土井善晴『味つけはせんでええんです』
☆mediopos3306 2023.12.6
土井善晴『味つけはせんでええんです』は
「なにもしない料理」が地球とあなたを救う
という「一汁一菜」という原点から
料理を問い直そうとするエッセイ集だが
それがひとつの文明論ともなっている
そこで求められているのは
「本当に「わかる」ということ」にほかならない
土井善晴はそのことを
岡潔のいう三つの段階の「わかる」で説明している
まず「事柄がわかる」こと
つぎに意味がわかる「理解する」こと
そしてそれでは不十分なので
「さらに進んで「情緒がわかる」」こと
「ここまで行かなければ、
なに一つ本当にはわからない」という
「バカになるもとは学問にあったんです」
「学問が人間をバカにするんです」
「人間の生きた知恵を学問が奪うのです」
「学問をして、みんな利巧になったから、
日本はおかしくなったんです」
といった小林秀雄の言葉も引かれてあるが
学問をするなということではなく
その「利巧さ」に固執することで
「情緒がわかる」ことが阻害されるということだろう
柳宗悦が「直観でものを観」たということも
そのことに関連している
「現代人は知りすぎて」いて
それが「バカの壁」となって
なにも見えなくなっているともいえる
料理にしても
AIによって数値化し単純化することで
効率的に同じものをつくることはできるだろうが
「おいしいものとは単純なものでは」なく
「複雑」であって「同じものは二つと」ない
いつもつくるたびに一回性であって
はじめての体験であり経験となる
ほんらいの意味で「学ぶ」ことは
同じことの繰り返しでは決してなく
どんなに同じようなことをしていても
いつも「はじめて」学ぶことである
さらにいえば
たとえば「数」をわかるということも
「情緒がわかる」ことがなければ
AI的な処理と変わらなくなる
それは人間であることをやめるということだ
現代はなんでも計測したり数値化したり
エビデンスという言葉で
その正しさを御旗にしているところがあるが
それそのものが「学ぶ」ことを阻害し
「バカになるもと」にさえなってしまっている
そこに権威が加えられると
「バカ」は累乗された「バカ」にさえなる
「味つけせんでええ」というのは
そんな「バカ」にならないように
つねにはじめて学ぶように学ぶということだろう
本書でとくに印象に残ったのは
『ええかげん論』の出版を記念して
土井善晴と中島岳志が「ええかげんクッキングー」
というオンラインイベントを行った際のことで
それまで封印されていた「パンドラの箱」の蓋を
そこで開けてしまったという話である
そこで行われようとしたことは
「なにも決めないで、打ち合わせもしないで、
時間的制約のある料理教室を始める」ことで
「予定調和ではない、狙いのない、即興劇の偶然」で
「一汁一菜」の先にあるだろう
「新しい自分」を生み出すことだったのだが
そのことで「料理の秩序を失」い
パニックに陥ってしまったというのである
しかしそれで見えてきたものがある・・・
その「先」には
「一汁一菜」という核心からひろがる
「料理の楽しみ」を伝えるということがあり
さらにはそれが
「行き詰まった資本主義の負の連鎖を断ち切る」ための
力にさえなり得るように
「「本当に「わかる」」ということを
一人ひとりのなかに生みだすということでもあるだろう
■土井善晴『味つけはせんでええんです』(ミシマ社 2023/10)
(「1 料理という人間らしさ」〜「本当に「わかる」ということ」より)
「岡潔は人間の「わかる」を三つの段階に分けて説明します。まずは、「事柄がわかる」こと。あれは山である、川であるというわかり方です。その次が、意味がわかる「理解する」というわかり方。しかし、これでも不十分です。さらに進んで「情緒がわかる」まで行かないといけない。ここまで行かなければ、なに一つ本当にはわからない。
「食とはなにか」という問いに対する回答は、すべてのことにかかわるのです。日常のすべて、時間のすべて。この世のすべてです。時空を超えてということだと思います。それを本当にわかるということを、直観的にやってのけるのですから、なまみの人間はすごいですね。なにかを瞬間的に摑んでしまうのです。
その直観を得るために、私たちは情緒に注目し・・・・・・柔道、茶道のような・・・・・・道中の振る舞い(動詞)を大事にするのです。それは目標ではありません。私は料理を本で学んだのではありません。自然や人間との関係にある。料理という道中に学んだのです。」
(「1 料理という人間らしさ」〜「見た以上は、学びなおさなければならない」より)
「民藝の美を発見した柳宗悦もまた直観でものを観ました。柳は理論で美は観えないと言い切ります。目を凝らさなくても、じっと見続けなくても、すでに観えているのです。観えるとは、観たものと、観る人のなにかが結びつくことなのでしょうね。美の存在(気配)に気づけばいいのです。観えることは喜びです。うまく言えませんが、肉眼で「見える」(感覚所与)ものと、刺激に反応する豊かな悟性の活きによる情動。「観える」ものから湧き上がる情動の存在を信じて経験を重ねれば、だれにでも観えてくるものだと思います。」
