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高橋 睦郎『歌集 狂はば如何に』

☆mediopos2900  2022.10.26

高橋睦郎は一九三七年生まれの八十四歳
谷川俊太郎は一九三一年生まれの九十歳
この二人からはずいぶんと栄養をもらってきた

とくにここで最近では
塚本邦雄とおなじくらい
高橋睦郎の作品の追っかけをしている

塚本邦雄も高橋睦郎も
谷川俊太郎ほど読みやすいわけではないが
年を経ることで少しばかり言葉の深みに開かれてくると
はじめてその言葉の滋味を味わうことができる

高橋睦郎の歌集も最近になって
古書店で見つけたりもしているが本書は最新歌集
二〇一四年以降の年四六〇余首が纏められている
なんと『歌集 狂はば如何に』である

「狂ふ」といえば
昨今の世の中を見ていると
スーフィーの逸話をよく思い出す

あるとき水の性質が変わり
その水を飲むことで人びとは狂ってしまった
ひとりの男だけが賢者の警告に従って
狂気の水を飲まないで正気でいられたのだが
人びとはその男を狂人だと見なした
それにたえられず男はみんなと同じ水を飲む
すると人びとは男のことを
「狂気から奇跡的に回復した男」と呼んだ

ある意味で
この世で生きることの多くは
人を狂わせる水だらけだが
このスーフィーの逸話をさらに進めてみると
その水を飲んで
みんなと同じようになりながら
別の意味での狂人となって
醒めているということはできないだろうか

じぶんだけが
狂気の世界から離れているということは
それはそれで貴重なことだが
狂気の世界にありながら
なおも醒めていることのほうが難しい

「狂はば如何に」とみずからに問い
世に棲みながら「はざま」を生きる
ひょっとしたらじぶんは
すでに狂人ではないのかと問うこと

シュタイナーは社会論のなかで
じぶんだけが指をしゃぶってきれいでいようとする
そんなありようを批判している
悪とともに生きながら醒めていること
そのことこそが現代を生きるということなのだから

重要なのはその醒め方だろう
自分は狂人ではないのか
「狂はば如何に」
そう問い続けることだ

高橋睦郎のような年齢になっても
みずからに問い続けることができますように

■高橋 睦郎『歌集 狂はば如何に』
 (KADOKAWA 2022/10)

(「狂はば如何に」より)

「日日に見る鏡の中の我はこれまことの我に非ず何者?

この肉軆(からだ)いづちゆか來しそこここの微塵集まり成りし虚器(うつは)か

偶(たまたま)に成りし肉軆に入り棲みし靈魂(たましひ)てふも微塵集成

偶軆に棲まふ偶魂彼もなほ生きてしあれば狂ふことあり

鞭打たるる驚馬の號泣街上に狂を發せりフリドリヒ・ニイチェ

鞭打たるる驚馬やあるいはpoesieの世紀末的假現なりけむ

狂はざる時の諸作にいや勝る深き詩として狂へるニイチェ

ヘルダアリン ニイチェ トラアクル ぬばたまの黑深森が三愛兒(みたりめぐしご)

ゲエテ狂はず『ファウスト』を成しリルケまた狂はず『ドゥイノの悲歌』を遺せる

佛界を捨て魔界にぞ分け入るや狂雲子一休彼ぞ眞詩家(うたびと)

「肉軆は靈魂の獄 狂すとも破獄せよ」然(しか)古き智慧告(の)る

わが靈魂この肉軆に獄せられ七十餘年いまは狂はず

七十餘年狂はず在るは現身(うつそみ)われ贋(にせ)うたびとの證(あかし)ならずや

八十路はた九十路越え百とせの峠路に立ち狂はば如何に」

(講演録「老いを生きる 跋に代へて」より)

「これから「老いを生きる」といふ演題でお話するわけですが、このお集まりの事務局長でいらっしゃる新村先生からご依頼を賜った時點では、正直のところ、もう一つ實感がございませんでした。たしか一昨年、平成二十九年の夏の終はりか秋の初めのことで、當時の私はまだ七十歳代でありました。七十歳代と申しましても、そのどんづまりの七十九歳だったのですが、七十九歳と八十歳とでは當事者にとつて大違ひなのですね。
 古来、六十歳を還暦と言ひならわし、私の少年時代の大人たちは、六十の聲を聞くと、世間の期待どほり身心ともに衰へて見えたものです。(・・・)いまはこれが八十、九十になつてゐるやうで、先日も元東京大學總長有馬朗人先生に、「高橋さん、八十の坂の後に八十五の坂があるんだよ、これを越えるのが大變でね」と言はれたばかりです。」

「現在では洋の東西を問わず、四十歳などでは一人前とは認められない。その意味では男の大厄、つまりどんづまりの厄年も八十歳とすべきではないかと、ここで提案しておきたい。さて私は八十歳を過ぎて衰へを日日實感してゐると申しましたが、それはとりあへず元氣だといふことでもあります。元氣でなくなつたら、衰へを日日實感などと暢氣なことは言つてゐられない。とりあへず元氣であることを、兩親か神様に感謝しなければなりません。」

「かつては落語に登場する横町のご隠居のやうに、老人といふ存在が煙たがられつつも、重寶されてゐました。何かわからないことが生じると、あの年寄りのところに行けばわかるんぢやないかとお伺ひに行つたものです。(・・・)現在はそんなことがめっきり減つたのではないでせうか。老人に聞くよりコンピュータに聞いたはうが早い、といふわけです。
 しかし、コンピュータはコンピュータにすぎず。人から教はることには敵はないのではないでせうか。私たちが若いときに老人のところに行つたのは、いまは若い自分もそのうちかならず老人になるのだといふ思ひが、意識的か無意識的かは別にして、どこかにあつたからではないでせうか。かつて若いとき老人に會つて直接教はつたことだけでなく、見るろもなく見えてゐた老人の立居振舞が、自分が老人になつた現在、ずいぶん役に立ってゐます。その意味では今日の若い人たちには、自分たちがそのうち老人になるといふ想像力が缺けてゐるように思はれてなりません。」

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