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やりたい事を勇気を持ってやる為の人生メソッド

何事も覚悟の中に自由や楽しさが生まれるものだと感じている。

『やりたい事をやろう。それが人生で一番楽しい。』

そうは言うけど、どのように?
このように感じる人は多く居ると思う。

ところが、すぐに行動ができて、何事もできる癖に、やりたい事をやらない人の気持ちはわたしは全く理解ができない。

できない理由や、できない状況があれば、それは話は別。
だが、どちらにせよ一歩踏み出す勇気の問題だとは思うが、やりたい事をやらない人や、やりたい事があってもできない人にはそれ相応に理由があってできないし、やっていないのだ。

だから、そうした人達には自分の気持ちは全く理解はされないと思って居る。
お互いに状況が違うから、理解ができないのは当然の事である。

やりたい事をやれば楽しいのだが、そこに至る迄の中間部分、つまりは過程の部分を文面化させた方がもしかしたら一人でも気持ちが楽になればなと思って今書いて居る。

少しでも参考になったら嬉しいが、参考にしなくてもそれぞれの人生なので結構である。

さて、まず行動をせずして何か手に入れる事ができるかと言えば、それは恐らくゼロに近い。
待ちの状態で、誰かから与えられる事は無いのだ。
待っていても誰かが助けてくれる事も無い。
結局流されるまま生きていてもそこに理想の形は訪れないのだ。

でも、外的要因で精神と身体が離れて病気になってしまった人が居れば、この言葉は地獄でしかないだろう。
やりたい事が見つからないには、それなりに理由があるのかもしれない。
その時はまず治療をして、身体と心を元に戻す方が良いだろう。
無理をする事は無い。
頑張って来た人や、頑張りすぎた人が限界突破をしたのだ。
それだけ自分を犠牲にできる優しい人だろうし、その頑張りすぎた挙句に「頑張れ」と、また言うようなものである。

なので、重圧に感じるようであれば、この記事は閉じてもらって構わない。

この記事は、どちらかと言えば『甘えで生きている人』に向けて記載をしている。
ところがどっこい、甘えて生きている人には、この言葉は届く事は無い。
他人任せの他力本願な人に、どうこう言っても伝わる事は無いのだ。

だから、ほんの数%の人に刺されば嬉しいのだ。
そもそもの事で、こうした記事に対して評価は不要なのだ。
変わった時はきっかけに過ぎないからだ。
大半の大きな力の作用が働いて良い方向に動き出した時、その力のほとんどは自分の力である事を忘れてはならない。

何事も誰のせいでも無く、自分で蒔いた種は、自分で刈り取るものである。
これは持論と言うか経験則でしかないのだが、自己肯定感が低くなると、それだけやりたい事が見つからなくなってしまう傾向にある。

この自己肯定感の低さは後天性だとしか自分は思えない。
子供の頃に、自己肯定感が低い人間って果たして居るだろうか?

外的要因があるからこそ、その積み重ねで自信を失っていく気がしてならないのだ。
これが続けば、やりたい事が見つからないと言うよりも、やりたい事をやると批判されたり否定されたりすると思うかもしれない。
被害妄想が強くなるからこそ、やらない方が良いと思ってしまうと感じるのだ。

例えば、親からの躾(しつけ)や、虐待。学校や会社でのイジメ。
DVやハラスメントによる、他人に対する洗脳行為も同じだ。

自我を失えば、勿論何をして良いかも分からないとか、やりたい事が見つからない気持ちが非常に納得行くのだ。

専門家では無いので、細かい事は分からないし正解かどうかは分からない。
少なくとも、自分もそうであったからこそである。
培った経験・体験により出来上がる後天的な人間形成の部分で、やりたくない感情や一歩踏み出す勇気が沸かない気がするのだ。

面倒くさいで終わってしまうとか、やりたいことはあるけど、なかなか一歩踏み出す覚悟が決まらないとかあるかもしれない。
とは言っても今の生き方や、働き方や環境を突然変える事は簡単な事では無い。
そして、実際に変えたいと思っていてもどのように変えたら良いのかそれこそ分からないと思うのだ。

その答えは一つ。

『覚悟』


この覚悟の部分に正解の形があると、思って居るのだ。
良くも悪くも正解も不正解も無いからこそ、ふんわりした問題だし、自分で考えて結論付けないとならない問題だからとても難しいところだと思う。

