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松浦寿輝「遊歩遊心 連載第57回「夏目漱石→鳥山明」(『文學界』)/大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎『日本語と日本人の心』/ロバート・キャンベル『井上陽水英訳詞集』

☆mediopos3464  2024.5.12

松浦寿輝が鳥山明の逝去にあたり
『文學界』で連載されている「遊歩遊心」で
その画期的偉業『ドラゴンボール』こそが
夏目漱石以来の
「西欧の衝撃という外傷体験をいかに克服するか」
という「神経症シンドローム」を払拭してくれたと
少しばかり過剰かもしれない?思いを語っている

「漱石の問題系」はいまだ多かれ少なかれ
尾を引きずらざるをえない現状だろうが
現実問題としてさまざまな瀬戸際にある日本は
そろそろそうした「問題系」から解放されて
しかるべきなのではないかというのが正直なところだ

おそらく今日本人にとって必要なことのひとつは
日本語の特殊性と翻訳不可能性をふまえたうえで

河合隼雄が谷川俊太郎と大江健三郎と行った
シンポジウム等がまとめられた『日本語と日本人の心』の
「あとがき」で示唆されているように

「日本人として日本語で書く、というよりは
「自分」から出発するとそのことは避けられる。
そしてそれは翻訳可能であり、
他の文化のなかでも通用するものになる。」
という視点ではないかと思われる

「普遍性」に委ねることで
固有の伝統文化を失わないですむように
あくまでも「個」から出発して普遍にいたろうとする
そんな営為が必要だといえるのだろう

そしてその「個」はあくまでも
西洋的な意味での孤立的な自我ではなく
身体性をもふくめた自己としての「個」である

『日本語と日本人の心』のなかで
河合隼雄は谷川俊太郎の「みみをすます」という詩にふれ
それを英語に訳すことは難しく
「耳をそばだてて聞く」のではないと言っているが

谷川俊太郎も平仮名で書かれた詩を
翻訳することは不可能なのだが
それでも「翻訳は意味がないということには全然ならなくて、
やはり翻訳可能なところまでは翻訳しなければいけないし、
またそれはできる」
そして「通じさせるためのもっと基本的な部分での
共通の学び合いは絶対に必要だ」と語っている

また最近では西欧でも
「近代人は身体の声を聞くのを忘れすぎている、
だからもっと身体の声を聞こう」ということが
論じられるようになってきているが
「みみをすます」ときにも
身体性を避けてとおることはできない

そんな日本語の詩の翻訳について考えているとき
ロバート・キャンベルによる
『井上陽水英訳詞集』を思いだした
(mediopos-1779(2019.9.29)でもとりあげている)

訳詞にあたってロバート・キャンベルは
日本語→英語という翻訳以前に
作詞者井上陽水の「個」的な意図をふまえて
詞を「普遍」へとつなごうとしているようにみえる

そのなかからここでは
「傘がない」と「最期のニュース」を

「傘がない」を英語に訳すとき
ロバート・キャンベルは
はじめ「I've Got No Umbrella」と訳したものの
陽水から「それは違う」と言われたという

「傘は象徴なのです。
『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです。
傘は平和や優しさだったりする。
だからタイトルはNo Umbrellaでお願いします」と

この楽曲は半世紀以上前のものだが
平和や優しさという「傘」の失われた現代
現代人類には果たして『傘』があるだろうか・・・

「最後のニュース」については
その最後のフレーズ
「今 あなたにGood-Night
 ただ あなたにGood-Bye」の訳にあたり

はじめ「ただ あなたにGood-Bye」を
「Just for you,goodbye.」と訳していたが
陽水から「「ただあなたに」はちょっと違うかもね。」といわれ
「Simply,for you,goodbye.」と書き換える

「今日のニュースにもいろいろなことがあり、
この歌の中に歌われている環境問題や暴力、戦争など
いろいろなことがあるけれど、
「あなたにグッドナイト ただ あなたにグッドバイ」

あなたに贈るためのグッドバイではなく、
今日という日が終わる、また明日が来る。
このときにグッドバイと言いたいだけ。」と

毎日届けられ
あるいは隠されている
いろいろなニュースがあるけれど
一日の終わりには「ただ グッドバイ」・・・

ちなみに「最後のニュース」の
おしまいのほうで
「世界中の国の人と愛と金が
 入り乱れていつか混ざりあえるの」
という詞があるが

まさに混乱の現在
「傘がない」現在
それらすべてが「いつか混ざりあえる」
そんな時は訪れるのだろうか・・・

そんなことを思いながら
一日の終わりには
やはり「ただ グッドバイ」

■松浦寿輝「遊歩遊心 連載第57回「夏目漱石→鳥山明」
 (『文學界』2024年6月号)
■大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎『日本語と日本人の心』
 (岩波現代文庫 2002/3)
■ロバート・キャンベル『井上陽水英訳詞集』(講談社 2019.5)

