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『海馬を求めて潜水を』/『認知症(シュタイナーの精神科学にもとづく)』

☆mediopos-2491  2021.9.11

記憶というのは不思議だ

映画にもなったが
小川洋子の小説『博士の愛した数式』には
80分しか記憶が続かない数学者が登場する

『海馬を求めて潜水を』で紹介されている
海馬を手術で取り去った男性は
短期記憶しかできなってしまったが
短期記憶は80分の記憶よりもずいぶん短く
気をそらしただけでも記憶が消えてしまう

海馬には思考の道具としての働きとともに
ストレスを受けたときの感情を抑える働きもあるようだが
その二重の働きがあって
記憶がとどめられるようになるようだ

先の海馬を切除された患者は
てんかんの発作に苦しんでいた
過去のほかの症例から
てんかんの発作の防止に効果があったことから
その手術に至ったとのことだが
記憶をとどめるということは
それなりのストレスを伴うことでもあるのだろう

逆に決して過去の記憶が消えないという人も
世の中には存在しているというが
相当なストレスを抱え込むことでもあるだろうし
それもまた生きていくには大変な困難を抱えてしまう
記憶は困らない程度に覚えられ
困らない程度に忘れるというのがよさそうだ

記憶の研究は
海馬の研究をはじめとして
脳の働きとしてとらえられるのが通常だが
それだけでとらえることはできない
というのがここで確認しておきたい点である

記憶について考えるときは
脳だけではなく私たちの身体全体
さらにはそれを超えた世界にまで
視点を広げて考えていく必要がある

シュタイナーによれば哲学者のベルクソンは
人間の記憶力の中に純粋に霊的なものを見ているという
記憶は単に脳のなかに
物質的に蓄えられているとはとらえず
精神と物質の交差するところに
「イマージュ」という概念を提唱し
そこにおける記憶・想起の検証を行おうとしているのだ

シュタイナーは精神科学的な視点で
記憶の霊的な働きについて示唆しているが
ここではその視点のもと
主に社会精神医学と高齢医学に携わっている
ヤン・ピーター・ファン・デル・シュティーンの
『認知症』に関する著作から
記憶に関するところをいくつかご紹介しておきたい

記憶ということについて語るときはふつう
意識的にとりだすことのできる直接的な記憶である
エピソード記憶と意味記憶が意味されることが多いが
記憶にはそれとならんで
たとえば自転車に乗ったり文字を書いたりするときの
無意識的な間接記憶がある

認知症患者は意識的な記憶は失われやすいけれど
からだで覚えているような間接記憶は失われにくい

また私たちは生まれてから
順を追って三つの記憶層を身につけていく
まず手足を使い環境を知覚することで
呼び起こされるプリミティヴなローカル記憶
そして話せるようになると発達する
歌を覚えるようなリズム記憶
そして思考とともに育っていく抽象記憶である

そして認知症患者はこれらの記憶層を
今度は身につけたのとは逆の順番で失っていくことになる

またシュタイナーによれば
脳は思考・感情・意志が意識される臓器であって
記憶は脳にだけ蓄えられるのではなく
諸臓器の表面で反射され
それぞれにふさわしい特別な記憶を集めるという
ということは臓器が機能しなくなるときには
その記憶も機能しなくなるということにもなるのだろう

「肺は抽象的な表象を
肝臓は情緒的・感情的な性質の記憶を
心臓は良心の呵責や後悔と結びついている
思考を反射」するという

最近では臓器移植がなされることも多くなっているが
よく知られている例に
心臓移植した人の人格が変わったようになることがある
これは心臓に結びついている記憶も含めて
移植されたことからくるのだと思われる

さらにいえば臨死体験で
心肺停止・脳死状態から蘇生した人々が
臨床状態にあっても意識があると報告しているように
私たちの意識はからだを超えたところでも働いている

そのときの意識は
からだのなかで働いているいわば「脳-意識」よりも
大きく広がったより包括的な意識となっているが
その意味で私たちの意識は物質的な身体とともに働いている
《私的な記憶》だけではなく
《世界記憶》ともいえる記憶をも内包しているといえる

物質的な身体のなかで働いている《私的な記憶》は
海馬が失われることで記憶の機能が失われるように
機能の損傷によって失われているように見えるが
《世界記憶》のなかでは
「私たちの体験、思考、感情のすべてが
保たれ」ているのである

