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戸谷洋志「連載 メタバース現象考 ここではないどこかへ 9」/加藤直人『メタバース』/バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論』/平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』

☆mediopos3391  2024.2.29

戸谷洋志「メタバース現象考 ここではないどこかへ」
第9回は「分人」という視点をもとに
その批判的考察も含め
物理世界の現実からの解放をうたう
メタバースの問題が検討されている

「私たちはメタバースで別の人生を歩むことができる」と
メタバースは物理的な現実から解放された
「私」の可能性をひらくことができるとうたう

あえて問うまでもないが
たとえメタバースを魅力的に感じたとしても
「メタバースにおけるアバターを操作しているのは、
結局のところ、物理世界における「私」」であって
その「私」が「メタバースにおけるアバターによって
別の人間を演じているだけ」である

たとえば美学者の難波優輝は
メタバースという発想には「逃避の匂い」があり
「逃れがたいこの身体を」「自分であると受け入れ」
「引き受けること」にこそ「独特の美しさ」があるとし
その美的価値を「いき」と表現している

しかしそれに対して
「自己という存在を、確立された個人として
捉えること自体に、疑問を投げかける」立場から

バーチャル美少女ねむは
『メタバース進化論』において
平野啓一郎がかつてメタバースとは別の文脈で
提唱した「分人」という視点を使い
メタバースを「分人主義を体現する場」として
とらえている

平野啓一郎の「分人」という視点は
人間の個性は「関係性のなかで現れる」もので
「「私」のあり方の総体として、
分人の構成比率として現れ」
それが「一つの個性へと収斂していく」のだというが

ねむはその平野の「分人」の視点に欠けている
「分人同士を統合するもの」として
「人間関係から独立に存在する
自己の「イデア」」を示唆する
しかしそこで問題になるのは
その「イデア」なるものがどこにあるのかということだ

戸谷洋志はそうした視点を検討することで
メタバースをめぐる言説は
物理世界が閉塞しているというイメージによって
「両者を意図的に切断する」もので
じっさいのところ
「物理世界とメタバースは連続している」とし

メタバースが「物理世界とはいかに異なるものであり、
だからこそいかに自由であるか」が強調されたとしても
「そこで得られるものの多くは私たちがすでに、
物理世界においても得ることができるもの」であり
「反対に、物理世界において不可能なことのほとんどは、
メタバースにおいてさえもやはり不可能なのだ」という

昨今のメタバース礼讃のような向きに対して
こうした論点を踏まえておくことは重要である

ちなみに「イデア」に関しては
かつてゲーテとシラーのあいだで交わされた
イデアは見えるか見えないかといった議論が思い起こされる
ゲーテはイデアは見えるといい
シラーはあくまでもそれは理念だという

その対比はアリストテレスとプラトンとのそれにも似ている
プラトンは洞窟の比喩によってイデアを示唆し
アリストテレスは実際の現実のなかに
イデアを見出そうとしたのである

先のメタバースに関する「イデア」でいえば
その「イデア」なるものをどこか彼方にあるのではなく
この物理世界において見出すということが重要なのだろう

また「私」(自我)ということに関しては
たしかに平野の「分人」という「ペルソナ」的な視点は
強固な「個人(主義)」からひとを解放するものではあるが
それがどのように「統合」されるのかが不明であり
悪くすれば「統合」できないまま
多重人格的にさえなり得るものである

そうした視点を深めていく際には
どうしてもそこに霊的な観点
あるいは宗教哲学的な観点を検討する必要があるのではないか
それについてここではシュタイナー『霊界の境域』
および井筒俊彦『意識の形而上学』を挙げておいた

視点が飛躍していると受け取られるだろうが
結局のところ「私とはなにか」
そして「世界とはなにか」が問われる際に
行き着くことになるのは
現時点ではこうした視点が不可欠だと思われる

そうした霊的・宗教哲学的視点はともかくとして
「メタバース」というような
「逃避の匂い」のする科学技術のイメージに
過剰に流されてしまわないためには
まずは物理世界における「私」をふまえ
その可能性を柔軟に生きていく必要があるのではないだろうか

■戸谷洋志「連載 メタバース現象考 ここではないどこかへ 9」(群像2024年3月号)
■加藤直人『メタバース さよならアトムの時代』(集英社 2022/4)
■バーチャル美少女ねむ『メタバース進化論
 ――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』(技術評論社 2022/3)
■平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書 2012/9)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)『霊界の境域』(書肆風の薔薇 1985/11)
■井筒俊彦『意識の形而上学————『大乗起信論』の哲学』(中央公論社 1993/3)

*(戸谷洋志「連載メタバース現象考 ここではないどこかへ 9」より)

「しばしば、私たちはメタバースで別の人生を歩むことができる、と語られる。そこでは、物理世界とは違った名前と声と身体を手に入れることができ、物理世界とは別の人間として、存在することができる。それが、メタバースの最大の魅力であると考える声も、少なくない。
 しかし、メタバースにおける「私」が、物理世界における「私」とは違う、ということは何を意味しているのだろうか。メタバースにおけるアバターを操作しているのは、結局のところ、物理世界における「私」である。つまり、そこで起きていることは、単に、物理世界における「私」が、メタバースにおけるアバターによって別の人間を演じているだけなのではないか。
 このような疑念に答えるために、しばしば持ち出されるのが、「分人」という概念である。分人概念は、もともとメタバースとは関係のない文脈で提唱されたものであるが、このテクノロジーが登場したことによって、新たに注目されるようになった。」

