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『Arithmetic アリスメティック 数の物語』

☆mediopos2269  2021.2.1

数は魔法である

数は数の世界のなかで
たしかな生き物として存在している

しかし数の世界と
私たちの生きている世界とは
どう関係しているのだろうか
それが謎である

小学校の最初の頃
算数の授業でしばしばひどく
混乱したことがあるのを思い出す

数や計算などの式には
最初からとくに違和感もなく
計算なども問題なくできたのだが
数をみかんやりんごなどに置き換え
数や数えるということに関連づけるときに
なにがそこで起こっているのか
それがわからなくなってしまったのだ

みかん一個がなぜ1なのか
みかんが二個あるとなぜ2なのか
みかん一個とみかん二個でなぜ3になるのか

1は1でいい
2は2いでいい
1+2は3でいい
けれど数とみかんが
どうしていっしょになってしまうのかと

数の世界は数の世界
みかんのある世界はみかんのある世界
そのふたつの世界が
どのように関係しているのか

「数というのは魔法なんです
その魔法をつかって
この世界のみかん一個が1になるのです」
最初に先生から
そういう説明でもあればよかったのだが
そんな説明をしてくれるわけもなかったので
じぶんのなかで数の世界を
この世界にはないけれど
たしかにどこかにある世界の話として
理解してみるようになった

たしかに数は
魔法にほかならないのだ

私たちが道具のようにして使い
ときに困惑もさせられ
またその世界に魅了されもする数だけれど
数の世界とみかんのある世界との関係は
単純なものではない
そこには世界の成り立ちに関わる謎がある

数を即物的な道具として無理やり使って
実用化してしまうことがほとんどだが
数を魔法として教示する考えがあれば
数学は神秘学の門になり得るところが多分にある

しかし少なくとも
数やそのふるまいという
抽象的だけれど実在する世界がたしかにあって
その世界がなんらかのかたちで
このみかんのある世界と関係づけられている
そのことはふまえておいたほうがよさそうだ
数と仲良くともに生きてゆくためにも
そして即物的な数に呑み込まれてしまわないためにも

■ポール・ロックハート(坂井公=監訳 中井川玲子=訳)
 『Arithmetic アリスメティック 数の物語』
 (NEWTON PRESS 2020.10)

「抽象的に、五とは何なのでしょうか? 五個の何? 五個の一と言えるでしょうが、そうなると、数学的に「一」は何を意味するのかを考えなければなりません。現実に関わることから分離すると、単一であるとは正確に何なのでしょうか?
 この問題に関する(私が思うに、学者ぶった狭い視野である)ギリシャや中世思想の長い歴史は無視して、現代数学者が数をどう考えているか、もしくは、少なくとも私が数をどう考えたいかを説明します。
 現代数学の視点は短いフレーズにまとめられ、それは代数学者のモットーとみなせるでしょう。「数とは数のふるまい」です。数が何であるかはあまりたいしたことではなく、数がどのようにふるまうかが大事なのです。数のふるまいこそ、数を定義する特徴であり、暗黙の内容説明に等しいのです。(・・・)
 数学はパターンの学問です。もちろん、ここで意味しているのは抽象的なパターン、つまり数学的現実のパターンです。数や三角形など、数学的構造は多種多様のおもしろい性質をもっていますので、それらにある種の存在物の形を与えないでおくことは、ほぼ不可能です。それらは数学的世界における「生き物」になり、私たちが発見するさまざまなパターンはそれらの生物たちの「観察されたふるまい」なのです。
 こうなると、数は数量というより、実在物のような感じになり、つまり互いに作用し合い、不思議で複雑な算術的ダンスをしている生き物のようです。
 それで2/3という数は、板チョコや一メートルの定規など、何かの数量の三分の二を表しているというよりも、抽象的に「3を掛けたときに2になるもの」と考えられます。想像上の数学的実在物として、行為によって完全に定義されて意味が限定されるわけです。三で掛けて二になる性質のものなら何でも、三分の二であることの具象化といえるでしょう。
 さて、二そのもの、また三そのものとは何であるかと、あなたは問うかもしれません。その二つがすることは何なのかと。現代的見方において、二や三のような整数は単に足し算の結果です。3は2+1の略で、2自体は単に1+1の略。
 では、1とは何でしょう? 確かに、責任転嫁はどこかで止めなくてはなりませんよね? それぞれを、ほかのぞれぞれで定義し続けるわけにはいかないでしょうが、もしかしたら、できるのでしょうか?
 実のところ、これはできるのです。たとえば、ゼロという数はそのふるまいで定義できます。無を表す記号であるとか、レモンがまったくないときのレモンの数であるとかいうのでなく、ゼロという数を、何かの数に足してもその数を変えずにそのままにする、とても特別な性質をもつ実在物と考えられます。
 同じように、1という数も、それを何かの数に掛けてもその数を変えずにそのままにするものと定義できます。ここで私たちはこの二つの数ゼロと一を、たいへん特別な生き物として見ています。現実世界のイメージ(すなわち、小さな集まりのサイズ)で考えるのではなく、演算的に、つまりそれぞれのふるまいやほかの数的実在物との関係から考えます。ゼロを、何も無い数を数える、何もない無であるということとしてではなく、(少なくとも足し算では)何もしないものとして見ているのでうs。
 それでは、足すとは何でしょう? 小石の集まりをまとめていっしょにすることではないのでしょうか? 数のことを、数えることやはかることではなく、抽象的な意味での「ふるまい」と考えるなら、足し算や掛け算のような演算をどう考えるのでしょうか? 数えることなしに、どう足し算がありえるのでしょう?
 再び、現代の考え方では、具体的な現実世界の観念の出どころを忘れて、そのふるまいのパターンに注意を集中させまる。この質問は、足し算とは何かとか、何を意味するかではなく、どのようなパターンをもっているかということになります。」

「ある種の構造があり、それは現実世界の状況から生まれたのかもしれませんが、そうではないかもしれません。いずれにしても、今は純粋に想像上の数学的構造で、私たちはそのパターンや性質を探求したいのです。ある時点で、何かが不愉快にも欠如していることを発見するかもしれません。そして、その構造が何らかの意味で不完全であると感じられ、もっと豊かで充実していたらと願います、そうすれば、美的目標をさらに充足できることでしょう。可能な限り洗練された方法でパターン化した情報をもつために。これは「拡張問題」として知られることです。既存の構造(私たちの場合は、数と演算の問題)を取り上げ、新しい存在物をそれに加えて改良します。願わくば、すでにあるよい性質や対称性を何も失わずに。」

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