**(松浦寿輝「遊歩遊心 連載第57回「夏目漱石→鳥山明」より)

*「一九八〇年代後半、調布の大学に勤めていた頃、出勤の憂さを多少なりと紛らそうと、『週刊少年ジャンプ』の最新号を京王線新宿駅のホームのキオスクで買うのを毎週楽しみにしていたものだ。」

「鳥山明の早すぎる過去の報を聞き、改めて甦ってくる一情景がある。たしか九〇年代中頃のこと、車の通らないパリの裏道を散歩していたら、幅広の通学鞄を背にしょった小学生低学年とおぼしい女の子が前から来た、歩きながら胸元に開いた本に首を突っ込み、一心不乱に胸元に開いた本に首を突っ込み、一心不乱に没頭している。何を読んでいるのかとすれ違いざまにちらりと見たら、それは『ドラゴンボール』の仏訳だった。

 そのときわたしの受けた衝撃は、ああ、「漱石の問題系」はもう完全に過去のものとなってのだという感慨に要約される。「漱石の問題系」、それは近代日本の宿痾とも言うべき「脱亜入欧」の苦悩の謂いである。近代化途上の「後進国」知識人が欧米「先進国」へ行き、馬鹿にされたり、馬鹿にされたわけでもないのに勝手に劣等感にうちのめされたり、挙げ句に「そう西洋人振らないでも良い」のだ、「自己本位」の四字で行けばいいのだ(「私の個人主義」)と無理やり自分を得心させてみたり、とにかく明治以降のわが国の知識人が大なり小なり苦しんできた、コンプレックスとプライドの相克から来るアイデンティティ・クライシスのことである。

 それは様々な変異態をとる。帰国後、日本的近代の底の浅さへの絶望のあまり江戸文化の爛熟の世界へ逃避するとか、その「日本回帰」の果てに御稜威を宣揚する過激なナショナリズムになるとか。かと思うと「宗主国」に忠義を尽くす「二流西洋人」の筆頭番頭として「植民地」日本で威を張ろうとするとか、「和」も「洋」も越えた「普遍」命題を追求し文学の形式化なり世界史の構造なりを模索するとか。だがそんなすべてをひっくるめ、この神経症シンドロームを端的に「漱石の問題系」と呼んでみたい。そのもっとも典型的な、また祖型的なモデルを一身に具現した知識人こそが漱石だからである。

 西欧の衝撃という外傷体験をいかに克服するか。この問いは、平川祐弘『和魂洋才の系譜』が出た一九七〇年代初頭あたりまではまだしも多少はアクチュアルたりえた問題界である。七〇年代末にデビューした村上春樹の初期作品なども、見かけに反して実はこの問題系の内部で動いている文学だったのではないかというのがわたしの観測だ。この問題系のアクチュアリティが崩壊し、決定的に無意味化してしまうという歴史的転換劇の最大の立役者は、やはり鳥山明だったと思う。

 『西遊記』と『南総里見八犬伝』と『燃えよドラゴン』のリミックスという発想を。小さなコマのなかに白黒の線描でたくわんとかまぼこを描き分けられると言われた鳥山の天才的な画力で漫画化した、画期的偉業が『ドラゴンボール』である。『マトリックス』のネオとエージェント・スミスの対決シーンなど、それが世界に波及させて景物的影響力のほんの一例にすぎない。鳥山の訃報を聞くなり両の掌を体の前に構えて「か〜め〜は〜め〜波!」と叫ぶブラジル人やドイツ人や中国人の姿がテレビ画面に映し出されるのを見ながら、もう「和魂」も「洋才」もへったくれもない時代に生きているのだと改めて確認し、哀悼の念を押しのけてむしろ清々しい解放感が込み上げてくるのをわたしは感じた。」

**(『日本語と日本人の心』
    〜河合隼雄「第一部 講演 日本語と日本人の心」より)

*「   みみをすます
   
   みみをすます
   きのうの
   あまだれに
   みみをすます

   みみをすます
   いつから
   つづいてきたともしれぬ
   ひとびとの
   あしおとに
   みみをすます」

*「谷川さんにお訊きしたら、英語に訳す方が、この「みみをすます」を訳すのにだいぶお困りになったようです。みなさんのなかで英語のできる方は、これを英語にするときにどうするかと思われたら、それはわかると思います。直訳はできないですね。たとえば、「耳をそばだてて聞く」という言い方があります。それに似たような英語はあると思いますが、「耳をそばだてて聞く」のではないのですね。耳をすますのだから。