・メタバースと「いき」

「日本における大手メタバースプラットフォームであるクラスター株式会社のCEOを務める加藤直人は、メタバースの大きな魅力として、「どうしようもない現実からの解放」を挙げる。」

「こうした解放を積極的な価値として捉える立場は批判されることも少なくない。たとえば美学者の難波優輝は、このような発想には「逃避の匂い」は漂っている、と指摘する。彼によれば、私たちは自分の意のままにならない身体によって生まれてくる。その「逃れがたいこの身体を生きて、私たちはストレスと抑圧に押しつぶされ、挫折を味わい続ける。しかし、そうした経験を積み重ねることによって、「顔に責任を持つ」ことが可能になる。」
 難波は、このように、自分自身で選んだわけでもない自分を、それでも自分であると受け入れること、そうした仕方で自分を引き受けることのうちに、「独特の美しさ、独特の格好良さがある」と指摘する。(・・・)
 難波は、そうした美的な価値を、「いき」と表現する。」

・「個人」から「分人」へ

「難波によるメタバースへの批判はある前提の上で成りたっている。それは、「私」なるものが独立した主体として、いわば単独化した本来的な個人として、物理世界に存在しているということだ。(・・・)
 しかし、メタバースはまさにこの全体に対して揺さぶりをかけるものである、と考える立場もある。たとえば、バーチャル美少女ねむは、そもそも自己という存在を、確立された個人として捉えること自体に、疑問を投げかける。
 ねむによれば、現在の社会では「個人主義」と呼ばれる思想が主流になっている。「個人」とは英語で「Individual」だが、単語の成りたちに溯れば、この言葉は「分割できない」という意味を持っている。つまり、人間をそれ以上分割できない最小の単位として、まさに単独化された主体として捉える思想が、個人主義に外ならないのである。
 一方で、これとは異なる形で人間を捉える思想が、「分人主義」である。
(・・・)
 分人主義とは、人間を単独化された主体として理解するのではなく、他者との関係性によって異なりうる主体として理解する立場である。(・・・)分人主義は作家の平野啓一郎によって提唱された概念であり、ねむも基本的には平野の思想を継承している。
 ねむによれば、メタバースはまさに分人主義を体現する場として機能している。」

「ねむの主張は次のように整理することができるだろう。まず、人間には自己の「イデア」がある。それは「魂」とも言い換えられる。物理世界において、イデアはある特定の側面を投影した「私」として出現する。しかし、メタバースという新たな「スクリーン」によって「私」は物理世界とは異なる側面を出現させることができる。
(・・・)
 こうしたねむの立場に従うなら、難波の批判は成立しなくなるだろう。なぜなら彼は、物理世界における「私」を本来的な主体として特権化しているからだ。しかし、メタバースにおける「私」も、物理世界における「私」とまったく同じ身分で、本来的な主体なのである。こうした理屈によって、彼女の主張は、前述の加藤のそれに代表されるような、メタバースを物理世界からの解放として捉える立場を、擁護することになる。」

・すべて「本物」の「私」

「そもそも、なぜ平野は、個人主義を批判し、分人主義なる考え方を提唱したのだろうか。彼が注目するのは、個人主義が自己のあり方を本来性と非本来性に分割する、ということである。
(・・・)
 この発想は、他者との関係のなかで現れる自分を、「ウソの自分」として切り捨てることを意味する。つまり人間関係をすべて欺瞞的なものに貶めてしまうのだ。しかし、それは事実として正しくない。友達と関わっているときには陽気な「私」が、同僚と関わっているときには冷静沈着になることは、普通に起こりうる。しかし、そのどちらにおいても「私」はなんら自分を偽っていない————そうしたことは、当たり前に成立しうる事態のはずだ。しかし、個人主義はそうした説明を不可能にし、どちらかの自分は偽物である、という判断を下さざるをえなくなる。ここに、個人主義の問題があると、平野は指摘するのである。」

「平野によれば、人間は誰にでも個性がある。しかしその個性は、他者とのいかなる関係性によっても左右されない、独立した不変の性質として存在するのではない。むしろそれは、関係性のなかで現れる「私」のあり方の総体として、分人の構成比率として現れるのだ。したがって、分人はばらばらに分裂しているのではあい。どれほどそれぞれが異なるように見えても、実際には、一つの個性へと収斂していくのである。」

「しかし、果たしてこうした平野の発想は、有効な回答になっているだろうか。
 「私」の個性が、「私」の分人の総体であるとしたら、個性は分人に先行するものではなく、その結果として成立するものになる。つまり、分人に先行して、分人同士を統合するものは、何もないということになる。」

