藤田一照 『現代「只管打坐」講義』
☆mediopos-2249 2021.1.12
「仏に逢うては仏を殺し、
祖に逢うては祖を殺す」
という言葉で使われている
仏や祖はほんらいの仏や祖ではない
それは
釈迦は仏教徒ではなく
キリストはキリスト教徒ではなく
道元は曹洞宗僧侶ではないにもかかわらず
その違いに無頓着である錯誤への
警策であり鉄槌のようなものだ
その違いのように
そういうものだとして教えられる「仏教」と
自分の問題と真摯に取り組む<仏教>とは同じではない
宗教的なものにかぎらずすべてのことにおいて
そういうものだと教えられる「○○」と
みずからの真摯な問いによって生きられる<○○>とは
区別してとらえたほうがいい
「わたし」と<わたし>も混同されてはならない
与えられた役割や目的にむかうのは「わたし」だが
いわば「自由」において生きられているのは<わたし>である
だから人は「○○」は知識として教えられるが
<○○>は教えられるようなものではない
そしてそれを学ぶことは
既存の知識から得られるものでもない
「仏に逢うては仏を殺し、
祖に逢うては祖を殺す」
というときの仏や祖は
「仏」であり「祖」であって
<仏>でも<祖>でもないのだ
「仏」や「祖」にとらわれてはならない
さらにいえば自己についても
「自己」と<自己>は区別されねばならないだろう
道元の『正法眼蔵』の有名な言葉
「自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」
のように
<自己>をならうためには
「自己」をわすれなければならない
「自己」は「吾我」の立場で
learnしdoingしthinkingすることを事とするが
<自己>はunlearnしnon-doingしlisteningするしかない
どこかにむかってlearnしdoingしthinkingするとき
「只管打坐」は成立しえない
あらゆる「〜のため」が放棄され
unlearnしnon-doingしlisteningする<自己>であること
それそのものが「只管打坐」であるといえるのだろう
そして「禅者」でない私のような者にとっては
「只管打坐」は坐禅の姿をさえ意味しない
「自分の世界と自分の生を自分の仕方で理解」しようとする
その認識・存在様態を「只管打坐」の如き自由と呼んでみたい
■藤田一照
『現代「只管打坐」講義/そこに至る坐禅ではなく、そこから始める坐禅』
(佼成出版社 2020.12)
(「42「坐禅」をunlearnする<坐禅>」より)
「アメリカに住んでいる時、The Buddha was not a Buddhist(釈尊は「仏教徒」ではなかった、の意)というセリフをしばしば耳にした。それは確かにそうだ。釈尊は出来合の「仏教」を信奉したのではなく、自分にとことん考え抜いてみたい問題があってそれを自分の仕方で深く理解しようとしただけだ(それと同じ意味で、イエスは「キリスト教徒」ではなかったし、道元禅師も「曹洞宗僧侶」ではなかったはずだ)。それをみんなに理解してもらえるような議論として整えたら、それが後で仏教と呼ばれるようになっただけのことだ。釈尊にとっての仏教はそれ以外の人にとっての仏教とは、その意味で同じではない。「自分が自分の世界と自分の生を自分の仕方で理解することができたなら、それだけでいいのだ。むしろ、それだけであるほうがほんとうなのだ」(永井均)。そして、そういう自分の問題と真摯に取り組む努力が「仏教する」ということだ。ここで仮に、信じるべき、あるいは学ぶべき対象として、自分の向こう側にある、既製品的で他人行儀な仏教を「仏教」と表記し、その人が素朴に素手で「仏教する」ところにのみ立ち現れる自分だけの仏教を<仏教>と表記して区別してみよう。つまり、仏教には「仏教」と<仏教>という二つのものがあるということだ。これは永井さんの「すべてはただ、それぞれの人に考え抜いてみたい問題があるかどうか、に尽きる。もしあるなら、それを考えればいいし、考えるべきだ。いま、それを<哲学>と呼ぶとすれば、それは世の中で認められている「哲学」の概念と一致するかどうかなんて、ぜんぜんどうでもいいことであるはずだ」(『<子ども>のための哲学』)という主張に学んだものだ。この「仏教」と<仏教>の区別はとても重要なことのようにわたしには思える。釈尊にとって仏教は<仏教>だった。では、仏教徒にとって仏教は「仏教」でなければならないのだろうか? そういう傾向にプロテスト(抗議する、異議申したてをする)したのが禅ではなかったろうか。「殺仏殺祖」「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」というひどく物騒な表現が言おうとしたのは、仏教を「仏教」にしてはならない、それはあくまでも<仏教>でなければならないということだったはずだ。道元禅師の「仏道をならふといふは、自己をならふなり」もまたその文脈で理解できるだろう。
