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ユクスキュル『生物から見た世界』『生命の劇場』/保坂和志「鉄の胡蝶は記憶を歳月を夢は彫るか71」(『群像』)/グレーバー 『万物の黎明』

☆mediopos3500  2024.6.17

ユクスキュルの『生物から見た世界』は
mediopos-2343(2021.4.16)でとりあげているが

その「環世界」という視点は
主-客という認識の問題にも深く関わり
さまざまな動物の世界における「環世界」の他にも
ひとりひとりの人間にとっての「環世界」という
主観的現実についての視点も加えられているのが興味深い

ひとりひとりの見ている世界が
客観的現実としてだれにも同じように現れていると信じる
素朴実在論的な見方も事実上決していまだ少なくはないが
その視点からは「環世界」の視点は得られにくい

『生物から見た世界』に添えられている
「人間にとっての部屋」
「イヌにとっての部屋」
「ハエにとっての部屋」
それぞれの生物の視点から
それぞれの「環世界」を想定してみるだけでも
ふだん私たちが比較的固定させてとらえている
素朴実在論的な視点を背景にした「主観的視点」からは離れた
「新しい視点」を得ることができる

「同じ部屋」でも生物によって
「環世界」は多様な姿であらわれる

さまざまな生物がどんな「環世界」を有しているかを
探求してみるのも興味深いが
その視点をそれぞれの人間によって異なる
「環世界」として見ていくと

上記の「人間にとっての部屋」にしても
同じ部屋でもそこにいる人間によって
同じ部屋としてあらわれているとは限らないことがわかる
そして人間の場合は動物よりも多様な現れ方をする

『生物から見た世界』の最後の章「結び」でも
天文学者や深海研究者のように
自然研究者が異なれば自然が客体として果たしている役割も
矛盾に満ちてくると示唆されているが

ユクスキュルの死後出版された著作『生命の劇場』では
ユクスキュル自身の見解(環世界論)を示す生物学者と
それに対立する理論(機械論)を展開する動物学者を中心に
形而上学を代表する宗教哲学者
芸術を代表する画家
そして議論のまとめ役としての大学理事の対話によって
それぞれが代表する「世界」についての思索が展開されている

「世界」は典型的な役割を生きている人を挙げるだけでも
その「主義」や「立場」によって
異なったあらわれ方をすることがわかる

さて保坂和志の『群像』での連載
「鉄の胡蝶は記憶を歳月を夢は彫るか」では
ここのところデヴィッド・グレーバーの
『万物の黎明』をめぐった話となっていて

「動物はひとりひとり、一匹一匹、一羽一羽、
一尾一尾で世界像が違う、いま自分が調査対象としている民族を
自分たちの世界像・世界観を白紙状態にしないままで
調査対象に接しても実体はわからないとグレーバーは言う」
というように

ユクスキュルの「環世界」を
文化人類学において展開させているともいえるかもしれない
「世界像・世界観」が(小説として)展開されている

現代における科学的世界観や
根拠を「エヴィデンス」があるかないかに求める
ほとんど科学とさえいえないような世界観に対し
「すでに私には宗教の信仰と同等のものにしか見えていない」
というような違和感が表明されている

人間だけをとってみても
世界は人間の数だけ
あるいは同じ人間でも同じ世界を見ていないときがあり
その数に応じた姿であらわれている

そして典型をイメージするだけでも
科学的進歩史観的な世界とグレーバー的な世界とでは
まったく異なっているのが明らかだが

そんななかでじぶんが「信仰」し
疑ってもみることもない「世界」のことを疑い
じぶんの「環世界」をイメージしてみることが
必要不可欠な時代となっているといえる

そのためにも身近な人や
じぶんとはまったく異なった考え方で生きている人の
「環世界」を比較してみることが重要となる

「○○から見た世界」をくらべると
そこで上演されている劇が
それぞれでなんと異なって見えていることか!