 これはほんとうに私が心掛けていることで、われわれカウンセラーが心しなければならないことです。このなかにありました。それはどういうことかというと、

  (ひとつのおとに
  ひとつのこえに
  みみをすますことが
  もうひとつのおとに
  もうひとつのこえに
  みみをふさぐことに
  ならないように)

 ということ、これはほんとうに大事なことなのです。」

*「『身体の声を聞く』という本があります。これは“Listening to our bodies”という原題で、横山貞子さんが訳されて、思想の科学者から出ています。ステファニー・デメトラコポウロスという女性の著書です。この本の日本訳の題は『からだの声に耳をすますと』で、ここに「耳をすます」がでてくるのは興味深いです。

 この原書は一九八三年の出版ですが、アメリカの人たちに、自分たちの近代的な生き方ということにだんだん反省がでてきまして、どうも近代主義ではだめだ、それを乗り越えるためにどうしようということのなかから出てきたものと言えます。つまり近代人は身体の声を聞くのを忘れすぎている、だからもっと身体の声を聞こうという意味で出てきた本です。これはなかなかおもしろい本です。

 しかし、考えてみると、日本人はむしろ身体の声を聞くことを、いままでずいぶんやってきたのではないかと思います。だから、言葉と「身体性」のかかわりが非常に深いものがあります。「身体」といわずに、わざわざ「身体性」といって「性」をつけているのは〝わたしが生きている身体〟、そういう意味です。みなさんはご存じのように近代医学は身体を心から切り離してしまいますね。だから、近代医学では心を抜きにしてからだを厳密に調べて、そしてどこが悪いか、どこがいいかというふうに調べるのですが、そういう近代的な心とからだを分けて考える身体というのではなくて、わたしが生きている身体、わたしの心と不可分に密着している身体という意味で「身体性」と私は言いたいと思うのです。

 そういいふうにいうと、日本語は「身体性」とかかわる言葉を非常にたくさんもっていると思います。先ほどの「耳をすます」ではありませんが、そうしたおもしろい表現がある。」

*「日本人で「あの人はよくしゃべる」というと、なんか軽く見られます。私などはよくしゃべるほうですからずいぶん軽く見られているのですが、私はどうも西洋のほうが好きだったから、どうしても言語に頼るところがあるのだと思います。真に大切なことは言語で表現できない、とは言っても、人間が言語によらずに多くのことを表現することは不可能である。この矛盾を大事に生きるのは仏教だといいうふうに井筒先生は書いておられるのです。そこが私の井筒先生の非常に好きなところなのです。

 ふつう下手をすると、仏教のほうはあちらに行ってしまって、あるいは日本的といわれている人たちがあちらに行ってしまって、何も言わないか、あまりにも不可解なことを言う。依言と離言の矛盾を抱きかかえたままでなかなか発言しようとしないところがあるのではないでしょうか。」

*「われわれはなんの気なしに、ヨーロッパのものとかアメリカのものを輸入していても、知らない間に、どこかで日本化しているのです。これはなぜかというと、やはりどこかでわれわれはずっとひっついているひとつなんだ、ということを前提の上にした言葉をぼくらは話しているのです。なんか分けるのを嫌っている。

 ところが、みなさんご存じのように、自然科学とかテクノロジーははっきりと分けることの方を前提になりたっています。0と1を分けること。この0と1に分けることの組みあわせを基としてコンピュータはでき上がっています。こういう世界に生きているなかで、どういう言葉で話をするのかということになってきます。」

**(『日本語と日本人の心』
    〜谷川俊太郎「第三部 語り 日本語を生きること」より)

*「たとえばぼくなんかが『みみをすます』のように平仮名で詩を書くと、やはり平仮名、漢字混じりで書くときとは違うある質感がでてくるし、それから平仮名だけで書こうとするとふだん何気なくわかったつもりで使っている観念、たとえば、どんな言葉でもいいんだけど、「哲学」にしろ、「社会」にしろ、「人権」にしろ、そういう言葉を平仮名で言い換えるということが非常に難しいんです。たとえば「てつがく」とか「じんけん」とかルビを振ったってどうにもならない、それをわれわれのからだと暮らしに根づいた言葉にどうできるか、そこに、日本の近現代のすごく大きな問題が出てくるという気がします。」

*「コンピューター言語的なものだけでは日本語のもつ詩的な特質をおきかえていくことは不可能だと思います。それはコンピューター言語を持ち出さなくても、とくに詩の場合は翻訳は最初から不可能だということを前提にしないとできないと思います。