「現代人は知りすぎているのだと思います。なにも知らなければ気づくことができたかもしれません。柳宗悦とともに民藝をつくった濱田庄司の工房に、地方のある陶芸の里から若者が勉強に来た日のことです。そのとき、濱田は彼に、「気味はこう見たんだよ」と言ったのです。見なくていいものを見てしまったんだと言うのです。彼にとって見ないほうがよかったかもしれません。彼にとって見ることは、すでに持っているものを捨てることになるからです。
捨てなければ掴めない。見た以上は、すべてを学びなおさなければならないと言っているのです。そこから、若者の陶芸家としての道が始まるのです。」
(「1 料理という人間らしさ」〜「現代人は知りすぎている」より)
「気づくためには、自分はなにも知らないことを知ることだと思います。知っているつもりにはなれます。知る。わかるには、軽重があります。でも気づくことに、軽重はありません。気づくことは、もっとも尊いことだと、今、気づきました。気づきは万能ですね。
現代社会には、食べものの情報が溢れています。そういう意味で、もうみなさんはなんでも知っているのです。あらゆるレシピ、料理の新しいテクニックも、食材やスパイスのことも、味覚の科学、栄養や健康(ダイエット)、体によくない食べもの、おいしいレストランにいたるまで、食に関するあらゆることを知っています。それに、食事や料理が人間にとって大事なことも知っているでしょう。情報を利用してお料理をしたり、美食を楽しまれている人も大勢います。
でも同時に、情報がありすぎることによって、料理すること、食べることさえも苦しみになることがあります。現代の食はあらゆる問題の種でもあるわけです。そしてそれらの問題は、そういった情報をいくら知っても、なにも解決しません。」
(「1 料理という人間らしさ」〜「料理は、地球と人間のあいだにある」より)
「AIやロボットができることは、自然を一面的に見て数値化することです。それは単純化して、みんな同じにすることです。(・・・)
おいしいものとは単純なものではありません。複雑です。同じものは二つとありません。とくに和食のおいしさとは再現不可能なものなのです。和食においては、人間の料理上手・下手は問題ではありません。だれにとっても、お料理は思うようにならないものなのです。だから、おいしくできれば、うれしくなるのです。」
(「2 料理がひとを守ってくれる」〜「「一汁一菜」の先に感じているもの」より)
「私が書いたものを読んでいただけるのは、料理をとおして見える、なにか料理とは違う世界が、その背景にあるんじゃないかと、感じてくださっているからのように思います。じつは私もそう思っています。
そのきっかけが『一汁一菜でよいという提案』です。一汁一菜とは伝統的なこの国の庶民の暮らしの中にあったもの。それを現代の食事づくりの基準(手段)にすることで、料理することが楽になったり、楽しくなったり、健康を取り戻したりしたということです。
でも、それはことの起こり。一汁一菜は思考以前にあり、本当の意味での料理研究が私の中で始まったのです。そのときすでに、その先に続く、もっと深く、広がっているものがなんとなく見えていました。その感覚的に感じていたことを、繰り返し言葉や文章にして、金下ながら、進んでいる道中だと、ご理解いただきたいのです。
そうした観点を持って、今一度時代を振り返り、食を考察してみたいと思います。」
(「3 偶然を味方にする――「地球と料理」考」〜「もの喜びする人」より)
「ただ真面目に勉強していてはいけないと小林秀雄も言っています。
「バカになるもとは学問にあったんです」
「学問が人間をバカにするんです」
「人間の生きた知恵を学問が奪うのです」
「学問をして、みんな利巧になったから、日本はおかしくなったんです」
と、繰り返し力説して教えてくれているのです。」
(「5 料理する動物」〜「人間が自我を最優先するのはなぜか?」より)
「経済と結託する「おいしい」は、「正しさ」を謳い、美食の権利を振りかざし、人々に寄り添うようなフリをして、いかなるステータスにある人にも見合った快楽物質を一瞬だけ提供するのです。さも、おいしさだけが私たちを癒やすかのようです。
ストレスの多い競争社会を築いたところに、ストレス解消の特効薬もしっかり用意して、利益を得るのです。「みなさんはお金が欲しい、お金が一番大事と言ったじゃないですか」と、責任はすべて私たちにあると言うのです。」
「人間が我を忘れて、自我を最優先するのはなぜでしょう。料理する人への思いやりを忘れ、文句を言うのはなぜですか。他者を思いやる気持ちがないのは、明らかに想像力(イマジネーション)の低下です。
「それはね、おいしいものの食べすぎなんですよ」と、私が言えば、また「それは言い過ぎでしょ」「何を根拠にしているのですか」って、みなさん、おっしゃることでしょう。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「料理は「構想」と「実行」が分離しない」より)
「二〇二二年十二月二日夜七時。共著『ええかげん論』(ミシマ社)出版を記念して、土井善晴と中島岳志の「ええかげんクッキング−」というオンラインイベント(一時間プラス対話三十分)を配信しました。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「ええかげんの料理をはじめても自由になれる」より)