しかも、先程話をした、後天性の外的要因があった場合は、更にこの生きる覚悟を持つには難しいかもしれないのだ。
もしも、毎日怒られる生活をしているとする。

恐らく人の目を気にしたり、目を合わせれずに逸らしてしまったり、人前でうまく話ができないとかとにかく生活する上で厄介な事も多くなるかもしれない。
そして、怒られないように努力をすると思うのだ。

怒られないようにするにはどうするかを考えて行動をし出す。
そうする事によって、どんどん自分がやろうとする事は、不正解だと思うかもしれない。
その上で、自発的に何もせずにロボットのように操作されて動く事が正解だと勘違いしてしまう状態・状況へとなってしまうのだ。

こうなると非常に危険と言うか、もう自我が無いので見失っている状態である。
ただ、本人が悪い訳では無いし、そこは抗えない部分だろう。

なんとも言えないところだが、まずはその場所を抜け出す一歩の勇気を踏み出す事が大切かもしれない。
一挙手一投足、何をするにも誰かがどこかで見ているだろうし、支えてくれたり助けてくれる世界だと思って居る。

ここで思う事は、『「やりたいことをやる」とは技術である思考を持つ』事が大事だと言う記事を発見した。
まさにその通りだと思ったのだ。

やりたい事をやったり、やりたい事ができている状況は別に当たり前な事では無い。

やりたい事をやる事は技術が必要だし、後天的外的要因に対する正解の形かと思うのだ。
勿論、進むタイミングは自身が決めるべくものだ。

そして、やりたい事を見つけたり、やりたい事をやる為の勇気の一歩は自分と向き合う事が大切だと思うのだ。
やりたい事が見つからない時は、結局外にエネルギーを発しているだけで、内側の自分自身に向けている訳では無いと思うのだ。

エネルギーをどこに向けるのかで変わるのだなと感じた。

このように消去法で考えてみるのも良いかもしれない。

努力をする事が美学と言う文化だった日本だが、本質の『努力とはなんぞや』の部分に対しては何も向き合おうとはしないのだ。
これこそが、間違えた方向に努力をしてしまう原因だと思うのだ。

ただ、一つ言いたい事がある。

やりたい事が見つからなかったり、やりたい事がやろうともできない状態が悪い訳では無い。

だって、それはしょうがない事だろうし、本人次第と突き放してしまえばそこまでだが、実際にそうなのだ。
しかし、それが別に不正解では無くて、本人にとって心地が良いのであれば正解になってしまうからとやかく他人が言う事では無い。

ただ、行動をしてる人を見て、羨ましいなと1ミリでも感じたのであればそれは変化をする為の成長のチャンスかもしれないと思うのだ。

もしも生き方に正解があれば、胸を張って『これが自分の人生だし、幸せだ!』と、言えるかもしれないが、実際そうは行かないのが現実である。

どの記事を調べても同じような事ばかり書いてある。
でも、やりたい事ができていない人は『そんな事は分かってる』と、思うのではないだろうか?

恐らく生きる上でやらなければならない事がある。
これを後回しにすればするだけ、シワ寄せは自分に必ず還元されて来る。

『生きる為の覚悟』

恐らくこの覚悟が大切なのだと思う。
覚悟を決めて、自分の生き方を決めた瞬間、一気に人生が加速すると思うのだ。
状況を変える為の勇気ある一歩を踏み出す上で覚悟を決めなければ、新たに踏み出す事はできないだろう。
ただ、ここで覚悟を決めた人間は強くなれる事は間違いない。

『いつやるか?今でしょう。』

んな事ぁ分かってんだってなるだろうし、投げやりになって諦めてしまう事だらけかもしれない。
後悔をしないようにするには、失敗を受け入れて恐れる必要は無いと思うのだ。
『失敗は成功する為の方法を見つけた』
と、よく言うこの言葉通りだと感じるのだ。
もしかしたら、行動をしている人が成功者で、正解の人だと感じるかもしれないが、そうでは無い。
多くの失敗の上で成立しているものなのだ。

しかし、それでも自分の中で納得する迄やり続けて居るのは、失敗を失敗とも思っていないからだ。
失敗をする事を怖いともなんとも思って居ないのだ。
それだけ自分と向き合い、そして多くの打席に立っているのだ。
打席に立てば立つだけ失敗が多くなる事は当然だし、失敗を恐れるだけ時間の無駄にもなるのだ。

カッコ付けたい・褒められたい・認められたいと、感じる事はあると思う。
だからと言って、怒られたらどうしようとか、失敗したらどうしようと、怖気づいてしまうような、恐怖心を持つ事は話が別なのだ。
まずは覚悟を決め、そして失敗と言う概念が存在しないと考える事が良いとは思う。

