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カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』

☆mediopos-2390  2021.6.2

カルロ・ロヴェッリのことを知ったのは
一昨年に邦訳が刊行された
『時間は存在しない』だった
(当時このmedioposでもご紹介した)

本書が文庫化されたのは
その少し後だったようだけれど
ときおり物理学に関する本に
目を通したくなるので
その名を思い出して読んでみることに

時空に関する物理学的探求は
イマジネーションをかき立ててもくれるが
ここで引用したように
あくなき知的探求が成立するのは
じぶんの無知と向き合うときであり
その姿勢こそが
真性の「科学」への信頼感を育ててくれる

けれども
「自らの無知にたいする確固たる自覚こそ、
科学的思考の核心である」にもかかわらず
科学者を自称する方々に
それとは反対の態度が多く見られる
「科学的でなければならない」というように

それを受け取る者にとって
科学は宗教と見分けがつかない
真性の科学も真性の宗教も
それを探求し伝える者は
「私は絶対に正しい」とは言わないはずだが
受け取るものはそこに
「絶対的な正しさ」を見ようとする

ほんらいの科学者は
探求した内容について他がそれを
批判・検証できることを前提としているように
ほんらいの宗教者もまた
みずからの信仰した真実を伝え
その教えを受ける者にとっても
魂のなかで真実であることを確かめるよう求めるが

それを受け取る多くの者にとって
科学は絶対であり
宗教的な教えもまた絶対として
ひとを教化するものとなってしまうのだ

そして教化される者は群れをつくる
群れは「指導者」を担ぎ仰ぐ
「指導者」を信頼するかどうかは別として
そこから教えられることに従うことで
みずからを正しいとして安心を得ようとするのだ

そのとき
学ぶことは
科学的だとされることを覚えこみ
宗教的真実だとされていることを覚えこみ
それらを模倣することにほかならなくなる
そこには「驚き」も「神秘」ももはや存在しない
探求するジャンルは問わず
「世界は深遠な驚きに満ちている」にもかかわらず

教えは教えでしかない
教えのなかには「深遠な驚き」は失われている
生きているということから
それが失われるとき
すでにひとは生という
かけがえのない宝物を取り逃がしている

■カルロ・ロヴェッリ(竹内薫監訳・栗原俊秀訳)
 『すごい物理学講義』
 (河出文庫 2019.12)

「「この本に書いたことはすべて正しい----わたしは、確信をもってそういえるだろうか? 答えはもちろん、「いいえ」である。
 科学誌の最初期における、もっとも美しい叙述のひとつが、プラトンの『パイドン』に記されている。この本のなかで、ソクラテス(の口を借りたプラトン)は地球の形態を説明している。大地は球体であり、この球体に刻まれた巨大な谷のなかに人間が暮らしている。自分はそう「思う」と、ソクラテスは言っている。少々の間違いはあるものの、充分に正しい見方である。それから、ソクラテスはこう付け加える。「確信はもてないがね」
 書物の残りの部分を満たしている、魂の不滅をめぐる戯言よりも、この一連のくだりのほうがはるかに価値がある。この一節は、地球が球体であることを明確に指摘した、現存する最古の文章である。だが、この言葉の真価は、もっと別のところにある。プラトンは、自らが属す次代の知の限界を認識していた。だからこそ、『パイドン』の記述には、今なお色褪せることのない価値がある。「確信はもてないがね」。ソクラテスは、そう言ったのである。
 自らの無知にたいする確固たる自覚こそ、科学的思考の核心である。知の限界への自覚があるから、わたしたちは今日までに、かくも多くのことを学んでこられた。大地は球体であるという考えを語るときのソクラテスと同じように、わたしたちは確信をもてないままに、自らの知を疑いつづける。人間はそのようにして、知の境界に位置する事柄を探求してきた。
 わたしたちが知っていることや、知っていると信じていることは、正確さを欠いていたり、間違っていたりする可能性がある。知の限界の自覚とは、こうした可能性の自覚でもある。自分たちの見解に疑いをもてる人間だけが、その見解から自由になり、より多くを学ぶことができる。思考の内奥まで根を張っている見解さえ、ときには間違っていたり、あまりにも単純だったり、いくぶん見当はずれだったりする。なにかをより深く学ぶには、勇気をもってこの事実を受け入れなければならない。わたしたちの見解は、プラトンの洞窟の壁面に映し出された影なのだから。
 科学とは謙虚な営みである。科学に取り組む人間は、自らの直観に盲従しない。まわりの全員が言っていることに盲従しない。父母の世代や、祖父母の世代が積み上げてきた知に盲従しない。「自分はすでに事物の本質を知っている」とか、「事物の本質はすでに本に書かれている」とか、「事物の本質は部族の年長者に守られている」とか考えているかぎり、わたしたちはなにも学べない。」

