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高橋巌『シュタイナーの人生論』

☆mediopos-2362  2021.5.5

シュタイナーは自分を
「個人主義的アナキスト」と呼んでいたという

「アナキスト」という言葉には
イメージ的にずいぶんバイアスがかけられているけれど
社会の根本は一人ひとりの精神生活である
ということにほかならない

シュタイナーの社会論である
『社会の未来』や『社会問題の核心』においても
論の立脚点は個における精神生活であって
精神生活における自由
経済生活における友愛
法生活における平等
という社会有機体三分節化の基本も
そこにこそ求められる必要がある

したがって
はじめに普遍的な原理のようなものが立てられて
それを学んでいくというありようでは
精神生活における自由を疎外するものとなってしまうし

いわゆる道徳なるものに対しても
はじめから道徳内容といったものが決められていて
それに従うことが道徳的であるのだ
というような在り方も
個における精神生活における自由とは
まったく相容れないものであることは明らかである

シュタイナーは「徹底的な個人主義」であり
徹底的な反普遍主義者であり反原理主義者である

そのことからその思想を理解していかないと
シュタイナーのさまざまな著作や講演録を
押し頂くように学ぶことが人智学である
というように誤解されてしまうことにもなる
人智学が原理化され普遍主義化されることこそ
シュタイナーがもっとも避けようとしたことのはずだ
それは『自由の哲学』を読むことで
むしろ「自由」を失ってしまうことにもなる

高橋巌さんは以下の引用のなかで
こんなたとえを使っている
「本の中にあるのは、まだ譜面の中にある単なる音符にすぎない」
「私たち一人ひとりは」「指揮者」であって
「一人ひとりが日常の毎日毎日に、その音符で音を出す」
「譜面上の音符は単なる記号にすぎない」と

譜面が無意味だと言っているのではない
譜面を一人ひとりがそれぞれの仕方で
創造的に読み取ることが重要で
そのことこそが譜面を意味あるものにする

答えがはじめから決められているのではなく
問うことでそこから力と光を
創造的に引き出さなければならないということだ

自己教育ということも
そこから理解されたとき
はじめて創造的な意味を持ち得ることになる
その意味で「個人主義的アナキスト」であることは
自己教育の達人を目指すということでもあるだろう

■高橋巌『シュタイナーの人生論』(春秋社 2021.4)

(「5 「自我」の探求 ミカエルの思想」より)

