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『オカルトの美術/現代の神秘にまつわるヴィジュアル資料集』

☆mediopos-2386  2021.5.29

「オカルト」というのは
「隠された」という意味である

「魔術や神秘」に傾倒するひとは
その「オカルト」に深い意味を
見出そうとするかもしれないし
それが特別なかたちで表現されたものに
特別なしかたで視線を注ぐかもしれない

しかしたとえ「隠され」ているとしても
「隠され」ているからといって
それが「隠され」るに値するものかどうか
それはわからないし
ほんとうのところ
「隠され」たものそのものに意味があるのではなく
「隠され」ているということそのものにこそ
意味があるといえるのかもしれない

人間のイマジネーションはさまざまで
意識下に眠っているイマージュは
きっかけがあればすぐに噴出してきて
わたしたちを幻惑しさえする

そうしたイマージュのとらわれから
自由になるというのが
いわば魔界を避けようとする
禅の修行のひとつでもあるのだが
むしろ「オカルトの美術」が描かれるのは
イマージュそのもののなかから
なにがしかのものを読み取ろうとするためでもあるだろう
それはそれだ
曼荼羅などもおそらくはそこから
元型を見出しているのだから

若かった頃こうした画集を手にしたのであれば
神秘的な絵画の数々に魅入られもしたかもしれないし
たしかに今こうして目にしても魅力的な絵画もあるのだが
「隠され」ていることそのものが
じぶんの目が開かれていないがゆえのものだと知れば
わざわざ非日常的なまでの
オカルト的表現にとらわれることは少なくなる

むしろ日常ふつうに目にしているもの
見えないけれどもたしかにあるものそのものにこそ
かぎりない神秘を見出すことができるほうがいい
重要なのは観る力をもつということなのだから
観る力さえあえれば世界は多次元的な様相で現れてくる

目の前の花を
目の前の虫を
目の前の鳥を
そのかぎりない神秘を
わたしたちはどれほど見過ごしているだろう

ふつうに見えるものが
見えていない
ふつうに考えられるものが
考えられずにいる
その「見えていない」「考えられずにいる」
そのことそのものが「オカルト」が
「オカルト」と表されてしまう理由のひとつでもある

そのことをふまえながら
あらためてこうした「オカルトの美術」を観るとき
はじめて見えてくる様相もあるのではないか
たしかな真実が表現されたであろうイマージュもあるけれど
イマージュに翻弄されたであろうものもあるように

■S. エリザベス (井上舞 訳)
 『オカルトの美術/現代の神秘にまつわるヴィジュアル資料集』
 (青幻舎 2021.3)

「魔術や神秘を信じる心は、人類の歴史に脈々と流れている。その歴史のなかで密やかに息づくのが、神秘の技の実践者たちであり、未知なる世界を描き、時空を超越した不可思議な作品を創造する熟達の芸術家なのだ。芸術家や魔術師----ときに同じ役割を演じる----は、その創造の手法と作品によって、神秘の教えや哲学に光をあて、日常では目にすることのできない謎めいた世界をわたしたちに見せてくれる。
 魔術というものを、目に見えない力をこの世界にかたどり表すための技と考えるなら、芸術と魔術の間には。自然と現実世界とを----さらにはその先の世界を----つかさどる秘法を明らかにし、夢と欲望の内にあるおぼろげな世界を探りあてるための鍵があるはずだ。「最古の魔術は『芸術』と称されることも多い」とオカルティストで儀式的魔術師でもある作家アラン・ムーアは述べている。「魔術と同様、芸術はシンボルや言葉、イメージを操り、意識に変化をもたらす技法なのだ」
 そうであるならば、芸術の創作は、魔術的行為にほかならない。
 芸術家が作品を創造する過程にも、その作品を観察者として見つめることにも、変化という魔術が働いている。このふたつは表裏一体で、どちらもこの世界を理解したいという衝動から生じ、そうすることによって自分が慣れ親しむものや確かだと信じるものと、未知なる世界の面影との間に通じる何かを見出したいと願っているのだ。知識は力であると誰もが言うが、巧みな言い回しでありと同時に、普遍の理でもある。空虚なエーテルから情熱でもって芸術作品を生み出す過程や行為によって、そしてその作品の形、機能、ディテールを素直な心で観察し----さらには、その意味を解釈し、目の前の作品だけでなく、それを見つめる自分自身をも理解することによって、さまざまな気づきが得られるのである。芸術に心奪われ、美の技をひたすらに見つめ、その結果、自分というものを知る。それこそが、いうなれば優れた魔術の働きなのである。
 今さらいうまでもないことだが、大昔から「オカルト芸術」と聞くと、悪魔や悪霊の絵や、センセーショナルで邪悪なイメージを連想する向きが少なからずあった。現代ではその意識も変化しているかもしれないが、ひとつ指摘しておくと、「オカルト」とは単に「隠された」という意味で、「覆う、隠す、秘密にする」という意味のラテン語occullereからきている。オカルト芸術とは、本質的には、自分自身やこの世界にまつわる隠された知識を手に入れたいという心から生じるものなのだ。」