そのように物質的な身体の視点だけではなく
それを超えた視点で人間をとらえたときにはじめて
認知症やさまざまな障碍をもった方の場合も含め
人間の尊厳ということも真に語れるのではないだろうか

■ヒルデ・オストビー/イルヴァ・オストビー(中村冬美・羽根由 訳)
 『海馬を求めて潜水を――作家と神経心理学者姉妹の記憶をめぐる冒険』
 ( (みすず書房 2021/6)
■ルドルフ シュタイナー(高橋 巖訳)『シュタイナーの死者の書』
  (ちくま学芸文庫 2006/8)
■ルドルフ シュタイナー(高橋 巖訳)『照応する宇宙 (シュタイナーコレクション3) 』
  (ちくま書房 2003/10)
■ヤン・ピーター・ファン・デル・シュティーン(石井 秀治訳)
 『認知症―シュタイナーの精神科学にもとづく-アントロポゾフィー医学の治療と介護の現場から』
 ((耕文舎叢書〈9〉2016/02)
■アンリ・ベルクソン(合田 正人・松本 力 訳)『物質と記憶』
 (ちくま学芸文庫 2007/2)

(『海馬を求めて潜水を』より)

「海馬がどれほど記憶にとって重要であるかが解明されたのは、一九五三年以降のことだ。それまでにも脳のどこに記憶が蓄積されるのか、数え切れないほどの推測が生まれていた。特に浸透したのは、思考は頭蓋骨のなかにある液体に漂っているという理論だ。とはいえ、それもしだおも忘れられ、一九五三年当時に最も流布していたのは、記憶は生まれると脳全体に広がって蓄積される、という理論だった。しかしそれを根こそぎひっくり返してしまう。決定的な事件が起こった。ひとりの男には悲劇的な事件だったが、人類全体には画期的な出来事だった。失敗に終わったある実験的手術が、ジュリオ・チェーザレが四〇〇年前に発見した脳の小さな部分を理解する決め手となった。
 一九五〇年代、医師のウィリアム・ピーチャー・スコヴィルは、二十七歳のヘンリー・モレゾンという患者の診察をしていた。ヘンリーはてんかんを患い、苦しんでいた。数秒間くり返し意識を失うといった欠伸てんかんの発作が、一日に何度も起きる。(…)
 スコヴィル医師はてんかん治療のために海馬を摘出したカナダの外科医のうわさを聞いていた。そのうえで、脳の両側の海馬を切除したなら、この治療法は片方のみの場合の二倍の効果をあげるに違いないと考えたのだった。それは前例のない手術であり、彼には結果が予測できなかった。もしヘンリー・モレゾンが現代に生きていたら、こんな治療法は受けずに済んだだろうし、脳手術が計画されても予備検査の段階で取りやめになっただろう。ヘンリーは主治医に従った。それまでずっと辛いてんかんに苦しんできたヘンリーは藁にもすがる思いで手術を受けることに同意い、それと同時に記憶研究史で最も重要な人物となる契約を結んだのだった。手術の後ヘンリーが目覚めてみるよ、この二、三年の記憶がすっぽりと抜け落ちていることが分かった。しかしもっと大変なことが待っていた。ヘンリーは何かを思った瞬間しか、その記憶を保つことができなくなっていた。(…)
 続く五十年、ヘンリーは、文字通り一瞬一瞬のみを生きた。」
「ヘンリー・モレゾンを検査することで、何が分かったのだろう。彼と話すだけでも、記憶の根本的な仕組みについて何かしら示唆を得ることができた。ヘンリーは話の筋をたどることは可能だったのだ。ただし何か他のことを考えたり、周囲の何かに気を取られるまでは。これはヘンリーが、まったく正常な短期記憶を持っていることを示す。短期記憶とは、今この瞬間に、意識に上っている情報でできている。私たちの体験は長期記憶に変換される前に、一時的に短期記憶になる。電話番号を検索して入力する時、その数字を覚えていられるのはほんのわずかな瞬間だけだ。伝言を受け取った時や、新しい単語を覚える時も同じであり、こういった物事が記憶に残っているのは、ほんの数時間だけ、あるいはそれについて考えている間にすぎない。そういった記憶の一部が脳内を駆け巡るうちに、超記憶として拾われる。しかしヘンリーには短期記憶しかなかった。」
「長期記憶とはいくつもの異なる層で構成されているものだが、意識して記憶する必要のない身につけた物事、つまり手続き記憶は海馬と関係がないのである。」
「ヘンリーをめぐる研究に基づく記憶理論は、すでに保管されている記憶が、今後入ってくる新しい記憶とは別物であることを示す。ヘンリーには、もちろん手術前の記憶はあった。自分が誰なのか、出身はどこなのかを覚えていたし、子ども頃や若い頃に起こった出来事も覚えていた。けれども手術前の二、三年間の記憶はまったくない。つまり、人の記憶は海馬だけに保管されるわけではないということになる。(…)では海馬の役目は何かといえば、記憶が熟成されて大脳皮質に刻み込まれるまで、しっかりと守り抱いていることに違いない。」