「シュタイナーは三〇代までは、自分はアナキストである、と名乗っていました。ですから、個人主義的なアナキズムの元祖であるマックス・シュティルナーを世に広めたヘンリー・マッケイというアナキストと、親友のような付き合い方をしていました。
 そういう流れのなかでシュタイナーが社会問題を考えるようになったので、当然、発想はアナキズム的にならざるをえません。そういう社会思想を展開していたので、シュタイナーは、社会の根本は経済生活でも国家・法生活でもなく、社会の土台を築くのは精神生活である、とはっきり述べています。その精神生活は当然、自我から発する精神生活ですから、個ですよね。一人ひとりが唯一の基準になります。
 一人ひとりが唯一の基準になる精神生活が社会生活の土台だ、という立場から、『社会の未来』という講演録を著したり、『社会問題の核心』という本を書いたりしました。
 日本ではそのシュタイナーの『社会問題の核心』が、大杉栄が亡くなる直前に日本語に翻訳されました。ですから大杉栄は、たぶんそれを読むことなく亡くなったのでしょうけれど、その代わり大川周明がその本を取り上げて、自分の思想の根本にしたのです。
 「大川周明全集」が中央公論社から出ていますけど、その中に、精神生活における自由とか、経済生活における友愛とか、法生活における平等とかいうシュタイナーの根本的な社会思想を伝えている論文が三つ出ていたり、別なところでも「自分が一番影響を受けたのは、西洋ではルドルフ・シュタイナー、日本では佐藤深淵だ」と言っていたりするくらいシュタイナーの影響を受けていました。でも戦前の日本でのシュタイナーの影響は、それ以外は結局ほとんど残っていません。戦後も、学校教育の中でシュタイナーが評価されるようになったときも、アナキズムと結びついたシュタイナーは、ほとんど日本でもヨーロッパでも、あまり問題にされずに来ました。
 それでもアナキズムの精神が、ミカエルの思想となって甦ります。そのミカエルは現代の価値観を根本的にひっくり返そうとします。その価値転換の第一は、(・・・)血統によらないで、個人一人ひとりの内発的な生き方に従う価値観、人生観の確認です。もう一つは、ヨーロッパでは、自然科学的な世界観が唯一の客観的に意味があるものと考えられるようになってきて、十九世紀になると、特に自然科学のあらゆる分野で大きな進歩を遂げました。だから自然科学的でない考え方はすべて科学的に根拠がないものと考えられるよになってきたのですが、ミカエルがそれをひっくり返すのです。
 物質と精神、それは対立するものではなく、一つのものなのだ、しかもすべての物質は精神によって生みだされたものなので、存在の根源は物質にあるのではなく、精神にある、そういう立場から一切の価値を転換させるのです。
 しかし、この価値の転換はものすごく難しいことで、それを主張するのはほとんど学問をあきらめるのと同じことになります。要するに、アカデミズムから問題にされないことになります。アカデミズムで問題にされない思想をアカデミズムに、あるいはアカデミストに納得させるということがシュタイナーの第一次大戦以降の大きな課題になったのです。
 ですから、社会問題を論じたシュタイナーの本を読むと、基本はマルクス主義批判なのです。自然科学的な社会観のおおもとであるマルクス主義を精神生活の立場から批判しているのです。道徳的な価値はすべて、道徳の衣をまとった贋物だ、というのです。言い換えると、既存の社会により良く適応できるものを道徳と呼んでいて、既存の社会を根本的にひっくり返す本来の道徳は、まったく問題にされないでいる、という前提で社会問題を語るのです。
(・・・)ミカエルの主張の根拠になっているのは何なのかというと、それはシュタイナーにとっては生命(いのち)以外にないのです。生命の問題は、一九世紀の自然科学では歯が立たなかったのです。どんなに実験室で研究を重ねても、生命を生み出すところいまでは到らなかったのです。(・・・)そもそも生命とは何かということを自然科学的に証明するというのは、前途多難ですよね。
 しかしシュタイナーはいきなりその生命から出発します。そのためには感覚を変えようというのです。今までの感覚体験とは違う感覚体験を持つことができれば、自然科学的な世界観が転換できると思ったのです。」
「ですから神秘学は、そもそもの出発点として、新しい感覚体験から始まるのです。従来の感覚体験の上に神秘学を考えてもダメなのです。世界のすべてが芸術作品になって、芸術作品を見るのと同じように驚いて、感動して、そして縁ができる、という感覚体験を前提にします。だからいのちを共有しあう学なのです。
 こういう体験の上に立つ学問が今また必要になっている、とシュタイナーは考えて、その学問を神秘学と呼んだのですが、私には、本来あるべき美学というのは、こういう在り方をしているのではないか、と思えます。」

(「6 シュタイナーのアナキズム」より)

「大杉栄は明治一八年に生まれ、関東大震災の年、大正一二年に亡くなりました。大正一二年というと一九二三年、明示一八年というと一八八五年ですね。シュタイナーが生まれたのが一八六一年ですので、二四歳ぐらい年下で、シュタイナーが亡くなったのが一九二五年、大杉栄の死の二年後で、活動の時期が完全にだぶっているのです。シュタイナーの活躍した二〇世紀の一〇年代は、大杉栄の時代でもあります。
 そんなことで、同じ時代を日本とドイツで生きた二人の、何か時代の共通性というのも感じられますが、何よりも、内面の世界がすごくだぶるというか、通じ合っているのですね。」

