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辻仁成さんの日記を読み続けた女の日記 〜セーヌ川オンラインクルーズツアー&ライブ感想〜

 数年前、韓国で初めて子どもを出産し、毎日家から一歩も出られない日が続いていた頃、ふと映画『冷静と情熱のあいだ』を思い出し、授乳の合間に見返したことがあった。

 その夜、原作者の一人である辻仁成さんの名を何気検索したところ、辻さんが毎日フランスのパリから「滞仏日記」を発信していることを知った。その日更新された日記のタイトルは「冷静と情熱のあいだから20年」。作品に登場するドゥオーモ(大聖堂)に登ってみようと思い立ち、約20年ぶりにイタリアのフィレンツェを訪れた、と綴られているではないか…!なんという偶然。

 私はその日から一日も欠かさず、辻さんの日記を読むようになった。日記を読み続けた先に何が待っているかはわからないが、「偶然は必然」という言葉が、どうにも頭から離れなかった。

 彼は海外で暮らすシングルファザーとして、家事や子育てをしながら、日記や小説、エッセイを書き、映画製作の準備をし、ライブのための体力作りや発声練習も欠かさない日々を送っていた。「この人は同じ人間なのかな?」と思うくらい、自分の人生を120%生ききっているように見えた。

 その一方で、ある日の日記には、起き上がれないほど鬱々としている様子が書かれていたり、家族や仕事仲間との間で問題が生じ、悩んでいる胸の内を吐露したりすることもあった。辻さんには申し訳ないが、そんな日記を読むと、私はちょっとほっとした。「ああ、私だけじゃないんだな」と。そして、辻さんが自らを慰めたり励ましたりするために綴った言葉の数々に、読者である私自身、何度も救われたのだった。

 自分の弱さや苦悩を言葉にし、話したり書いたりすることは、多くの人にとって簡単ではないと思う。でも彼はそれを毎日続け、読む人にも勇気や元気を与える域に昇華しているのだ。これはもう単なる日記ではなく、立派な作品じゃないか。

 これが無料でいいのだろうか?作家に何らかの形で感謝の気持ちを還元する方法はないだろうか?私はいつしか、そんなことを考えるようになっていた。

 それからというもの、これまでの著作を日本から何冊も取り寄せたり、辻さんが主宰するWEBサイト「design stories」で不定期開催されているオンライン講座「地球カレッジ」に参加して、家庭で作れる最強フレンチを教わったり、俵万智さんや江國香織さんと辻さんとの対談を聞かせてもらったりしてきた。

 また、つい先日は辻仁成(つじ・じんせい)として音楽活動を続ける辻さんの「辻仁成 セーヌ川ひとり占め ~セーヌ川オンラインクルーズツアー&ライブ~」(6月6日21時まで、アーカイブ映像の視聴ができるチケット販売中)にも参加した。

 そもそもこのライブは、2019年10月に辻さんの60歳を記念して東京で開かれるはずだったそうだが、台風で延期になり、翌年5月、コロナの影響でまた延期に。最終的には開催中止となっていたのだった。

 そんな苦難の時を経て、満を持して開催されることになったセーヌ川でのオンラインクルーズツアー&ライブ。辻さんの曲は「ZOO」しか知らなかったけれど、いつも日記を読ませてもらっていることへの恩返しの意味を込めて、そして、新婚旅行の時に乗りそびれたセーヌ川のクルーズ船からパリの景色を見てみたく、チケットを申し込んだ。

 当日、韓国や日本は夜19時。パリは昼の12時だったのだろうか。セーヌ川の上には素晴らしい青空が広がっていた。オンラインライブの画面横にはチャット欄が設けられていて、日本、韓国、フランス、アメリカなど世界各国の視聴者が次々と書き込みをしていた。

 いくつもの橋をくぐり抜ける際は、画像が止まったり、音声がしばし途絶えたりしたものの、そのたびにチャット欄ではスタッフを応援する言葉が飛び交った。観客同士が「気長に待とう」と励ましあったりする姿も見られた。同じ会場にいるわけではないのに、画面を通して世界中の観客とつながっている感じがしたのは、とても不思議な体験だった。

 ライブの途中には、セーヌ川沿いの至るところから「辻さん、頑張って!」と声援を送る在仏日本人のみなさんの姿も見られた。中には橋の上からバラを一輪捧げる人、日の丸を持って駆けつけていた人もいた。パリにもたくさん日本の方が住んでいるらしい。