■保坂和志「鉄の胡蝶は記憶を歳月を夢は彫るか71
人は宗教よりもずっと深く信じる行為をしてきた」
 (『群像』2024年7月号)
■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
 『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)
■ユクスキュル/クリサート(日高敏隆・羽田節子 訳)
 『生物から見た世界』(岩波文庫 2020/3 第25刷)
■ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(入江重吉/寺井俊正訳)
 『生命の劇場』(講談社学術文庫 2021/7 第4刷)

**(保坂和志「鉄の胡蝶は記憶を歳月を夢は彫るか71 」より)

*「私は近代というのか現代というのか、自分が育った教育とか知的訓練とかそういうものがほぼ決定的に間違っていたんじゃないかと感じる、そう感じている自分が今たんに精神状態がよくないだけなのかもしれないがどうなんだろう、そこは自分では何とも言えないがこういうネガティヴなところでとどまっている感じは良くない」

*「私は最近よく別の世界像の中で生きた人たちの世界像がもう少しで触れられる気がする、これは錯覚かもしれないし気安めかもしれない、私はもうあんまり難しいことを考えられなくなった」

「動物はひとりひとり、一匹一匹、一羽一羽、一尾一尾で世界像が違う、いま自分が調査対象としている民族を自分たちの世界像・世界観を白紙状態にしないままで調査対象に接しても実体はわからないとグレーバーは言う(『万物の黎明』)、自分が考えている相手の世界像が自分の中にとても身近な感触として得られることが最近私はある、それが錯覚とか気安めとかではないかと私は少し心配する」

「そういう気安めとして、自分がもう難しいことはわからないが自分以外の世界像を身近に感じるときがある・・・・・・いやまだ感じたわけではない、とても身近に感じるという感触、期待、予感がくることがある————いわゆる知的な活動の部分ではやっぱり六十代というのは記憶力も計算力も論理の構築力とか、それら学生時代にずうっと必要とされて、大人になっても社会での仕事においては必要だったそれらのものはだいぶ衰えている、実際そうなんだろうが実際そういうことになる以前にそうなっていると自分に言いきってしまう方がいい、無駄な労力をそこに割かなくていい、しかしそれらの能力が活発だったあいだにはあまり発現しなかった脳の活動、脳と限定する必要もないのかの活動、それが年齢で自分の中に起こっているのか、それとも〈万物の黎明〉も含めた文化人類学方面の知識が入ってきたことによって私の中のあまり活発でなかった関心が活発化した。」

*「グレーバーは何度でも〈サピエンス全史〉的な、人類史を一望する類いの本を根拠のない神話だと否定する、歴史を書く前にすでに誰でもが知っている未開から富と権力の集中へと至る筋書きが出来上がっている、考古学の遺跡の発掘とその都市の再現もまた自分たちが事前に知っている古代人のイメージつまり偏見・思い込み・予断が強く左右する。

 ————ここで思うんだが最近流行の二言目にはエヴィデンス、何でもなんでも「エヴィデンスはあるんですか」という考え方とグレーバーはここで描き出している人類史は異質、もっと言うと相容れない思考法なんじゃないか、私は、
「その考えにはエヴィデンスがない。」
 という言葉は権威主義の側からしか聞いた憶えがない。
(・・・)
 誰かがエヴィデンスと口にしたらその人は、
「科学的思考とか論理的思考とかわかんないからエヴィデンスがあるかないかだけ言ってくれ」
 と言ってるようにしか私には聞こえない。それで科学的思考とか論理的思考とかの話なんだがこれがさっきの「私はもうあんまり難しいことを考えられなくなった」につづく話になるわけだが、科学的思考というのはすでに私には宗教の信仰と同等のものにしか見えていない、科学は時代とともにどんどん進歩するというのを公理として認めたら、明日くつがえされるかもしれない今日の根拠を正しいとかエヴィデンスだとか言える感覚が私はわからないんだがそんなことよりも〈万物の黎明〉を読むうちに私は千年前や一万何千年前やすべての人間の社会は活動の知的レベルにおいて同等であり、かつ、人間の反応も含めて世界に起こる現象そのものが人間の知の活動に同等に応えてくれていたんじゃないのか、だから世界における人類の営みは人類誕生以来進歩はしていない、とくに近代に至っては近代人が進歩ということを信仰しているだけで、千年前も一万年前も同じなんじゃないか。」