(シュタイナー『シュタイナーの死者の書』より)

「私たちの記憶力が魂の中に生きる霊的なものの最初の現われであることは、今日の哲学者たちも理解しています。輝かしい成功をおさめたフランスの哲学者ベルクソンは、人間の記憶力の中に純粋に霊的なものを見ています。今日のほとんどすべての人の心を捉えている自然科学の偏見が過ぎ去ったならば、誰でもが記憶という魂の宝庫の中に、純粋に魂的・霊的なものへ到る通路の発端を見出すでしょう。
 私たちが記憶する表象内容は、すべて純粋な魂の中に蓄えられています。(・・・)しかし通常は記憶の宝が、魂の中にあるものをヴェールで覆っているのです。
 人間の魂の奥深くには、記憶像で覆われているために、意識できなくされていますが、霊的・魂的ないとなみが常に存在しています。霊学研究者がその霊的・魂的なものに参入するときには、もちろんその霊的・魂的な本性という彗星にいわば「尾」のような形でくっついているさまざまな記憶内容とも出会います。しかし霊学研究者は、そのような記憶内容を通して、思い出を保存している力よりも高次の力の働きを洞察できるのです。適当な表現を見出すのがとても難しいのですが、こんな言い方が許されるならば、私はこのことを「記憶から超記憶にまで上っていく」という言葉で表現したいのです。こうして、一昨日「霊視的表象」と名づけたものを次第に獲得していくのです。」

(シュタイナー『照応する宇宙』より)

「記憶も思考と同じように、魂の働きです。修行者の思考が頭の思考からハートの思考に変わるとき、記憶はどうなるのでしょうか。
 通常の記憶の在りようを見てみますと、私たちはまず、現在の自分の環境を意識します。自分の周囲にある事物を見、その知覚内容を心に抱き、知覚内容を記憶内容に組み込みます。そうすると、現在の体験から過去の体験へ、意識が広がります。記憶と共に、現在から過去へ入っていきます。昨日体験したことを今日思い出すとき、いわば時間を遡ります。今は自分の環境の中に存在していないもの、以前の環境の中にあったものをも、今見通すことができるのです。記憶をこのように考えてみると、私たちの現在意識が周囲の空間と結びついているように、意識を過去に向けて拡大する記憶は時間と結びついている、ということに気づきます。記憶が働くとき、私たちは時間の流れを通ります。そして今、この意識活動に変化が生じるのです。実際、その変化は劇的です。」

(ヤン・ピーター・ファン・デル・シュティーン(『認知症』より)

「記憶ということばを使うとき、私たちはこのことばをたいていの場合、直接記憶あるいは外示的記憶(意識的記憶)という意味合いで用います。これは、私たちの記憶の内に保たれ再び意識的に呼び出すことのできる事実と体験に関する記憶です。
 この直接記憶あるいは外示的記憶には二つの種類があります。ひとつはエピソード記憶。(…)もうひとつは意味記憶。」
「記憶には、意識的に呼び出すことのできる直接記憶とならんで、間接記憶あるいは内示的記憶(無意識的記憶)があります。私たちはたとえば、自転車に乗る、キーボードを叩く、自動車を運転する等々の多くを、いちいち意識することなく無意識のうちにおこなっています。これらの記憶は、とくに運動領域における能力に属しています。」
「この二つの記憶形態の相違は重要です。なぜなら直接記憶は、認知症感化の場合にも最後まで比較的よく保たれていることの多い間接記憶よりも、もろく壊れやすい記憶だからです。----認知症患者は、新たに獲得した能力を、間接記憶のなかにはなお取り込んでいくことができます。」

