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中沢新一『精神の考古学』/メルロ=ポンティ『眼と精神』/クレー 『造形思考』/アーサー・ザイエンス『光と視覚の科学 神話・哲学・芸術と現代科学の融合』

☆mediopos3392  2024.3.1

「見る」ということは
どういうことなのだろうか

私たちはふつう
外的世界を対象化して見ることで
「自分は世界を見ている」と思っているが

中沢新一が『精神の考古学』のなかでとりあげている
ゾクチェン思想家たちにとっては
それだけではまだ「世界を見ていない」

「見る」というとき
「遠方に対象物を見出し捕獲する眼のセム型知性」と
「セムを包摂し、セムの基体をなしている知性」である
「セムニー型知性」がある

その両者は不二一体だが
「セムニー型」の「根源的知性が「リクパ」として、
眼から外に放出されて、
「どこでもない空間」に金剛連鎖体を出現させる」
というのである

このゾクチェン思想は
「仏教の心理学である唯識のように、
眼が見ている世界は妄想であるとは言わない」が
ただ見ているだけでは「世界は見えていない」
「その眼が空の眼と不二一体に結びついたとき」
「はじめていままで見えなかった世界の姿が
見えるようになる」というものである

こうした視点は
「表象を堅固な基礎に据えない、
東洋の「非表象的文明」の中に発達してきた」が
「表象的文明」である西欧においても
それは身体性による実存的探求としてではないものの
二十世紀の「絵画の実践をとおして展開」されているという

それはクレーが「芸術とは見えるものを再現するのではなく、
見えないものを見えるようにするものである」といったように
「眼とそれ以前のもの」への帰還の運動である

メルロ=ポンティは、『眼と精神』において
パウル・クレーの言葉を使いながら

「〈見えるもの〉の特性は、
厳密な意味では〈見えない〉裏面、
つまりそれが或る種の不在として
現前させる裏面をもっている」といい

「見えるものの太古の基底では、
画家の身体を侵すような何ものかがうごめき、点火され」
彼の手は「おのれから遙か遠く隔たった
意志の道具以外の何ものでもないもの」となるという

それはゾクチェンの「セムニー型知性」のように
「表象とそれ以前のもの」への帰還を示唆している

昨日もふれたが
ゲーテがイデアを「見る」ことができるといい
シュタイナーが霊的に「見る」ための器官を示唆したように
精神的なものと物理的なものをわけないで
その両者に橋を架けて「見る」ことは
狭義の科学を超えた視点を拡張するためにも重要である

わたしたちは外的対象をただ見ているだけではない
「見る」ということの根源には
精神的・霊的な力が働いている

サン=テグジュペリが『星の王子さま』の中で
いちばん大切なものは目に見えないから
心で見るんだといったように
「見えないものを見えるようにする」
そんな心をひらかなければならない

光あれ
すると
光がそこにあった・・・
そんな神的な眼を創るためにも

■中沢新一『精神の考古学』(新潮社 2024/2)
■モーリス・メルロ=ポンティ(滝浦静雄・木田元訳)
 『眼と精神』(みすず書房 1966/12)
■パウル・クレー (土方定一・菊盛英夫・坂崎乙郎訳
 『造形思考(上) (下)』(ちくま学芸文庫 2016/5)
■アーサー ザイエンス(林大訳)
 『光と視覚の科学 神話・哲学・芸術と現代科学の融合』(白揚社 1997/9)

*(中沢新一『精神の考古学』〜
 「第六部 チベットの眼と精神/ 20 空を見つめるヨーガ」より)

*「内部科学をめぐる現代科学は、青空に現れる光点を、あくまでも「対象一般」の中に還元される物質的過程として取り扱おうとする。ところがゾクチェンはトゥガルのヨーガによって自然に出現してくる光点の存在と活動を、身体という個人的特異性の場所に現れる現象の、なにものにも還元されない「生な意味」として究明しようとするのである。(・・・)