*「社会が進歩するとか時代が進歩するとか、何を基準に進歩と言っているのかわからないが、生活が便利になることと物がいろいろ充実することは進歩ではない、というか進歩というのはそれを指す概念で、便利や物に依存することを進歩と呼んだわけだから、そこに人生の幸福はない、子どもの幸福度調査みたいなのがあって日本は必ずとても低い、低いと聞けば「やっぱりね」と思う、そしてアフリカのどこそこの国の子どもの幸福度が高いと聞けばこれも「やっぱりそうか」と思う、それを肯定する気分が多くの人にあるとしたら人類の進歩史観はすでに支持されていない。」

**(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』〜「まえがき」より)

*「「この小冊子は新しい科学への入門書として役立とうとするものではない。その内容はむしろ、未知の世界への散策を記したものとでも言えよう。それらの世界は単に未知であるばかりか目にも見えず、それどころか、そういう世界が存在することの正統性は多数の動物学者や生理学者によっておおむね否定されているのである。」

「あらゆる生物は機械にすぎないという確信を固守しようとする人は、いつの日か生物の環世界(Umwelt)を見てみたいという希望は捨ててほしい。」

「われわれの感覚器官がわれわれの知覚に役立ち、われわれの運動器官がわれわれの働きかけに役立っているのではないかと考える人は、動物にも単に機械のような構造を見るだけでなく、それらの器官に組み込まれた機械操作系(Maschinisit)を発見するであろう。われわれ自身がわれわれの体に組み込まれているのと同じよう。するとその人は、動物はもはや単なる客体ではなく、知覚と作用とをその本質的な活動とする主体だと見なすことになるであろう。

 しかしそうなれば環世界に通じて門はすでに開かれていることになる。なぜなら、主体が知覚するものはすべてその知覚世界(Merkwelt)になり、作用するものはすべてその作用世界(Wirkwelt)になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界(Umwelt)という一つの完結した全体をつくらげているのだ。
 環世界は動物そのものと同様に多様であり、じつに豊かでじつに美しい新天地を自然の好きな人々に提供してくれるので、たとえそれがわれわれの肉眼ではなくわれわれの心の目を開いてくれるだけだとしても、その中を散策することは、おおいに報われることなのである。

 このような散策は、日光がさんさと降りそそぐ日に甲虫が羽音をたてチョウが舞っている花の咲きみだれる野原からはじめるのがいちばんだ。野原に住む動物たちのまわりにそれぞれ一つずつのシャボン玉を、その動物の環世界をなしその主体が近づきいるすべての知覚標識で充たされたシャボン玉を、思い描いてみよう。われわれ自身がそのようなシャボン玉の中に足を踏み入れるやいなや。これまでその主体のまわりにひろがっていた環境は完全に姿を変える。カラフルな野原の特性はその多くがまったく消え去り、その他のものもそれまでの関連性を失い、新しいつながりが創られる。それぞれのシャボン玉のなかに新しい世界が生じるのだ。

 このような世界をともに歩きまわろうと、この旅行記は読者を誘う。筆者らはこの本を作るにあたって、一人(ユクスキュル)が本文を書き、もう一人(クリサート)が絵の題材もに配慮するというように仕事を分担した。」

**(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』〜「12章 魔術的世界」より)

*「われわれ人間が動物たちのまわりに広がっていると思っている環境(Umgebung)と、動物自身がつくりあげ彼らの知覚物で埋められた環世界(Umwelt)との間に、あらゆる点で根本的な対立があることは明らかである。これまでのところでは、原則として環世界とは外部刺激によってよびおこされた知覚記号の産物だとされていた。しかし、探索像なるものや、なじみの道をたどること、をして故郷を限定するということは、すでにこの原則の例外であった。それらはいかなる外的刺激にも帰することのできない、自由な主観的産物なのだ。

 これらの主観的産物は、主体の個人的体験が繰り返されるにつれて形成されていくものである。

 さらに進むとわれわれは、たいへん強力だが主体にしか見えない現象が現れるような環世界に足を踏み入れることになる。それらの現象はいかなる経験とも関係がないか、あるいはせいぜい一度の体験にしか結びついていない。このような環世界を魔術的(magische)環世界と呼ぼう。