「シュタイナーの人智学も、大杉栄のアナキズムも、抽象的普遍的な原則ではなくて、一人ひとりの日常の行動のひとつひとつ、一字一句から立ち現れている光と力だ、と言っていることが分かります。
 そのことをシュタイナーは、ずっと後年の一九一〇年代から亡くなるまで、一貫して言い続けているのです。なぜこのことを強調したいかというと、シュタイナーが亡くなった後で、人智学は普遍人智学になっちゃったのです。どこの国でも人智学は同じ人智学で、普遍妥当的な真実を語ってくれている、というふうに思うような普遍人智学境界になっちゃったのですね。これだとアナキズムでも、シュタイナーの『自由の哲学』でもなくなって、一種のボルシェヴィズムになっちゃうのです。マルクス主義はどこの国でも普遍妥当的に適用するということができなければならない、というボルシェヴィズムです。シュタイナーの人智学も、どこの国に行っても同じ人智学が適用できるのだ、と考えると、人智学もボルシェヴィズムになっちゃうのです。もちろんアナキズムではなくなっちゃうのです。
 何が言いたいのかというと、シュタイナーの著作を、それぞれがそれぞれの言語で読み取った後はじめて、人智学はそのつど生まれてくるということです。そのとき生まれてくる人智学だけに力と光があるのです。本の中にあるのは、まだ譜面の中にある単なる音符にすぎないのですね。私たち一人ひとりは、アナキストとしても、人智学としても、指揮者なのですよね。一人ひとりが日常の毎日毎日に、その音符で音を出すわけです。その音が大事であって、譜面上の音符は単なる記号にすぎないのです。そういう発想が大杉栄とシュタイナーにおいてまったく同じなのは、ちょっとすごいと思いました。
 なぜシュタイナーが自分を個人主義的アナキストと呼んだのかというのも、この辺に由来するのだと思うのです。シュタイナーは徹底的な反普遍主義者で、反原理主義者で、それで徹底的な個人主義なのです。ですから、彼の人智学も徹底的な個人主義です。つまり一人ひとりの中で、はじめて生まれてくるものなのですよね。
 そう思ってましたら、山本七平さん〔僕はかってに彼もアナキストだと思っています〕の『民族とは何か』という本のことも思い出しました。この本にもすごいことが書いてあるのです。これはロシアの民族問題をテーマにしている本なのですけれど、普遍主義は、いつでも強者によって独占される、というのです。普遍を説く立場というのは、必ず権力者が説く立場になる、と。これは普遍的だ、というふうに上から押さえつけると、押さえつけられているものが、それをそれぞれ、なんとか納得できるものにして受け容れて、自分は自由だと思い込んでいる、というのです。
 そういえば、シュタイナーも、一九一五年の「言語と思考の一致が失われている」ことを論じた、『言語と思考の失われた一致』という講演のなかで、同じことを述べています。」
「シュタイナーの「認識」というのは、愛と同じことです。だから敵が権力で向き合ってきたときは、認識という愛の力で向き合うしかない、という立場なのです。(・・・)言い換えると、「現代人の最大の偏見は、あたかも真理がたったひとつであるかのように錯覚していることだ」、と。さらにすごいことを言っていますが、(・・・)こんな一節が出てくるのです。
「私たちがここにいろいろな国かた集まってくるとき、ひとつの中心となるべき人智学を受け取るために集まってくるのではありません。人智学の名のもとに、それぞれが、それぞれの国の成し遂げるべき事柄を、共通の、ひとつの祭壇の上に捧げるために集まるのです」。続いてこういう文章もあります。「こういう統一的ドグマ、唯一の真理というものを信じて、多様性の中にではなく、統一性の中に救済を見つけることができる、と考える人は、いつの間にか進化の方向から道を逸脱している」。」

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