「時おり、こんなふうに言って科学を非難する人たちがいる。「科学というやつは傲慢で、自分はすべてを説明できる、あらゆる質問に答えられると過信している」。科学に携わる人間からすれば、奇妙としかいいようのない非難である。地上のあらゆる研究室の、あらゆる研究者が知っているとおり、事実はその反対なのだから。科学とは、自らの限界に日常的に衝突する営みである。知らないことやうまくいかないことが絶え間なく積み重なって、つねに科学者の頭を悩ませている。」

「なにひとつ確信がもてないなら、科学が語る言葉をどうやって信用したらいいのだろう? 答えは単純である。科学が信用に値するのは、科学が「確実な答え」を教えてくれるからではなく、「現時点における最良の答え」を教えてくれるからである。わたしたちは科学をとおして、差し当たっての最適解を手に入れる。科学という鏡には、さまざまな問題と向き合うための最良の方法が映し出されている。科学はつねに、知に再検討を加え、知を更新していこうとする。」

「だから科学は、「自分は真理を知っている」という人間を信用しない。そのために、科学と宗教はたびたび激しく対立する。科学が、「自分は最終的な解を知っている」と主張するからではない。まさしくその反対である。「自分は究極の解を知っている、自分は真理への特権的な接近方法を知っている」と主張する人びとにとって、科学的な精神は目障りなものでしかない。
 知に本質的に備わっている不確かさを受け入れるなら、無知に浸かって生きることを受け入れなければならない。それはつまり、神秘のなかに、謎のなかに生きることである。自分たちには答えられない(おそらく、今のところは答えられない、またはもしかしたら永久に答えられない)問いとともに生きることである。
 不確かさのなかで生きることは難しい。自身の限界の自覚から生じる不確かさを受け入れるくらいなら、たとえ明白に根拠を欠いていたとしても、確かさの方を選ぼうと考える人たちもいる。正しいのか、それとも間違っているのかという点には目をつぶり、自らに誠実であろうとする勇気を押さえつけ、部族の年長者が信じている話なら何でも信じようとする人たちがいる。本当は知りたいと思っているのに、なにも知らずに生きていこうとする人たちがいる。」

「わたしとしては、自分たちの無知と向き合い、それを受け入れ、より遠くを見ようと励み、自分に理解できるかぎりのことを理解したいと思う。自らの無知を受け入れることは、迷信や偏見という鎖からの解放につながる。」
「より遠くを見ようとすることや、より遠くへ行こうとすることは、誰かを愛したり、空を眺めたりすることと同じように、生に意味を与える輝かしい営みだとわたしは思う。」
「父祖が語ってきたどんな物語よりも、世界は深遠な驚きに満ちている。わたしたちは、その驚きをい見にいきたいと思っている。不確かさを受け入れることで、わたしたちは神秘の感覚を失うのではなく、神秘の感覚に満たされていく。わたしたちは、世界の美と神秘に浸かっている。」
「解明し、探求すべき神秘が、この広大な世界を満たしている。」

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