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白石凌海『維摩経の世界』

☆mediopos-2261  2021.1.24

宗教関係には疎かったので
仏教の経をじぶんで読んだのは『般若心経』と
そしてなによりもこの『維摩経』だった

(あらためて思い起こせば
小さな頃から葬式で
幾度も耳にして馴染みがあったのは
蓮如の「白骨の章」だったが)

そのふたつの経典のおかげで
その後ずいぶん仏典や
仏教関係の著作などを読むようになったが
いまでもいちばん好きな経典といえば『維摩経』である

読んだといっても漢訳された鳩摩羅什訳を
さらに日本語にうつしたもので
サンスクリット語の原典があるのだろうと
勝手に信じていたのだけれど
その原典が発見されたのは二〇〇一年のことだと知った
そしてそれにもとづいたサンスクリット版訳が
読めるようになったことはとてもうれしい

とはいえ漢訳と原典の違いについて
詳しく理解できているはずもないのだけれど
そのきっかけであらためてほとんど二〇年ぶりに
『維摩経』を読み直すことにするきっかけになった

なぜ『維摩経』なのか
といえば
なによりも在家の維摩が
出家僧たちをやりこめるところが小気味いい

出家僧はいわば仏教のプロであり
在家の維摩はアマチュアだともいえる
プロが必ずしもアマチュアに勝っているとはかぎらないが
プロがプロであるという以上は
それなりの見識が必要なのはいうまでもない
にもかかわらず維摩の場合はプロを凌いでいる

かつて『維摩経』を読みながら考えたのは
この地上に生まれてきたにもかかわらず
修行だけのための閉じた場所で生きるのは
はたして本来の生き方であるだろうかという疑問だった

生きるということにおいてプロもアマもない
しかも生きる以上はむしろ在家とされるほうが
生きることについて真摯であり得るのではないか
世に在って日々を生きることは
決して避けてはならないのではないか

その問いはいまもかわらずにある
人間が人間であるということは
この生という日常をこそ生きるということであり
その上で非日常を含む探求があるということなのではないか
その意味ですべての人間は精神において自由であり得る

さて大乗仏典である『維摩経』は
阿含経典のような意味での仏典ではない
時代が下ったあと
仏教的テーマが展開されたいわば演劇の脚本である
作者がみずからの時代に合ったかたちで
仏教的叡智をそこに展開させたのだといえる

面白いことに学問の世界では多くの場合
時代の新しいほうがより正しいとされるのに対し
宗教の世界ではそのほとんどが
時代の古いほうが本来の叡智を表現しているとされる

仏教が面白いのは
宗教的な過去向きなところがある反面
後代になって大乗仏教の経典がでてきたように
時代に即応した動きがでてきたりするところだ
とはいえ現代の仏教は俗化しているにもかかわらず
その多くがきわめて閉じた過去向きの世界になっていて
時代への適応力に乏しくなっているように見える

その意味で鈴木大拙や
仏教ではないが井筒俊彦などの営為は
過去の叡智あらたな探求の双方を
あらたな時代に向けて相乗させようとする
画期的な試みでもあったのではないだろうか

仏教にかぎらず
新たな時代の『維摩経』が求められる所以である

■白石凌海『維摩経の世界/大乗なる仏教の根源へ』
 (講談社選書メチエ 2019.11)
■植木雅俊[訳・解説]『サンスクリット版全訳・現代語訳 維摩経』
 (角川ソフィア文庫 令和元年7月)

(白石凌海『維摩経の世界』より)

「「維摩経の原典写本、チベットで発見」
 二〇〇一年十二月十四日、NHKが流したニュース速報である。主旨は、「聖徳太子が紹介した部経の経典として知られている『維摩経』の、サンスクリット語で書かれた原典の写本がチベットで残されていたことがわかった」というものだった。」
「言うまでもなく、多くの漢訳経典はその原語である古代インド語、おもにサンスクリット語からの翻訳である。そしてわが国にもたらされた仏教はこれまで、おおかた漢訳経典に基づいて受容されてきた。」
「これまでに翻訳された『維摩経』のうち、現存する三種の漢訳の一つは鳩摩羅什(三四四〜四一三年)による。」

「『維摩経』は劇仕立て、あるいはもともと演劇のための脚本であるかもしれない。」
「近代の文献学によれば、『維摩経』は一〜二世紀頃に創作された文学作品である。それをなぜ「仏説」すなわち「経典」と言うのか。」
「原典が発見され、そこに「経典」と記されていないことから、いわゆる「如是我聞」に始まるが、「作者」は経典としていなかった、と言えよう。そこで「作者」としたのは、「是の如く我れ聞けり」とする「(その)我れ」が書き記した「作品」にほかならないからである。」
「近代の仏教学研究は、「『阿含経典』こそが、今日この国における仏教の〝新しい道〟であり、仏陀直説の〝正しい道〟であると考えられる」(増谷文雄『近代仏教への道』)と断言する。(・・・)このような見方からすれば『維摩経』は非仏説、仏教ではない。」
「維摩なる人物は、『維摩経』の作者が想像して創り上げた人格である。(・・・)架空の産物だから無意味と言っているのではなく、そうであってもわれわれにとって意義深いものがある。それこそ禅巧方便により化作され、化現した人である。」

(植木雅俊[訳・解説]『サンスクリット版全訳・現代語訳 維摩経』より)

「『維摩経』は、『般若経』に続き、『法華経』よりやや先行して著された代表的な初期大乗仏典の一つである。『維摩経』は『般若経』と同様、「空」の思想を説くものだが、『般若経』に呪術的なことが多く説かれているのに対して、『維摩経』には呪術性は全くない。「空」なるがゆえに、現実生活において人々のために積極的に行動する菩薩の在り方が強調されているという点が際立っている。
 在家主義、男女平等といった思想が、極めて戯曲的な手法で展開されていて、その小気味よい痛快なドラマ的展開は中国の文人たちに愛好され、敦煌や雲崗の石窟の壁画のテーマとしても取り上げられた。わが国においても五三八年に仏教が伝来すると、聖徳太子は、『維摩経義疏』と題する注釈書を著した。」

「『維摩経』は大乗仏教の標榜する菩薩の行動を「空」ということから位置づけるものであり、現実の生活にいかに反映するかということが多岐にわたって論じられている。『維摩経』が当時の時代状況に訴えかけたものは、極めて現実的であり、重要な問題提起であった。この『維摩経』に関連して、中村元博士も次のような問題を提起されていた。(・・・)

  現在の日本仏教の危機は、まじめに考え、まともに解決すべき問題を回避して、ごまかしているということである。(中村元著『大乗仏教の思想』)

  大乗仏教が興起する以前の仏教においては、一般に、出家修行僧の生活のほうがすぐれたものであり。現実社会における世俗的生活のほうが劣ったものであると考えられていた。しかし実際にそうなのであろうか?〔中略〕世俗的生活における仏教の真実義の究明ということは、今後仏教が生きたものとして活動するか、あるいは仏教が死滅してしまうかの岐れ道に相当する。この時期に当たって、特に在家仏教の主張を明示する『維摩経』(ならびにその他の経典)の精神を解明することは、まさに仏教の真理をわれわれのうちに生かすことにほかならない。(同)」

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