「魔術を信じ、ありふれた原理を超えるものを夢見ることは、人間が生きるうえで欠くことのできない側面である。未知の世界への踏み込み、理解しようとする行為を通じて、精神が追い求める隠れた知識を解き明かすのだ。(…)有史以前から受け継がれてきた、文化の違いを超えた芸術的着想や、世界共通のイメージやシンボルは、啓示を得たいという願いを物語っている。答えを追い求める人間の本質は、混乱や変動のなかで顕著になる。歴史を振り返ると、不安と混乱が生じるたびに、人々は精神主義へと傾き、自己を高める手段として神秘学を学んできた。魔術(あるいは芸術)を実践するとき、わたしたちは立ち返って本当の自分を見つめ、力を取り戻し、秩序や権力の支配から逃れ、変革の種を蒔こうとしているのだ。
 本書は、こうした神秘的、芸術的探求を時系列に解き明かそうというものでも、芸術家や流派に関する歴史的研究を総括的に考察するものでもない。オカルト芸術における重要なテーマを明らかにし、その流れに影響を与えた芸術家や、彼らを導いた芸術家たちを紹介することが目的である。本書で取り上げる芸術は、さまざまな精神体系や神秘の伝統(神秘楽、錬金術、カバラ、フリーメイソン、神智学、心霊術など)から啓発されたものだが、その作品を鑑賞するにあたっては、そうした思想を取り入れる必要も、まして信奉する必要もない。しかしながら、さまざまな糸をひとつにより合わせ、隠された芸術の実践者のみならず、視覚芸術の熱心な愛好者にも、オカルトへと興味を掘り下げる素地を提供することも、あた、本書の目指すところである。
 各章(宇宙、神、実践者というテーマに沿って分類している)では、神秘の芸術を鮮やかに、そしてわかりやすく紹介するとともに、ビジュアル画でんも楽しめるよう、霊的信仰や魔術の技法、神話や幻想的な体験から触発され創造された作品を選りすぐり掲載している。本書で目にするイメージや情報が、有名無名の芸術家や作品を網羅し、飽くなきインスピレーションの源となって、読者の皆さんの好奇心をかき立て、感情を呼び起こし、自分なりの実践を始めるきっかけになることを願っている。真理を探究する拠り所とするのか、神秘の原理の一部とするのか、あるいは、芸術性を発揮する技法や手段とするのか、それは皆さん次第だ。
 レオノーラ・キャリントンの神話や錬金術、カバラに対するシュルレアリスト的解釈は、日々の習慣に新たな気づきを与えてくれるかもしれない。ヒルマ・アフ・クリントンやマッジ・ギルのオートマティック・ドローイングに芸術的精神を刺激されて、夢で見たものを絵に描いてみようという気になるかもしれない。あるいは、自分だけの魔法の空間を、ラファエル前派の象徴的で神秘的な絵画で飾ってみたくなるかもしれない。それとも、一見意味のなさそうな渦巻き模様にアートセラピーのような癒やしを感じ、ふと我に返って、その形になる意味を読み取り、額に入れて祭壇に飾ろうとするかもしれない。
 オカルト芸術の作品のなかに隠された要素や哲学を見出し、作り手と洞察や知識を共有するために、どんな形で芸術家や作品に触れようとしているにせよ、本書を神秘の宝庫に加える価値のある一冊として、現代の神秘主義の謎と不思議に満ちたイメージを集めた身近な資料として、手に取っていただければ幸いだ。皆さんが本書を通して出会う言葉やシンボル、絵画やイラストに何を感じ、どんな世界を発見するとしても、真理と変化、そして無限の可能性にあふれるカンヴァスを手に入れることを願っている。」

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