この「○○」と<○○>の区別はもっと一般化することができるのではなかろうか。たとえば「感謝」と<感謝>の区別をしてみてはどうだろうか。われわれはよく、感謝というのは、何かに対してそれをありがたいと思う気持ちだという説明を受けて、「〜に感謝しなければならない」と教える。しかし、そのままでは感謝と言ってもそれは他律的に外から押し付けられたものにとどまっている。(・・・)あるいは「人生」と<人生>という区別をしてみるのも面白いかもしれない。「人生」はたとえばその社会で標準とされているような男らしさ、女らしさを体現すべく、与えられた役割をこなす感じで生きられている誰かにしつらえられた人生、何かある目標のために努力する人生。一方、<人生>はその人自身の内なる促しに従って、それに正直に生きられている、その人にしかできない人生、その時やっていることの他にどんな目的も意味も求める必要がないような人生、と言えるだろうか。「自分」と<自分>という区別も同じように考えてみることができる。」
「「○○」と<○○>の区別ということで思いうかぶのは、哲学者の鶴見俊輔さんがエッセイのなかで書いていた“unlearn”という英語の動詞だ。(・・・)
「大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それを学びほぐしたものが血となり肉となる unlearn の必要性はもっと考えられてよい」という示唆に富む言葉を残している。」
「坐禅にしても、禅にしても(ここで禅というのは坐禅の背景になってる哲学のことを言う)しばしば難しいと言われるが、それはその人が<坐禅>や<禅>であるべきものを「坐禅」や「禅」にしているからではないか。つまり自分のではない、「他人の」坐禅を坐ろうとし、「他人の」禅を知ろうとしているからだ。他人のやり方を真似るのではなく、今の自分はそれをどんなふうにやりたがっているのかに耳を澄まさなければならない。それには勇気というか、他人の考え方や期待という鋳型に合うように自分を作り上げるのではなく、本当の自分でいようという決意が必要になる。」
(「47 non-doingの修行としての坐禅」より)
「「不為」は英語で言えば non-diong ということになろうか。その逆は「為」で doing だろう。考えてみれば、われわれは生まれたから成長するアイデに、家庭、学校や職場、さらには世間一般において doing というモードで生きることをずっと叩きこまれる。「そんなところでボーッと坐ってないで、さっさと何かやりなさい! ほかの人をみてごらん、置いていかれるよ」というメッセージを陰に陽に絶え間なく浴びせられて、尻を叩かれている。努力、意志力、課題の遂行能力、達成度、能率性、コントロール力、・・・・・・といった doing の世界の価値観ばかりがとりだけられ、それが高く評価される世界の中で生きていかなければならない。そこには、 doing のモードが生み出す問題の深刻さを省みるような余裕も発想もない。今、世界を動かしている科学やテクノロジーはまさにこの doing の産物だ。」
「この慣れ親しんだ doing (=時間&緊張&吾我)の世界を転換するのが non-diong である坐禅だということになる。そこには doing が脱落しているから、当然、時間、緊張、吾我もまた一緒に脱落している。過去→現在→未来と横に流れる水平的時間ではなく、道元禅師が「而今(にこん)」と呼ぶ「絶対の現在」という垂直的時間が現成する。未来のための準備や何かを待つための今ではなく、どの時も現在が現在に深まっていく「永遠の今」として深く豊かに生きられている。今起きていること以外の何ものも一切追求することがないから、そこには緊張ではなく、リラックス、くつろぎがある。」
「doing の坐禅では、吾我が未だ無い何かをとらえようと身構え、緊張しているが、 non-diong (不為)の坐禅では今有るものに自己がとらえられている(「万法すすみて自己を修証する」)。そして自己はそこに安らっている(「現在安住」)。われわれは学ぶというのはよく考えることだと学校で教わっているが、実はわれわれが考えることはいつも吾我で汚染されている。言い換えれば、吾我の立場で常に現実を取捨し処理し、脚色し歪曲してとらえているのだ。 doing と thinking もまた表裏一体のものなのだ。ということはdoing の坐禅では必然的に thinking が優勢にならざるを得ない。それは学ぶという営みにふさわしい状態ではないのだ。一方、 non-diong の坐禅は現実に一切の注文をつけないで、ただ起きてくることをそのままに受信している。だから、思考する必要がない、硬い thinking が脱落して柔らかな傾聴 listening が起きている。それこそが本当の学びが実現する環境なのではないだろうか。坐禅が身心学道(身心=生きていることを学ぶ道)であるというおは、それが non-diong であってこそ可能になるのである。」
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