「一方で、ねむの形而上学的な分人主義の解釈は、この問題に一応の回答を示すことができる。(・・・)
 しかし、だからこそ、ねむは別の問題を抱え込む。すなわち、ではその「イデア」とは何なのか、人間関係から独立に存在する自己の「イデア」なるものが、いったいどこに存在するというのか、という問いだ。」

・メタバースにおける偶然性

「筆者はこう考える。メタバースにおいても私たちは偶然性のもたらす不条理に条件づけられている。そして、そのなかに「いき」という美的価値を見見出すことは、可能なのである。」

・「物理世界の閉塞か」という演出

「メタバースにおいてユーザーは分人主義的なアイデンティティを持つ、ということは、事実だろう。しかし、それが、メタバースによってはじめて可能になる、あるいはメタバースによってより促進される、と考えるなら、それは物理世界における分人主義の可能性を過小に評価することを意味する。私たちは、メタバースなどを介さなくても、物理世界において自らを分人的に捉えることができる。物理世界に何枚ものスクリーンを持ち合わせることができる。平野の分人主義に基づくなら、そう考えることもできるはずである。
 ここには、分人主義をめぐる論点だけにとどまらない。メタバースに関する語りの全般に見出される、ある特徴が示されている。
 メタバースの魅力を語る識者の多くは、それが、物理世界とはいかに異なるものであり、だからこそいかに自由であるかを強調する。しかし、そこで得られるものの多くは、私たちがすでに物理世界においても得ることができるものだ。あるいは反対に、物理世界において不可能なことのほとんどは、メタバースにおいてさえもやはり不可能なのだ。指揮者の多くが思っているよりも、物理世界とメタバースは連続している。そうであるにもかかわらず、メタバースをめぐる言説は、両者を意図的に切断するのである。
 それによって物理世界は、実際にそうであるよりも、はるかに絶望的で、閉塞的な場所であるかのように思える。メタバースのイメージは、そうした物理世界の閉塞化によって演出されているのだ。
 ここには一つのニヒリズムが示されている。「物理世界に留まる限り、何も変わらない。しかし、私たちはメタバースによってそこから解放される」。メタバースをめぐる言説はそうした判断を基調としている。しかし、メタバースにおいても変えられないことはあるし、物理世界においても変えていけることはあるはずなのだ。」

*(シュタイナー『霊界の境域』より)

「一、物質的・感覚的世界の中に肉体が存在する。肉体を通して、人間は自らを独立した個体(私)と見なす。肉体の最初の萌芽は宇宙進化の土星紀に形成され、土星状態、太陽状態、月状態、地球状態といふ地球の四重の変容を通して、今日の肉体となった。

 二、四大元素界の中に精妙(エーテル)体が存在する。エーテル体を通して、人間は自分が地球の生命体の一部であることを知る。更に、月、地球。木星といふ三つの惑星状態の一部であることをも知る。エーテル体の最初の萌芽は宇宙進化の太陽紀に形成され、太陽状態、月状態、地球状態といふ地球の三重の変容を通して、今日のエーテル体となった。

 三、霊界の中にアストラル体が存在する。アストラル体を通して、人間は霊界の一員である。アストラル体の中に「第二の自己」が存在する。「第二の自己」は輪廻転生を通して自らを表現する。

 四。超霊的世界の中に「真の自我」が存在する。感覚界、四大元素界、霊界の初体験、感覚、思考、感情、意志の初体験全てが忘却された時、人間は真の自我の中に霊的存在としての自己を見出す。」

*(井筒俊彦『意識の形而上学』より)

「『起信論』によれば、全ての人間の「妄心」の中には、常恒不変の「真如」が「本覚」として内在している。内在するこの「本覚」のエネルギーが、おのずから「無明」すなわち「妄心」に働きかけて、ここに「妄心」の浄化が起こせる。この内から働き出す「真如」の「薫習」作用によって、実存の主体、「妄心」は己れが現に生きている生死流転の苦に気づき、それを厭い、一切の実存的苦を超脱した清浄な境地を求め始める。これが「真如」の先天的浄業の発現であり、具体的には「妄心」浄化への根源的第一歩である。」

「「真如」の内からの働きかけによって、生死の苦を厭い、救いを願い求める気持ちに駆り立てられて強烈な厭求心となった「妄心」が、「真如」に「逆薫習」して、人をますます修行に駆り立て、ついに「無明」が完全に消滅するに至る。」

「「不覚」から「覚」へ。人は「始覚」の道を辿りつつ、「本覚」へと戻っていく、いや戻っていかなければならない、実存意識が実存性の制約を脱却して、ついに絶対清浄なる心の本篇(=「心地」または「心源」)に辿りつくまで。『起信論』のテクストは、この境位を「究竟覚」と呼ぶ。」

「かくて、一切のカルマを棄却し、それ以前の本源的境位に帰りつくためには、人は生あるかぎり、繰り返し繰り返し、「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない。「悟り」はただ一回だけの事件ではないのだ。「不覚」から「覚」へ、「覚」から「不覚」へ、そしてまた新しく「不覚」から「覚」へ・・・・・・。
 「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。
 この実存的円環行程こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。」

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