 身体を拠り所としておこる人間的実存の全体生の中で、そのことがどのような意味をもっているのか。そのことの意味をゾクチェンは、事物を対象化するセムによってではなく(またそのセムに接続されて距離と対象化を生む「遠方に通達する投げ縄としての水のランプ」の機能によってではなく)、セムを包摂する無分別のセムニーの側から究明しようとする。

 ゾクチェンのトゥガル・ヨーガでは、「水の泡」とも「水の眼」とも呼ばれる眼をとおして、二つの異なる知性が出入りを繰り返している様子を、如実に見届けようとする。一つは主客対象をつくりだすセム型の知性である。この型の知性は眼を抜け出て遠方にまで投出され、そこで対象世界の情報を捕獲収集して、また眼に戻ってくる。その情報は水の溜まった眼を通過して網膜の神経組織に達し、そこで変換を受けたのちに、脳のイメージ野に送られる。この過程の中で、セムを駆動しているロゴス的知性が大きな働きをしていいる。私たちがふつうの意味で「ものを見ている」というのは、水の眼のもつこのような働きによっている。

 しかしトゥガルのヨーガでは、そのとき同時に水の眼からはセム型の知性とは別種のセムニー型の知性が、内部空間と外部空間の中間の「どこでもない空間」に放出されている様子を観察するのである。セムニーはセムを包摂し、セムの基体をなしている知性である。この根源的知性が「リクパ」として、眼から外に放出されて、「どこでもない空間」に金剛連鎖体を出現させるのである。遠方に対象物を見出し捕獲する眼のセム型知性と、金剛連鎖体となって青空にあらわれている眼のセムニー型知性とは、じつは不二一体(主体と客体が分離しないまま一体であること)である。しかしリクパこそが知性の基体であることを知らなければ、視覚といえば対象捕獲のための眼のことしか、頭にうかばない。

 そうやって、私たちは「自分は世界を見ている」と考えるのだが、ゾクチェン思想家たちが水の眼だけによっては、私たちはまだ「世界を見ていない」と考える。水の眼は、自分の見ている世界に、遠い、近い、大きい、小さい、明るい、暗いなどといった分別を入れて、世界を遠近法的に認識している。しかしそのとき、リクパであるセムニー型知性には、そのような遠近法が虚構であり、世界は全体としてそこに同時に存在し、相互連携しあっている様子が、ありありと映っている。(・・・)

 ゾクチェンは仏教の心理学である唯識のように、眼が見ている世界は妄想であるとは言わない。世界への通路として水の眼が開かれ、そこから心が「色界」を捉えていることを、あるがままに認める。しかしこの色界にはまだ「世界は見えていない」のである。その眼が空の眼と不二一体に結びついたとき(「色即是空」)、はじめていままで見えなかった世界の姿が見えるようになる。」

*「「トゥガルのヨーガを組み込んだゾクチェン思想は、人類史で考えればけっして孤立した探求ではない。ゾクチェンは一面において「ものを見る」とは何か、という根本的な問いを発展させた思想であるが、このような問いはまったく別の形をとおして、西欧世界でも探求されてきた。西欧世界はこの問いかけをおもに絵画の実践をとおして展開した。そこで繰り広げられた「眼の冒険」は、ゾクチェンが探求してきた問いと多くの共通点をもつ。両者は眼球的知性の一大冒険として発達してきたのである。

 西欧絵画を「眼の冒険」という視点から解き明かした現象学者モーリス・メルロ=ポンティは、『眼と精神』の中で、画家パウル・クレーの言葉をふんだんに引用しながらつぎのように書いている。

