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ブレイディみかこ・鴻上尚史『何とかならない時代の幸福論』

☆mediopos-2292  2021.2.24

日本人は世間のなかでは優しいが
社会のなかでは冷酷になり得る

他者に対するとき
その人が世間に属するときは
相互扶助と信頼感のもとに接するけれど
その人が社会に属するときは
そうした関係性は成立し難くなるのだ

世間に生きるということは
集合魂的に生きるということであって
集合魂の外にでた社会のなかでは
その集合的な知恵は働かないということ
しかもその世間の知恵は
むしろじぶんたちをも蝕んでしまうことにもなる

現代の日本が
どんどん管理社会化しているのは
そういう「世間」が
強化されているということに他ならない

学校でもその「世間」を保つために
管理のための「校則」がつくられ
管理するためという以外の理由はそこにない

そしてその「規則」に基づいていきることで
「世間」のなかで安心安全に生きようとする
だから引用でもふれられているように
決められていると思いこんでいることが
許されなさそうな場面では
「そんなことしていいんですか?」
という問いしか生まれない

そこにあるのは
エンパシーという他者への想像力ではなく
シンパシーという感情的な同情や共鳴でしかない

「世間」のなかでは
かぎりなくシンパシーを持ちえても
「社会」という「他者」との共生の場では
エンパシーが必要不可欠になる

シンパシーという感情の力が不要なのではない
シンパシーが働く場が限定されているために
その外への想像力が欠けてしまうということだ
だからそれは容易に排他や無関心にもつながることになる

いまや公教育の場でも
想像力を養うための文学が排されがちで
論理や科学という信仰だけを成立させる言葉だけが
養成されようとしている
そこには科学という「世間」へのシンパシーだけが
求められるということでもある
そこには想像力の欠けた世界しか生まれることはない

■ブレイディみかこ・鴻上尚史
 『何とかならない時代の幸福論』
 (朝日新聞出版 2021.1)

「ブレイディ/2019年、日本に台風が来た時、どこかの避難所でホームレスが入るのを役所から断られましたよね。実はイギリスでもニュースになっていました。BBCが報じてたのかな、新聞にも載ってましたし。
 その時、息子が言ったんですよ。「日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか」って。息子によれば。そのホームレスを断った人は、自分のことを本当は考えていないんじゃないかと。もし自分がここで「ダメです。入れられません」と言ってしまった場合に、そのホームレスの方はそれからどうなるんだろうって考えたら嫌じゃないですか、すごい嵐の中でどんな目に遭うかわからない。もしかしたら命を落とすかもしれないと思ったら。
 そんな状況は、個人が背負っていくにはすごく重いじゃないですか。だから本当に自分のことを考えてるんだったら、いいですよって入れちゃったほうが楽じゃないかと。でもそこで入れられなかったのは、避難所に来てらっしゃる他の方ーーーー例えば町内会など地域の人々や、自分が所属している役所の部署の上司とかが、拒否したいだろうって思ったから。
「本当に個人として自分のことを考えたら、そこで誰かの生命に対して責任を負うなんてことはしないはずだ」って、ウチの息子は言うんですよ。だから、「周囲の人たちがきっと嫌だって言うに違いない」っていう考えは、あまりにも社会への信頼が足りない。確かに日本にはそういうところは、あるような気がしますね。
鴻上/僕がずっと言ってることですが、「世間」と「社会」で考えれば、そのホームレスを断った人は世間に生きている。自分と利害関係のある人達のことを世間と呼んで、自分と全く利害関係のない人達が社会になるんですけど、避難所に集まった人達は、区役所の人にとって世間で、ホームレスは社会、ということになるんです。結局、区の役所の人の場合は世間を選んで、社会は無視したんです。
 私達日本人が、駅でベビーカーを抱えてフーフー言いながら、階段を上がっている女性をたすけないのは、社会に生きている人達だから関係ないと考えるからです。知り合いだったら、すぐ飛んでいって助けるでしょう。それは相手が世間の人だからです。
 断った役所の人にとっては、ホームレスは完全に社会に属する人だから無視しても構わないという考えですよね。一方、避難所の人達は、世間に属する人達だから大切なんです。
 それはつまり、ブレイディさんの息子さんが言ったように、社会に対する信頼が低い・・・・・・というか、ほとんどないと言ってもいいかもしれない。日本の「旅の恥はかき捨て」っていう言葉は、旅に出るともう出会う人は、みんな社会だから何をしても別に構わないということですから。」