「土井善晴と中島岳志の「ええかげんクッキングー」は発刊記念で開催するイベントですから、『ええかげん論』に倣って、なにも考えてはいけないという私がつくった制約があります。
あらかじめなにも決めない。考えない。決まっていれば予定調和になっておもしろいくない。その場で、瞬間的に見た食材(対象)に身体的に反応しながら、料理をし始めなければならないのです。それが今回のイベントの意図するところです。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「料理の楽しみの世界へ」より)
「この「ええかげんクッキングー」イベントは、「みなさん、またここで一汁一菜を私がつくっても仕方がないでしょう。・・・・・・それはすでにみなさんもわかっているわけですから、その次に進めたい。つまり、みなさんを料理の楽しみの世界に誘いたいと思っているのです」と言ったつもりで、始めたのです。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「パニックの中で起こっていたこと」より)
「一汁一菜の次のことをやらなければならなかったのです。私は、具だくさんの味噌汁を封印して、シンプルな調理法に固執して、一汁一菜という大前提の旗を下ろすのです。するととたんに、料理の秩序を失っていたのです。
揺るぎなくなにかを支えていた心棒が抜け落ちたようでした。一汁一菜(という提案)以前に戻ってしまったのです。私は半ばパニック状態です。」
「なにも決めないで、打ち合わせもしないで、時間的制約のある料理教室を始めるなんて、そもそも無理だったのかと思っていたのです。そのショックは余程だったと思うのは、その二〜三日後に、冷静になってから、このイベントの失敗を認める(この)文章を書き始めていたのです。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「パンドラの箱が開いた」より)
「レシピどおりつくるのは、昨日の自分に頼ること、それではなにも新しい自分が生まれない。それはクリエイションではない。新しい自分が見たいのだと、自由に料理するところに楽しみがあるのです。予定調和ではない、狙いのない、即興劇の偶然に、発見や発明という不思議が起こるのです。
そうしたことが生まれる環境をつくるには、前提として、私自身が平常心でなければいけません。緊張したり、作為を働かせたり、うまくやろうなんて思うとすぐにだめになってしまいます。それがまずできていなかった。」
「オンラインイベントから二か月ほど経ちました。このイベントの結末を妻と話していたのです。すでに笑い話になっていたのですが、そのときの私の様子を見ていた彼女は、そのときパンドラの箱が開いたのだと言うのです。
その言葉に驚きましたが、まさにそのとおり。それまでパンドラの箱を封印していたのは、一汁一菜だったのです。ありとあらゆる悪ではないにしても、料理の苦しみや辛さ、私たちを惑わしていたあらゆる情報が封じ込められた箱の蓋を、私は開けてしまったのです。」
(「6 パンドラの箱を開けるな!」〜「有限に守られて幸せになる」より)
「私は一汁一菜の次をやりたいと考えていたのですが、先に進むにも核心は一汁一菜にあったのです。一汁一菜が食を初期化し、食の秩序を取り戻していたのだとわかったのです。
ちょうど斎藤幸平さんの『ゼロからの「資本論」』を読んでいるときで、ベーシックインカムも資本主義の負の連鎖を止められないことを知って、資本主義の手強さを考えていたときでした。
いや、私の意見に斎藤さんがなんと言うかわかりません。でも一汁一菜は、行き詰まった資本主義の負の連鎖を断ち切ることができるのです。一人の人間は弱いですが、一汁一菜を実行するちっぽけな人間が増え大きな力となれば、負の連鎖を断ち切ることができると思うのです。お金という現実に対抗できるのは料理という現実だけです。」
「未来は私たち自身が選択したとおりの結果になると思います。」
●目次
1 料理という人間らしさ
2 料理がひとを守ってくれる
3 偶然を味方にする――「地球と料理」考
4 味つけはせんでええんです
5 料理する動物
6 パンドラの箱を開けるな!
□土井善晴(どい・よしはる)
1957年大阪生まれ。料理研究家。十文字学園女子大学特別招聘教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、甲子園大学客員教授。スイス・フランスでフランス料理、味𠮷兆(大阪)で日本料理を修業。1992年においしいもの研究所設立。料理とは何か・人間はなぜ料理をするのか・人間とは何かを考える「食事学」「料理学」を広く指導。2016年刊行の『一汁一菜でよいという提案』が大きな話題に。2022年度、文化庁長官表彰受賞。ミシマ社から中島岳志との共著『料理と利他』『ええかげん論』を上梓。
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