   〈見えるもの〉の特性は、厳密な意味では〈見えない〉裏面、つまりそれが或る種の不在として現前させる裏面をもっていることだ、ということを意味する。「かつて今のわれわれと対蹠的な立場にあった人たち、つまり印象派の人たちが、日頃見慣れている光景の下草やひこばえのあいだにその滞留地を設営しようとしたのは、当時としてはまったく正しかった。だが、われわれはと言えば、われわれの心はわれわれをもっと奥深い根源へ導こうと高鳴っているのだ・・・・・・。この奇異なもの、それこそがやがては実在・・・・・・となるであろう・・・・・・。というのも、それは〈見えるもの〉をさまざまな密度で復原するに止まるものではなく、〈見えるもの〉にも、秘かに感知される〈見えないもの〉の性格を分有させることによって、秘かに隠れたおのを見えるようにするからである」。(・・・・・・)画家は、視覚によって二つの極限に触れることになる。一方、見えるものの太古の基底では、画家の身体を侵すような何ものかがうごめき、点火されるのであり、そして他方、彼の描く一切はこの誘いへの応答であり、彼の手は「おのれから遙か遠く隔たった意志の道具以外の何ものでもないもの」となるのだ。〈見るということ〉は、まるで十字路のように、存在のすべての象面が出会うことなのである。「或る種の火が、生きようとして、目覚めてくる。道案内の手に導かれながら、この火はカンヴァスを襲い、カンヴァスを侵し、次に飛び散る火花となって。おのれが描いてきた円環を閉じる。つまり、眼とそれ以前のものへと還っていくのだ」。

 西欧文明は、古代ギリシャ以来人類史の中でも比類のない「表象的文明」を築いてきた。表象化されて言葉や記号や象徴として現実の表面に現象してくるものに、最大の重みをおいた文明である。したがってこの表象は「見るということ」と密接に結びつくことになる。そのため絵画は哲学と並んで、西欧的知性にとっての特権的な探求の領域となってきた。その探求は二十世紀の絵画の冒険において一つのピークに達するが、そこに出現してきたのが、クレーのいう「眼とそれ以前のもの」への帰還の運動である。これは「表象とそれ以前のもの」への帰還の運動とも理解することができる。

 ゾクチェンのような思想は、表象を堅固な基礎に据えない、東洋の「非表象的文明」の中に発達してきた。その世界では、絵画が西欧世界におけるような真理探究のための特権的領域となることはなかったが、そのかわりに表象を基礎に据えない仏教と、それに触発されて身体を実存的探求の場とするゾクチェンのような非表象的な思想が発達することになった。そこでは「眼とそれ以前のもの」は、絵画の問題としてではなく、身体の中の神経組織に見出される「ランプ=眼」の問題として実践的かつ具体的に調べられてきた。

 したがって、西欧絵画史の冒険の中で無稀多諸思想と、ゾクチェンのような実存思想との間には、あきらかな並行関係があると考えることができる。二つは時代も場所もおたがいが背景とする文明も、遠く離れたところで展開されたものでありながら、「眼とそれ以前のもの」に向かう探求の運動として、共通の情熱に突き動かされている。」

*(アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』〜「1 絡み合う二つの光————自然の光と精神の光」より)

「ある文化の特質は、それが作り出した光のイメージに反映されるように思えてきた。覚文化は、そてぞれのやり方で光の本質と意味を明らかにしようと試み、光の物語を産みだしてきた。しかしその物語を語る中で、自然の光についてだけでなく、その文化自体について、そこに生きる人々の心の光について、同じくらい多くのことを明らかにするのである。対をなすこの二つのテーマの糸は、コミュニケーションの神ヘルメスが持つ賤しの杖に絡みついている蛇どものように、この本の中心軸をめぐって絡み合っている。外なる自然の光と内なる心の光という二つの光の変わりゆく生死湯。私は、両者は不可分だと確信するようになった。」

*(アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』〜「8 光を見る————科学に魂を吹き込む ゲーテとシュタイナー」より)