「海馬は二重の性質を示します。一方では、出来事を《記憶のノート》にゆっくり書き込んでいく思考の道具としての性質を、もう一方では、ストレス、不安、緊張が生じたときの、感情の昂ぶりを抑えるための器官としての性質を。海馬はこの二重の性質を持つからこそ、出来事を記憶に刻むことができるのです。」

「わたしたちはみな、子どものときから順を追って発達させてきた三つの記憶層を身につけています。歩けるようになるとローカル記憶(プリミティヴな記憶)が発達し、話せるようになるとリズム記憶が発達します。そしてその後、私たちの思考の基板となる抽象記憶が発達します。認知症患者の場合には、これらの記憶層がこの逆の順番で失われていきます。しかし、これらのうちのどれかひとつが機能しなくなったとしても。《それよりもプリミティヴな》記憶層によって、当該の人間とのコミュニケーションは可能です。」

「臨死体験と今日的な死の定義は、完全に相容れない関係にあります。臨死(NDE)状態にある人間は、医学的には死んだ人間と見なされています。これは、心停止により酸素欠乏状態になった脳がその活動を止めた、ということを意味します。しかし臨死状態から蘇生した人々は、臨死状態にあっても意識はあり、その間の意識もあることを報告しています。この意識は、私たちのかぎられた脳-意識よりも大きく拡がる、より包括的な意識です。なぜならこの意識は、私たちの《私的な記憶》だけではなく、《世界記憶》(反バイオグラフィー)に由来する記憶をも内包しているからです。今日的な見解によれば、意識と記憶は私たちの脳と結びついていて、脳が働いていないのなら意識も記憶もあり得ない、ということになっているのですが。」

「ルドルフ・シュタイナーは1921年7月2日、ドルナッハで、《臓器の霊的認識》に関する講演を行っています。これはとりわけ重要な講演です。なぜならシュタイナーはその講演で、単に記憶について語っただけではなく、同時に臓器-精神医学を基礎づけているからです。彼は脳を、私たちの思考、感情、意志が意識される臓器として描写しています。しかしまた、記憶は脳に蓄えられるのではなく、諸臓器の外表面で反射される、とも述べています。:《この諸臓器の表面とは何でしょうか? それは魂的生活のための反射装置に他なりません。私たちが知覚するもの、私たちが思考の内に持ち込むものは、私たちの内臓すべての表面で反射します。そしてこの反射は、私たちの記憶内容、人生全般にわたる私たちの記憶を意味しています。つまり、私たちが知覚し思考した後に、私たちの心臓、私たちの胚、私たちの脾臓等々の外表面で反射するもの、そこで投げ返されるもの、それは記憶を放出するものなのです。[…]私たちが体験するものは、いわばいたるところで表面に打ちつけられ、跳ね返されます。そして、それが記憶になるのです。》
 ルドルフ・シュタイナーによれば、諸臓器はそれぞれにふさわしい特別な記憶を集めます。肺は抽象的な表象を、肝臓は情緒的・感情的な性質の記憶を、心臓は良心の呵責や後悔と結びついている思考を反射します。
 この同じ公演のなかでシュタイナーは、記憶を形成するために身体が用いる力は、それにふさわしい反射臓器のなかは入り込む、とも語っています。」

「臨死体験と臓器移植後の一定の経験は、脳は、そこに意識が生じて記憶が蓄えられる唯一の場所ではないことを明らかにしています。(…)臓器移植後に生じた現象は、記憶はしかるべき臓器と結びついていることを明らかに示しています。臨死体験は、記憶はまた、人間の外部の《世界記憶》の内に蓄えられることを明らかにしています。」

「人間は二つの記憶領域へ向かう道を持つ、ということが明らかになります。ひとつは物質的身体と結びついている記憶領域。私たちはその内に、私たちのさまざまな記憶を蓄えます。もうひとつは世界記憶。この世界記憶の内には、私たちの体験、思考、感情のすべてが保たれます。」

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