 たとえば平仮名・漢字混じりの文章はやはり見かけからして全然違うわけだし。平仮名を一種のアルファベットとして読んでいって、そこに突然、表意文字としての漢字が出てくるときの質感の差なんていうものは、アルファベットだけで表記された言語には絶対移らないでしょう。そんな表面的なことひとつとっても、翻訳というのは本当の意味では不可能だと思うんです。

 ただ、だから翻訳は意味がないということには全然ならなくて、やはり翻訳可能なところまでは翻訳しなければいけないし、またそれはできる。

 日本特殊論をとなえる人もいますがぼくはそうは思いません。ぼくは河合さんと同じ意見で、文学作品の一行二行をそのまま翻訳してもそれは通じない、という大江さんの意見は正しいけれども、通じさせるためのもっと基本的な部分での共通の学び合いは絶対に必要だし、事実、世界はそういうふうに動いていると思うんです。」

**(『日本語と日本人の心』
    〜河合隼雄「あとがき」より)

*「日本語と普遍性についての討議も重要である。「自分に日本人としての祈りということがあるとすれば、それを日本語で書く。それが外国語で訳される。そしてその国の文学としても通用してゆく、そのような言葉を書きたい」と大江さんは言う。普遍性ということに最初からとらわれすぎていると、おそらくそれは蒸留水のようになってしまうのではなかろう。日本人として日本語で書く、というよりは「自分」から出発するとそのことは避けられる。そしてそれは翻訳可能であり、他の文化のなかでも通用するものになる。

 しかし、ここで余程注意しないと、谷川さんの言うように「固有の伝統文化が、世界的な普遍化によってどんどん失われ」ることになりかねない。おそらく、これは発想の出発点を抽象的な普遍にゆだねてしまうとそうなるのであって、大江さんの云う様に、「個」から出発して普遍にいたろうとすることによって、それは避けられるのではなかろうか。そういう点で、心理療法家というのは、作家や詩人と共通していると私は考えている。創造的な「作品」を残すことはないが。」

**(ロバート・キャンベル『井上陽水英訳詞集』より)

・傘がない

*「筑紫哲也さんがキャスターの番組テーマ曲として「最後のニュース」が作られたのは1989年でした。それより11年前の78年、夕方ニュースワイド『日曜夕刊! こちらデスク』を担当していた筑紫さんは、最終回で陽水さんの「傘がない」を流したのです。

  テレビでは我が国の将来の問題を
  誰かが深刻な顔をして しゃべってる

 それを見た陽水さんは、「ちょっと生意気な言い方になりますが、ああ、この人は相当、わかっているなと思いました。ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ、と」そう話しています(週刊朝日MOOK『筑紫哲也』2009年10月27日)。

 私は、この「傘がない」について陽水さんとこんなやりとりをしました。

RC/井上さんの一人称というか「俺」というのは、二人称で「君」に向けて詠っている歌の中や相手に語りかける歌の中に、自分というか、「俺はこうだ」というのがいちばん強く出る気がするんです。「傘がない」もそうですよね。「俺」とか「俺」とか一人称は全然登場しませんが、「君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ」というのがある。

井上/自分で歌っていていちばん感情移入しやすい感じっていうのは、「傘がない」で言えば、「君に逢いたいなんだ」と。切ない感じで歌う歌になってしまうんですけれどね。ただ、「君に逢いたいんだ。逢いたいんだ」という切なさよりも、そういう具体的な恋い焦がれてということではなくて、もうちょっと「いや、人間として生まれるとこうなの?」という、そういう大きな感じのほうが感情移入しやすいですよね。

 私はこの「傘がない」のタイトルを、I've Got No Umbrellaと訳したのですが、これも陽水さんに「それは違う」と言われました。

「いいですか、傘は象徴なのです。『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです。傘は平和や優しさだったりする。だからタイトルはNo Umbrellaでお願いします」

 Iだらけになった私の英訳には、余白がありません。Iを抜くことで、「傘」は平和になり優しさにもなれる。とすると、つめたい今日の雨とは、何なんだろう。期限は書かれていないけれど、「この雨が降っている最中」、つまり止む前に行かなくちゃ、とあるがなぜそうなるのか。

 形がない、けれど途轍もなく大切な何かが一曲に織り込まれていたことがわかりました。」

・最後のニュース

*「  闇に沈む月の裏の顔をあばき
    青い砂や石をどこへ運び去ったの
    忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ
    みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

    飛行船が赤く空に燃え上がって
    のどかだった空はあれが最後だったの
    地球上に人があふれだして
    海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