 たくさんのこどもたちがどれほど深く魔術的環世界に生きているかは、次の例からよくわかる。

 フロベニウスはその著書『パイデウマ(教育される者)』の中で、ある少女についてこう語っている。その少女は一個のマッチ箱と三本のマッチで、お菓子の家やヘンゼルとグレーテルと悪い魔女のお話をしながら一人で静かに遊んでいたが、突然こう叫んだ。「魔女なんかどこかへ連れていっちゃって! こんなこわい顔もう見ていられない」。

 (・・・)少なくともこの少女の環世界には悪い魔女がありありと現れていたのである。

 このような経験はしばしば、原始的な民族を研究する探検家たちの注意をひいてきた。原始的な民族は魔術的な世界に生きており、そこでは、彼らの世界の感覚的に与えられた事物に空想的な現象がまぎれこんでいると言われている。
 もっと詳細に観察すれば、教養の高いヨーロッパ人の多くの環世界でも、同じような魔術的なイメージに出会うはずである。」

*「環世界の研究に深くかかわればかかわるほど、われわれには客観的現実性があるとはとうてい思えないのに何らかの効力をもついろいろな要素が、環世界の中には現れるのだということを、ますます納得せざるをえなくなっていく。」

*「環世界には純粋に主観的な現実がある。しかし環境の客観的事実がそのままの形で環世界に登場することはけっしてない。それはかならず知覚標識か知覚像に変えられ、刺激の中には作用トーンに関するものが何一つないのにある作用トーンを与えられる。それによってはじめて客観的現実は現実の対象物になるのである。

 そして最後に、単純な機能環が教えてくれるように、知覚標識も作用標識も主体の表出であり、機能環が含む客体の諸特性は単にそれらの標識の担い手にすぎないと見なすことができる。

 こういうわけで、いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない、という結論になうr。
 主観的現実の存在を否定する者は、自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである。」

**(ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』〜「結び」より)

*「何百万という目がまわりそうな数の環世界の中から、自然の研究に捧げられている環世界、すなわち自然研究者(天文学者)の環世界だけを取り出してみよう。

 地球からできるだけ遠く離れた高い塔の上に、巨大な工学的補助具によってその目を宇宙の最も遠い星まで見通せるように変えてしまった一人の人間が座っている。彼の環世界では太陽と惑星が荘重な足どりでまわっている。その環世界を通り抜けるには、足の速い光でさえ何百万年もかかる。

 しかしこの環世界全体は、人間主体の能力に応じて切りとられた、自然のほんの小さな一こまにすぎない。

 天文学者像をわずかに変更すると、深海研究者の環世界のイメージを描くことができる。ただし、深海研究者のカプセルの回りをまわるのは星座ではなくて、無気味な口と長い髭、放射状の発光器官をそなえた深海魚の幻想的な姿である、ここでもわれわれは、自然の小さな一こまを再現した現実の世界に目を向けているのだ。」

*「自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界すべての背後に、永遠に認識されえないままに隠されているのは、自然という主体なのである。」

**(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生命の劇場』〜入江重吉・寺井俊正「学術文庫版のあとがき」より)

*「本書の対話に登場するのは、大学理事(フォン・K氏)、宗教哲学者(フォン・W氏)、画家、動物学者、生物学者の五名である。この内、直接に論戦が交わされるのは動物学者と生物学者のあいだであり、ここで生物学者はおそらくユクスキュル自身の見解(環世界論)を示し、動物学者はそれに対立する理論(機械論)を代表している。それに対して、宗教哲学者と画家はそれぞれ形而上学と芸術を代表し、それぞれの立場から、基本的には生物学者の見解を補強する役割を担っている。そして大学理事は、同じ基本的には生物学者の見解に同調しつつも、対話のまとめ役として、全体の論議を調整・総合する働きを示していると言えよう。ちなみに、このように見れば、著者であるユクスキュルが、本書では生物学者と大学理事との両方にスタンスを置いていることは明らかである。言い換えれば、直接的には生物学者に自らの見解を語らせながら、しかし同時に、それを相対化・客観化しうるような総合的・包括的な立場に身を置いているのである。そしてここに、本書の主たる性格————すなわち、本書が著者の最晩年において、生命に関する長年の思索のいわば総決算として著されたものであることを、容易に見てとることができよう。」

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