篇』では「新しい生活には必ずまた新しい痕跡がある」として、直近の過去60年間の日常や生活の変化を極めて具象的に描き出した。
 この視線はすでに1904年の『農政学』にも、「数十年来の歴史と之に養はれたる特殊の民俗」と見えており、人びとの日々の生活実践が新しい生活のあり方を形作るものだと捉えている。「今に依って古を尋ねる」のであり、現在の生活断面に、直近の数十年の歴史に養われた民俗=人びとの生活のあり様(行き掛かり)が反映されると捉え、現在から倒叙的に、歴史あるいは日常化の過程が解読される。」
「民俗学が問うのは、多くの人びとが当たり前のこととして見えている事柄が、なぜ当たり前のこととされるのか、私たちと生活空間・体験空間を共有する人間が、その自らの存在を、現在/過去がいかに形作っているのか/きたのか、個人や小集団がいかに外部の文化的価値を摂り込んで、いかに消費しているのか、その日常なのである。」

(飯倉義之「ネット社会の民俗」より)

「現代社会においては、公私を問わずwebを経由してのコミュニケーションが日常に欠かせないものとなっている。日本におけるネット社会の到来について、画期となるのは1995年である。マイクロソフト社のWindows95の発売だ。単色で文字のみが羅列された画面にプログラム名を打ち込んで各動作を作動させていたパソコンが、色とりどりのアイコンが並ぶ華やかな画面に替わり、クリック一つで動作するようになった。技術者しか扱えない印象のあったパソコンが視覚的・直観的に操作できるようになって、一般の人びとや一般家庭に浮遊していく。そしてなによりもWindows95はワールドワイドウェブ(www)に対応したネットワーク機能が充実していたのである。ホームページ、メール、チャット、掲示板といった「擬似的な声(文字媒体でありながら声のような即時性を持つコミュニケーションの形態)が本格的に始まっていく時代となった。
 www以前にも、パソコンを通じたネットワークは存在した。電話回線を通じてホストとなるパソコンと会員のパソコンとを直接繋いで掲示板上で文字で会話する「パソコン通信」である。電子掲示板(BBS)の開設者が「親」となり、登録した会員が「親」のパソコンに直接アクセスして書き込む仕組みだった。パソコン通信は1980年代後半に盛行したが、wwwの普及につれて、1990年代に徐々に廃れていった。
 1990年代は携帯電話が一般化していく時代でもあった。NTTドコモが1999年に実装した「iモード」は、携帯電話に対話以外の文字・画像・音声・動画コンテンツを提供する可能性を開いた。その後携帯電話はwwwに直接アクセスできるようになり、2010年代にはさらに多機能のスマートフォンが主流となって、さまざまなソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)でのコミュニケーションが花開いたのである。」
「ネットコミュニケーションの特徴は、居住地・職業・年齢その他の差異を無化して、興味関心により個人同士が即座に結びつくことが可能になったことと、自身を開示しないままに深いコミュニケーションが取れることにある。このような、地縁や血縁、職縁等を介さず匿名性を保って行われる社交はそれまでには存在しないものだった。
 しかしそうしたネット社会も、その本質は人間が作り出す(仮想の)共同体である。そこには当然共同体の慣行や不文律、すなわち「民俗」が生まれてくる。パソコン通信の時代にすでに応答や書き込みのマナーが自然発生し、緩やかに共有されている。それはネット時代には「ネチケット」「ネットマナー」として受け継がれた。こうした「自然発生し定着した社交の技術」は「ネット社会の民俗」と言えるだろう。また、文字列を組み合わせて感情を表現する「顔文字」や、絵画を表現する「アスキーアート(AA)」は「擬似的な声による表現の技術」と言える。ネット内で発生し、流行(しては死語化)する「ネットスラング」や、横書きの掲示板への書き込みやメールの各行の頭文字を縦に読んだ時に意味を持たせる「縦読み」も含めて「ネット社会の口承文芸」であり、動画SNSでの発信が流行する歌やダンスやチャレンジは「ネット社会の民俗芸能」と言えるはずだ。
 こうした「ネット社会の民俗」は、生成・展開・衰退のスパンが総じて早い。が、これらをたんなる一時の流行とせずに、ネット社会における新たなコミュニケーションの領域として捉え、そこに展開する「民俗」を考えていく必要があると考える。」

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