「鴻上/だから日本の場合は何が問題かというと、〝世間認定〟されている人達のなかでは相互扶助が行われ、信頼関係が生まれるんだけど、相手を〝社会認定〟した瞬間に、コミュニケーションどころか、何の関心もなくなってしまうところです。(・・・)
 だから世間認定さえされたら、こんなに住みやすい国はないと思います。
ブレイディ/そう、世間認定されたら、もう本当にイギリスでは考えられないような温かさがありますよね。
鴻上/はい。それは田舎に行った外国人がよく言うんです。要は、ずっとよそ者扱いされていたのに、何かのきっかけでコミュニティに入れてもらうと、もう全く扱われ方が違うってびっくりする。
ブレイディ/確かにそうかもしれないです。イギリス人でも、日本の田舎のコミュニティに受け入れてもらった経験のある人は。「もう日本は天国みたいな国だ」って言いますもんね。本当に信じられないくらいみんな優しいって言います。
鴻上/世間認定した相手には信頼して優しくなる分、相手を社会認定してしまうといきなり冷たくなる。」

「鴻上/僕は40年ぐらい前から演出家やっているから、つまり自分が若かった頃から40年間、だいたいハタチ前後の若者とずっと付き合ってきているわけですよ。この40年間で彼ら、彼女らの口癖で何が一番増えたかっていうと、「そんなことしていいんですか?という言葉。昔は、「嫌です」とか「どういう意味ですか」なんて言葉だったんだけど、今は「そんなことしていいんですか?」に替わった。(・・・)
 「許されたこと」しかしちゃいけない、という思考が染みついてて、何が許されることなのか、というところからしか考えが始まらなくて、枠そのものというか、構造そのものを疑うということができないんだと思います。
 これ、僕は、小学校、中学校、高校の「校則」の刷り込みが大きいと思ってるんです。(・・・)
ブレイディ/いつからそんな風になったんでしょうね。いつ頃から、そういう言葉が増えてきたんでしょうか?
鴻上/分からないですね。今日、Twitterで内田樹さんが「大学がこんなことになってしまったのは。1960年代から70年代は過激派の学生を撲滅するために、大学をちゃんとコントロールすることが目的だったんだけど、80年代に入ったら、過激派の学生なんて一部の大学以外ほとんどゼロといっていいくらい、いなくなった。だけど、大学の『管理する』という言葉が自己目的化してしまって、とにかく管理する条項が増えていった」ということをつぶやいてて、これは結構、真実に近いと思うんですよ。
 つまり昔は校則をちゃんとつくらないと学校が荒れるんだ、と考えられてたんだけど、今(1980年前後がポークだった)校内暴力はほとんどない。不良同士がどこかで大喧嘩してます、なんて話もめったに聞かなくなったのに、校則を守らなきゃいけないという考えだけが目的化して走り続けている。」

「ブレイディ/シンパシーとエンパシーって、語学学校で英語を勉強してた時に引っ掛け問題でよく出てきたんです。英語の検定試験も上級のほうにいったら、ああいう問題が結構出るんです。イギリス人でもけっこうシンパシーとエンパシーの違いってわかっていない人が多い。意味をごっちゃにしている人たちが多くて、みんなに聞いてみると、未病にそれぞれ違う意Mで捉えてたりしてるんですよね。
 シンパシーというのは、もっと感情的に同情したり、同じような意見を持つ人に共鳴したりすることですよね。SNSなら「いいね」ボタンみたいなもの。でもエンパシーはそうじゃなくて、対象に制限はない。自分と同じ意見を持っていない人でも同情できない人でも対象になり得る。この人の立場だったら自分はどう感じるだろうって想像してみる能力ーーーーアビリティって英英辞書には書いてあるんです。
 だからそこには希望があると思う。アビリティだったら、伸びるし、伸ばせるわけじゃないですか。「エンパシーという能力を磨いていくことが多様性には大事なんだよ」と、息子が学校で習ってきたんですけど、これは本当にその通りだなと思います。
鴻上/いい教育ですね。本当は道徳って、そういうことを教えなきゃいけないと思います。「かわいそうだから同情します」じゃなくて、相手の立場に立てる能力をどうしたら伸ばせるかっていうことですからね。
ブレイディ/それってすごい知的能力じゃないですか。人には想像力があるわけだし、例えば文学なんてのは、こういうエンパシーの力がなければ書けないわけですよね。」

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