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伊藤亜紗「 「うつわ」的利他/ケアの現場から」

☆mediopos-2314  2021.3.18

経済学者ジャック・アタリは
「情けは人のためならず」のように
他人のためにしたことの恩恵が
自分のところにかえってくるという発想で
合理的な利他主義を主張している

さらにそれを押し進めた
効果的利他主義という考えもある

それは身近な人に限られた「共感」による利他ではなく
利他を数値化することで理性的なかたちで
客観的な指標にもとづいて
利他の生産性を向上させるのだという

しかし数によって縛られることで評価される利他は
効率だけを考えた経済活動のように
ほんらいの利他であり得るのだろうか

相手のためになることをしてあげたい
という利他的な思いや行動には
「私の思い」が含まれている
そしてそれは「私の思い」であって
当の「相手の思い」ではないということに
意識的である必要がある

「私の思い」は容易に
相手をコントロールしてしまい
善意がむしろ壁にもなる

必要なのは相手を
「安心」させることではなく
「信頼」することなのだ
「安心」させることは
相手の行動を想定内に置きコントロールすることであり
「信頼」することは
相手の自律性を尊重しゆだねることなのだから

伊藤亜紗は
「利他とは「うつわ」のようなものではないか」という

「押しつけの利他」にならないように
「意味からの自由な」スペースとして
つねに「相手が入り込めるような余白」を持ちながら
それが同時に
「自分が変わる可能性としての余白」として働くような
そんな「うつわ」のような利他

そんな利他の捉え方は
自由の哲学に「他者」の視点を入れたものでもあるだろう
相手の自由や自律性へと開かれることで
それがじぶんのそれをも開くことになるそんな

その「他者」はもちろん
人ことでもあり
人間以外の生物や自然のことでもある

ちなみに「情けは人のためならず」は
自利即利他ということを
現在の生のなかでとらえた視点だが
その「即」を時空を超え
神秘学的にとらえるならば
メビウスの環のようにつながった自と他を
霊性進化させていく視点で
とらえることもできるかもしれない

■伊藤亜紗「第一章 「うつわ」的利他/ケアの現場から」
 (伊藤亜紗 編『「利他」とは何か』(集英社新書 2021.3)所収)

「利他について研究を始めたとき、私は実は利他主義という立場にかなり懐疑的な考えを持っていました。懐疑を通り越して、むしろ「利他ぎらい」といっていいほどでした。(・・・)
 障害のある人と関わるなかで、利他的な精神や行動が、むしろ「壁」になっているような場面に、数多く遭遇してきたからです。「困っている人のために」という周囲の思いが、結果として全然本人のためになっていない。利他は利他的ではないのではないか? そんな敵意のような警戒心を抱くようになっていたのです。」

「(経済学者ジャック・アタリは)地球を救うために必要な利他主義の重要性を強く主張してきました。
 アタリの利他主義の特徴は、その「合理性」です。」
「合理的利他主義の特徴は、「自分にとっての利益」を行為の動機にしているところです。他者に利することが、結果として自分に利することになる。日本にも「情けは人のためならず」ということわざがありますが、他人のためにしたことの恩恵が、めぐりめぐって自分のところにかえってくる、という発想ですね。自分のためになるのだから、アタリの言うように、利他主義は利己主義にとって合理的な戦略なのです。
 こうした考え方は、いうまでもなく、利他主義は利己主義の対義語である、という伝統的な考え方を意図的に転倒させたものです。」

「利益を動機とするという点で合理的利他主義の特徴をさらに押し進めたのが、効果的利他主義です。効果的利他主義の考え方は、日本人の感覚からするとちょっとギョッとしてしまうところもあるのですが、二〇〇〇年代半ばごろから、英語圏を中心とする若者エリート層のあいだでかなりの広がりをみせています。」
「功利的利他主義は、単に功利主義をとなえるにとどまらず、幸福を徹底的に数値化します。」
「実際、アメリカを中心にさまざまな効果的利他主義の団体が立ち上がっていますが、そのウェブサイトを見ると、行われているのは徹底的な「評価と比較」です。」
「効果的利他主義は、なぜここまで数値化にこだわるのか。それは、利他の原理を「共感」にしないためです。」
「共感にもとづいて行動してしまうと、ふだん出会うことのない遠い国の人や、そもそもその存在を意識していない問題にアプローチできないからです。
 もちろん、だからといって、効果的利他主義者も共感そのものを否定するわけではありません。しかし、利他的な行動が共感に支配されないようにすること、共感よりも理性にもとづいて利他を行うことが重要である、と言うのです。」
「共感が否定される背景にあるのは、私たちが現在、地球規模の危機にあるという認識です。」