 オフラインのライブだったら決して知ることができなかった人々の姿に触れながら、音楽と景色、そしてこのたびフランス観光親善大使に任命された辻さんのガイドを楽しませてもらった2時間半。ライブ後半、チャット欄に「韓国在住です。チケットを買って良かった」と書き込んでいる人がいて、「私も同じ気持ちです!」と伝えたくなった。

 演奏を終えた辻さんとバンドメンバーがワインで乾杯するのを見て、数年前にお酒を辞めてしまったことをひどく後悔したこの夜。鑑賞のお供は炭酸水と、マートで買ったお寿司だった。「せめて雰囲気だけでも」と炭酸水はフランス産のペリエ。お寿司はフランスでも人気だというサーモンをチョイス…したのは、韓国人の夫だった。

 彼は昔、6年間フランスに住んでいた。大切な家族もあちらにいる。私が辻さんの日記を毎日読むようになったもう1つの理由は、夫の家族が暮らす国について、少しずつ知っていきたいと思ったからでもある。

 辻さんの日記によると、多くの人にクルーズ船上からオンラインライブだなんて無理だと反対されたそうだが、不可能を見事可能にしてしまった辻さんとスタッフのみなさん。ただの観客の一人に過ぎなかった私も、このライブを見届けた後、なんだかとても誇らしい気持ちになった。

 こんな大仕事をやってのけたら、私のような人間は、一週間くらい自分を甘やかしてぐーたらしてしまいそうだけれど、辻さんは違う。またいつもと変わらず台所に立ち、自分や息子さんのために料理をし、2回目のコロナワクチン接種も終え、日記を書き、新たな小説執筆にも取り組み始めている。

 どこにいても、誰といても、ゆるがない自分の日常があり、毎日同じことを繰り返すということが新しい何かを生み出す原動力になるのかなと、辻さんを見ていると思う。

 逆に言うと、新しい何かに取り組むためには、「食べる」「寝る」「運動する」「仕事する」という変わらぬ毎日の積み重ねが必要なのかもしれない。

 フランスと韓国は言語も文化も何もかも違うため、同じ「海外在住者」と言ってもずいぶん異なることが多いと思うけれど、日本ではない国で日本語以外の言語を使い、毎日自分にできる仕事をしながら、台所に立って料理を作り(いつもすごくおいしそう!)、掃除洗濯をし、子どもを育てているというところは一緒だ。

 還暦を超えた著名な作家と自分を「一緒だ」と考えるのは失礼かもしれないが、日記を読むたびに「辻さんだって頑張ってるんだから」と励まされる思いがするし、韓国移住後の数年間、とにかく現状維持に努めることで精一杯だった私にとって、遠いフランスに住む日本の作家が発信する日記から学ぶことは、日々計り知れない。

 先日のライブでは「アカシア」という曲にとても心を打たれた。歌詞にというより、アカシアの曲調とバンド全体の雰囲気が、パリの景色とひとつに溶け込んでいたのだ。それはまるで、コンサートホールで舞台と観客が一体となった時と同じ感覚だった。

 生きていて良かったなと思った。「人生には音楽が必要だ」と感じた瞬間でもあった。

 ライブの後、心境の変化があり、私はきのうからランニングを始めた。息子を保育園に送った後、公園で1.5kmゆっくりと走ってみたのだ。過去にもランニングを始めようとしたことがあったが、すぐ挫折した。でも今度は続けられる気がしている。

 雨だった今日は人生で初めて、ランニング用のスポーツウェアと帽子を買った。運動嫌いの私に「走りたい」と思う日が来るなんて。なんだか夢を見ているようだけれど、この変化が、今はただ嬉しい。

 数年前のあの日、ふと思い出した『冷静と情熱のあいだ』を見返していなかったら。辻仁成さんの滞仏日記を読み始めていなかったら。今回のオンラインクルーズツアー&ライブを鑑賞していなかったら。私は一生ランニングをしようなんて思っていなかったかもしれない。

 自分の中に浮かんだ、ふとした思いや気づきを無視せず、大切にすることで、想像もしていなかった出会いや変化に恵まれることって本当にある。偶然はやっぱり、必然なのだ。

 辻さんの日記を読み続けることで、私はこの先一体どこにたどり着くのか。今はただ、それが楽しみでならない。

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