*「ゲーテは人間を絶えず自己変革の過程に受持しているものを見なしていた。(・・・)眼といった自然の器官でさえ、ものを見るには想像力を必要とする。眼の見えない人が物理的手段のみでは見えるようにならないとすれば、私たちが自然法則を「見る」ことができるようにしてくれる認知器官には、この教訓がどれだけいっそうよく当てはまることだろう。現象の複雑さの中に法則的パターンを見てとるには、それに適した内的器官が必要である。それは生まれながらに与えられているわけではなく、生活の中で発達していくのである。また、こうした能力を分析能力ないし論理と混同すべきでもない。(・・・)科学者はすべて(私たちも)、分析的推論に加えて、物事を見抜くある種の力、洞察の能力に頼っている。それは、深くものを考える体験を通して鍛えられたものである。これによって、同じ現象を見つめいても、他人が決して見ないかもしれないものを見る。まさにこうして、科学者は観察と発見を行う。」

「ゲーテのお伽噺『ユリと緑色のヘビ』に出てくる渡し守のランプの光は、触れるものをすべて金に変えてしまう。同様に、色は、光の後にしたがってきらめく貴重なさざ波である。ゲーテは何十年も色を研究して、人生の終わりにこう言った。「私は純粋で真実の光を経験してきた。そして、光を求めて努力することが自分の義務だと考えている。」」

*「天使たちがかつて精神的実在として自らの内にもっていたものが「世界思想」になり、これを私たちがこの世の光として経験するのだyとシュタイナーは唱える。私たちを取り巻く実際の物理的光は、天使が生きた古代の精神世界が残した化石のようなものである。内なるものが外なるものになったのである。

 さらにシュタイナーは人を安心させるような論理を使い、私たちが今、魂の中で養っている精神世界も、同じようにいつの日かコスモスの未来の進化のある局面の光、あるいは闇になると言う。「私たちは今日まわりに光の世界を斬る。何百ねか前、それは精神世界だった。私たちは自らの内に精神世界を抱えており、これが何百万年か後に光の世界になるだろう。・・・・・・そして、世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的な衝動が後にさまざまな輝く世界になるからである。

 このような見方をすると、精神的なものと物理的なものを分離するということにはどうしてもなりようがない。」

*「ゲーテとシュタイナーによって、大きな概念上のテーマが光の伝記に導入された。
(・・・)
 ゲーテとシュタイナーという二人の人物に、私は新たな神話と思いやりの科学の萌芽を感じる。

 炎の中には自然の力がすべて働いているとノヴァーリスが書いたのは、鋭かった。ノヴァーリスの言葉の正しさは、炎とそれが投げかける光は自然の力に劣らず大きな精神的、霊的な力だという事実に基づいている。光は二つのものではなく、一つである。その効力は統一性にある。光を科学的に研究するのに光の偉大さを損なわなくてはならないわけではけっしてない。私たちはナヴァホの神々のように、峡谷に裂かれた土地を歩いている。あの神々と違って、私たちは臆病で、足元の慣れ親しんだ土地にしがみついて、世界の暗い裂け目に虹の橋を架けようとしない。世界の完全な姿を見るには、そして、合いが洞察と中心を同じくするようにならなければならないことを知るには、狂気ではなく勇気が必要なのである。」

*(アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』〜「12 光を見る」より)

「何千年にもわたって、さまざまな文化が無数の光のイメージを受け入れては捨ててきた。同じように私たちは一生の間に、次々と現れる光の理解を受け入れては捨ててきた。研究、芸術実践、静かな瞑想を通して、つかみにくい光の本質は私たちの心の眼の中で絶えず自らを創り直し、どの世代にも新たなエピファニーを提示する。千個の眼で見れば、光はついには私たちは作った安息所で私たちとともに休息するだろう。

 光を見るというのは、見えないものを見えるものの中に見るということのメタファー、私たちの惑星とあらゆる存在を一つにまとめあげている脆い衣を看破するということのメタファーである。ひとたび私たちが光を見ることを学べば、他のことはずべて自ずとついてくるにちがいない。」

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