「なるほどと思う面もあります。
 たとえば、先に指摘した「共感」の問題。
 (・・・)
 しかしながら、同時に違和感も覚えます。
 最大の違和感は、やはり数字へのこだわりです。本当に、数字は利他への道なのでしょうか。(・・・)
 数値化という価値観を問う必要があります。数値化は、長い目でみたときに、私たちの社会を利他的なものにするでしょうか。」
「現状を把握するために数値化は重要な作業です。問題は、活用の仕方を誤ると、数字が目的化し、人がそれに縛られてしまうことです。人が数字に縛られるとき、その行為からは利他が抜け落ちていきます。
 現代は、さまざまな業績が数字で測られる時代になっています。」
「こうしたことが、実はさまざまな場面で起こっているのではないかと思います。」
「私たちはあらゆる労働が数値によって評価される時代を生きています。その指標が本当にその労働を正しく評価しているのかどうかは、分からない。ひとまず数値化しやすいものが数値化され、それを最大化するために働く、という逆転現象が起きています。そうすることによって、「客観的」にみえる指標にもとづいて生産性を判断し、管理することができるようになるからです。」

「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思います。
 冒頭で、私は「利他ぎらい」から研究を出発したとお話しました。なぜそこまで利他に警戒心を抱いていたのかというと、これまでの研究のなかで、他者のために何かよいことをしようとする思いが、しばしば、他者をコントロールし、支配することにつながると感じていたからです。善意が、むしろ壁になるのです。」
「ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼です。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだともいえます。
 社会心理学が専門の山岸俊雄は、信頼と安心はまったく別のものだと論じています。どちらも似た言葉のように思えますが、ある一点において、ふたつはまったく逆のベクトルを向いているのです。
 その一点とは「不確実性」に開かれているか、閉じているか。(・・・)
 安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。
 それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。つまり「社会的不確実性」が存在する。にもかかわらず、それでもなお、相手はひろい行動をとらないだろうと信じること。これが信頼です。
 つまり信頼するとき、人は相手の自律性を尊重し、支配するのではなくゆだねているのです。これがないtろ、ついつい自分の価値観を押しつけてしまい、結果的に相手のためにならない、というすれ違いが起こる。相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なことです。」
「利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。
 重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。
 思いは思い込みです。そう願うことは自由ですが、相手が実際に同じように思っているかどうかはわからない。(・・・)利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。
 つまり、利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。」
「アタリの言う合理的利他主義や、「情けは人のためならず」の発想は、他人に利することがめぐりめぐって自分にかえってくると考える点で、他者の支配につながる危険をはらんでいます。ポイントはおそらく、「めぐりめぐって」というところでしょう。めぐりめぐっていく過程で、私の「思い」が「予測できなさ」に吸収されるならば、むしろそれは他者を支配しないための想像力を用意してくれているようにも思います。」

「利他についてこのように考えていくと、ひとつのイメージがうかびます。それは、利他とは「うつわ」のようなものではないか、ということです。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもあるでしょう。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようです。」
「特定の目的や必要があらかじめ決められているケアが「押しつけの利他」でしかないように、条件にあったものしか「享け」ないものは、うつわではない。「いる」が肯定されるためには、その条件から外れるものを否定しない、意味からの自由な余白が、スペースが必要です。
 こうした余白、スペースは、とくに複数の人の「いる」、つまり「ともにいる」を叶える場面で、重要な意味を持つでしょう。」

「ここまで「利他」という問題について、さまざまな論者の考え方や具体的な事例に即して考えてきました。」そのなかで、利他とは、「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである、と同時に自分が変わることである、というポイントが見えてきました。そして、そのためいは、こちからか善意を押しつけるのではなく、むしろうつわのように「余白」を持つことが必要である、こともわかってきました。
 最期に確認しておきたいのは、利他というときの「他」は人間に限られるべきではない、ということです。人間の経済活動の結果起こった環境破壊が深刻になっているいま、私たちは、人間以外の生物や自然そのもにに対するケアのことを考えなくてはなりません。」

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