    今 あなたにGood-Night
    ただ あなたにGood-Bye

 これは「最後のニュース」です。ニュース番組のエンディングに成られていて、私はこれを聴いたら寝る時間でした。

 ある日本映画でエンドロールに流される曲に採用されました。海外の映画祭に出品する際、英語の歌詞を字幕につける必要があり陽水さんから依頼され、私の訳を使っていただくことになりました。ラジオ番組でその訳についての印象的なやりとりがあったのです。

RC それで僕はもう一回、少し訳に手を入れて井上さんに送りました。これでいいかなというところと、僕も大丈夫かなと思うところと、実は井上さんからも「これはちょっと違うんじゃないか」というところがあったんです。

陽水 ありましたね。どこでしたっけ。

RC 最後の「今 あなたにGod-Night ただ あなたにGood-Bye」の部分です。僕は無意識に、「あなたに向けてグッドバイ」と思って、Just for you,goodbye.と。この「ただ あなたに」を「Just for you」に翻訳したんです。

陽水 「あなただけにね」

RC 「あなたに向けて」だと。

陽水 「そうではないんじゃない?」ということを言ったのかな。

RC はっとしました。全然そのことに気がつかなかったんです。

陽水 「ただあなたに」はちょっと違うかもね。

RC どんなふうに。

陽水 「ただあなたに」ではなくて、かける言葉はいろいろあるかもしれないけれど、「グッドバイ。ただこの言葉ぐらいかな」みたいなニュアンスですかね。

RC そうか、そうか。それはぼくにとって青天の霹靂でした。Just for you,goodbye.ではないのか、と。それで、Simply,for you,goodbye.と書き換えました。たぶんそれがそのまま映画のエンドロールの字幕に乗ったと思います。「シンプリー」ですね。いろいろな人はいる中でひとりじゃなくて、いろいろなことがここで本当は言えるし、言わないといけないかもしれないんだけれど。でも、「今 そっとグッドバイ」という。そっちだなという。

陽水 いろいろ言葉もあるけれど。

RC 今日のニュースにもいろいろなことがあり、この歌の中に歌われている環境問題や暴力、戦争などいろいろなことがあるけれど、「あなたにグッドナイト ただ あなたにグッドバイ」という。

 あなたに贈るためのグッドバイではなく、今日という日が終わる、また明日が来る。このときにグッドバイと言いたいだけ。」

*井上陽水〈傘がない〉

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

“In the cities, youth suicides on the rise.”
It's written so in a corner of the morning paper.
But hey, the probleis, you know, today's rain --- there's no umbrella.

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ

I've gotta go, gotta get out, out to see you
over to your side of town drenched in the rain.

つめたい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?

Cold rain seeps into my heart today
I can't think of anything but you --
isn't that how it should be?

テレビでは我が国の将来の問題を
誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
だけども問題は今日の雨 傘がない

On the telly“problems facing our nation's future”--
somebody's gabbing with a long face.
But hey, the problems, you know, today's rain --- there's no umbrella.

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の家に行かなくちゃ 雨にぬれ

I've gotta go, gotta get out, out to see you
over to your side of town drenched in the rain.

つめたい雨が僕の目の中に降る
君の事以外は何も見えなくなる
それはい い事だろ?

Cold rain is falling in my eyes.
I can't think of anything but you --
isn't that how it should be?

*井上陽水〈最後のニュース〉

闇に沈む月の裏の顔をあばき
青い砂や石をどこへ運び去ったの
忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ
みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

飛行船が赤く空に燃え上がって
のどかだった空はあれが最後だったの
地球上に人があふれだして
海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye

Now to you,goodnight.
Simply, for you, goodbye.

暑い国の象や広い海の鯨
滅びゆくかどうか誰が調べるの
原子力と水と石油達の為に
私達は何をしてあげられるの

薬漬けにされて治るあてをなくし
痩せた体合わせどんな恋をしているの
地球上のサンソ、チッソ、フロンガスは
森の花の園にどんな風を送ってるの

今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye

Now to you,goodnight.
Simply, for you, goodbye.

機関銃の弾を体中に巻いて
ケモノ達の中で誰に手紙を書いてるの
眠りかけた男達の夢の外で
目覚めかけた女達は何を夢見るの

親の愛を知らぬ子供達の歌を
声のしない歌を誰が聞いてくれるの
世界中の国の人と愛と金が
入り乱れていつか混ざりあえるの

今 あなたにGood-Night
ただ あなたにGood-Bye

Now to you,goodnight.
Simply, for you, goodbye.

◎井上陽水「傘がない」

◎井上陽水「最後のニュース」 


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