そして、とにもかくにもやる気があるがやりたい事が見つからない場合、それは単純に理想が高いからかもしれない。
プライドが邪魔をして、完璧でなければならない人も中には居る。
行動力があろうとも、失敗をしたくない部分で言えば同じかもしれない。
それが積み重なって、やりたい事が見つからないとなってしまうのだ。

ここで確実に言える事がある。

やりたい事見つからないなら見つかるまで思い付いた事をとことん自分の為にやると良い。

周りから見たら無意味に見えたり否定されても、自分を信じてればいつかひっくり返る日が必ず来る◎

でも、やりたい事を誰かの為にやった時、そこでやっとエゴが無くなって、その時に初めて自分がやってる事が他人から評価されるんだろう。

何もやらない事も選択肢だけど、残念ながらその選択肢の中に充実感を得れるものは無いと言い切っても良い位だ。
面倒な事をやらずに好きな事だけやって生きるってのは多分不正解と言うか、避ければ避けただけ後でシワ寄せが来るだけだと思う。

でも、やりたくない事を我慢してやり続けるのはまた話が違くて、面倒な事と嫌な事をごちゃ混ぜにするといよいよやりたい事が見つからずにやらない事を選択してしまうのだろう。

好きな事をやる事は好き放題やるのでは無くて、準備もあったり面倒な事しか無い。

だから、大体『やりたいと思ってる』で、終わってしまう。
もしくは何もやらない手段を選ぶ。
何もしなくても便利な時代だから生きれるには生きれるが充実してるかは話が別だ。

そして、心の豊かさはきっと『面倒な事』の中から生まれた『きっかけの存在』が育った時に実感できるものなのだろう。

嫌よ嫌よも好きのうち。

嫌な事を無理して我慢してやる必要は無くても、面倒な事からこなすと案外良い事が還元されて来たりするものだ。

そして、面倒な事をするのは、無駄を省く事にも繋がる。
つまりは断捨離に近いと思うのだ。
断捨離は物を捨てる事や掃除や洗濯をするとかでは無く、心の余裕を増やす為の作業である。
て事は、心の余裕を開けるのであれば、今あるものを省いて行かなければならない。
ヒト・コト・モノの3つを省く事は、既に行動を起こしている事にもなる。

環境を変える事は運気を変化させる上で一番手っ取り早いとも言われている。

『思考が変われば言葉が変わり、言葉が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば運命が変わる。』

よくある有名な言葉でもあるが、結構シンプルなはずなのにうまい事できないものである。
しかし、実際に自分自身で変化させる他に何も変わらないし、他人に擦り付けても別に変化は無い。
逆算をしてどんな結果が良いかを予想立てても良いかもしれない。
予想を立ててその通りに行かなくても、別にストレートに一直線なだけでは無いので、曲がりくねった道だろうといばらの道だろうとも関係のないはずだ。

人生は川の流れの如しである。
てか、美空ひばりってえげつない歌のうまさだなと今シンプルに聞きながら思った。

考えてみれば難しい事ばかりだろうし、何事もできなくて当然な世界で生きている。
そんな世界線で生きているからこそ、失敗しても良いからやるしかないのかなと最近は思う。

とは言え、それは好きな事に対してである。
普段嫌々やるものとかそう言うものに対して言っている訳では無く、自分が人生を賭けて何をするかの部分だと思う。
それが、仕事だろうと、主婦業だろうと、全部に対して人間それぞれに違うと思うのだ。
一生懸命になれる事は本当に大切かなと感じるのだ。
一生懸命になって集中すればするほど、周りの雑音なんて聞こえなくなる。

自分のやりたい事をやりたいだけ詰め込めば、それで人生は大きく変わると思うのだ。
自分の為にやるでも良いし、その自分の為がいつか他人の為になれば良い。

結局は自己の承認欲求があるからこそ、発信をするものだ。
それでいて、自己憐憫を手放していけば、当然今度は下にある心と書いて下心が、上に行き、真ん中になる事で真心となる。

その時に初めて、自分がやって居る事が他人から評価されるのだと思う。
その時にはきっと周りの為に自分のやりたい事をやれているはずだ。
他者からの評価は大した事では無いが、その分母が大きくなれば、大した事が無いと周りをおざなりにはできないだろう。

結局は人間は一人では生きる事はできないからこそ、支え合う心が無いと孤独になるだけである。
孤独であれば、好きな事をやっても別にまた退屈するだけである。

だからこそ、自分の力を過信せず、一つ一つ着実に積み重ねて生きるのが良いのだろう。

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