ひとりぼっちになった夜、先ゆくマダムたちの物語に触れて。

 きのう、出産後初めて息子が隣にいない夜を過ごした。正確にいうと、産後調理院から自宅に戻って以来3年数か月ぶりに、私は一人きりで夜を明かすことになった。

 相方が急なおもいつきで荷物をまとめ、息子を連れて家を出たのは土曜の15時頃だった。車で2時間以上かかる義両親の家まで行き、1泊してくるのだという。表向きは息子の看病続きで疲れ果て、体調が良くない私を休ませるため。でも本当は、相方が家の中でずっと子どもの面倒を見るのに限界を感じたのだと思う。旧正月の連休も息子が熱を出し、私たちは5日間、ほぼ引きこもりの生活をしていたから。

 これまでずっと、相方が息子と一晩出かけてくれたらどんなにいいだろうと、何度も思ってきたはずなのに、急に一人になると何をすればいいかわからなかった。会いたかった人に会いに行ったり、美術館や映画館に繰り出したり、コロナ禍でなければ、すぐそうしていただろう。私はとりあえず、あちこちに散らばったおもちゃを片付け、空気を入れ替え、茶碗を洗い、床をふいた。さっと身支度をして、車に乗り込みエンジンをかける。韓国で運転し始めて、もう1か月が過ぎていた。

 同じ保育園のママ友たち(と言ってもカカオの団体トークで時々やりとりするだけの間柄だが)から、「マート内の薬局に、簡易検査キットがたくさん入荷してましたよ」という情報を午前中にもらっていたため、近所の大型マートまで車を走らせることにした。

 2月3日、旧正月の連休が終わった木曜日の朝。保育園から急に連絡があり、「来週月曜日に、送迎を担当する保護者1名がコロナ陰性であると証明できるものを提出してください」と言われていた。連絡を受けた直後、近隣の薬局に電話すると、検査キットはどこも売り切れ。入荷の予定もいつになるかわからないと言う。ネット上で探してみると、値段が跳ね上がった検査キットがあるにはあったものの、家に届くまで一週間以上かかるようだった。

 マートの薬局では、レジ横に検査キットが山積みになっていた。2回分で16,000W(約1,600円)。今月はこれで何とかなりそうだが、3月からは毎月5日に陰性結果を提出するように言われている。月に一回の提出だなんて、そんなの意味があるんだろうか?きっと、多くの人がそう思いながらも検査キットを買いに走るのは、それが手に入らなければ保健所や病院まで行って検査を受けなければならないからだ。陰性の証がなければ、月曜から子どもが保育園に通えなくなるかもという、そんな不安もあった。

 連日零下が続く中、外で長時間遊ぶわけにはいかず、だからと言って元気があり余る子どもたちと家でおこもりは数時間が限界。だからだろうか?マートには、わが家のように行き場のない家族連れが大勢押し寄せていた。旧正月の連休明けに感染者数がものすごい勢いで増え、3万人を超えてしまった今。もうどんなに自粛しても、いつかかかってしまうんじゃないだろうかという諦めが、逆に人々の動きを活発にしているような気がした。

 値引きされたサーモンのお寿司と、タコの天ぷら、朝食用のパン、息子が好きなヨーグルトとイチゴを買って自宅に戻り、読みたかったはずの本を手に取ってみるも、全く集中できない。それではと、いつも相方に譲っていたテレビの前に座り、いつか見たいと思っていた映画やドラマを探してみるものの、これまた全く興味がわかない。せっかく手に入れた一人の時間なのに。次にいつあるともわからない、貴重な自分だけの時間なのに…!

 昔好きだった日本のドラマや、今配信中の話題作を見つけ、「これなら」と視聴ボタンを押したのは良かったが、全然面白さを感じられないまま時だけが過ぎていった。大好きなサーモンのお寿司も、久々に食べたタコの天ぷらも、さほど感動がない。あれだけ欲しかった「一人でゆっくりと味わって食べられる時間」なのに。誰のことも気にしなくていい、自由な夜なのに。一人でいても、心は全然自由じゃなかった。

 21時を過ぎて、相方からテレビ電話がかかって来た。画面の向こうで「オンマ、オンマ」と息子が涙目でつぶやいている。「엄마...집에 가고 싶어(ママ、家に帰りたい)」と。私は「今日はおじいちゃん、おばあちゃんの家で良く寝て、明日元気に帰ってきてね」と笑顔で告げ、すぐに電話を切った。息子の涙と引き換えに得た一人時間って、一体何だったんだろう?それを楽しめていない自分って、逆に息子に申し訳ないんじゃないだろうか。

 その後私は、ずっと観たかった映画が自宅のテレビで視聴できるようになっていたことを知り、すぐさま購入してテレビの前に座った。それは、是枝裕和監督がフランスで制作した映画『真実』だった。韓国語のタイトルは『파비안느에 관한 진실(ファビエンヌについての真実)』。

 この映画はパリで撮影され、フランス人俳優たちが出演。セリフもフランス語と英語だけなので、どちらも馴染みのない私には字幕が必要だ。でも、ここは韓国。字幕は韓国語しか選べない。

 役者たちの演技を観ながら字幕を読めば、知らない単語が出てきても大方理解できるとはいえ、字幕にある程度集中しなければいけないので、日本の映画を観る時よりも、脳は数倍疲れてしまう。それでも観たいと思った。結婚前までずっと、是枝監督の作品は封切りと同時に劇場へかけつけるほど好きだったし、私は今年、いよいよフランス語を始めるつもりでいる。だから、フランス語が飛び交う世界に身を委ねてみたかった。

 是枝監督の作品には家族を描いたものが多いけれど、この作品もそうで、国民的大女優のファビエンヌと、アメリカで脚本家として活躍している娘の関係が大きな軸になっていた。自分の仕事に打ち込む母と、それに対してどこか寂しさや怒りを抱えながら大きくなった娘。そんな2人や家族の関係が、ファビエンヌが出演するSF映画の撮影が進むにつれ、少しずつ明らかになっていき、母娘の間で長く絡まりあっていた愛憎が形を変えていく——。

 私は母親のファビエンヌが出演するSF映画の内容に、とても興味を持った。韓国語字幕で見たので、間違って理解している部分があるかもしれないが、SF映画の内容とはこうだ。地球で暮らすと2年ほどで死んでしまう母親が宇宙で暮らすことを選択し、7年ごとに家族に会いに戻ってくる。母親は地球を出た時と同じ姿のままで、いつまでも若々しく、家族だけが確実に年を重ねていく。就学前の娘、10代の娘、30代の娘…。ファビエンヌは70代の娘を演じていた。

 いつもそばにおらず、7年ごとに突然会いにやってくる母親。ある時から母の年齢を超え、どんどん年老いていく娘。ファビエンヌは70代の「娘」を演じながら自身の娘を思い、若々しい姿のままでいる「母親」の横で昔の自分を省みているように見えた。また、母親役を演じる若き実力派「女優」を前に、失ったものへの羨望と後悔、そして、女優としての最終章を生きる自分の弱さと強さに向き合っているようにも見えた。

 映画を観終わり、真っ暗な部屋の中で布団にもぐりこんだものの、なかなか寝付くことができなかった。そんなことをしたら余計眠れなくなるとわかっていながら、私は携帯で電子書籍のアプリを開き、読みかけの本を読むことにした。

 作品の名は、岸恵子さんの小説『わりなき恋』。息子を出産した後、テレビでインタビューを受ける岸さんの姿を目にしたことがあった。その時、岸さんが長くフランスで暮らしてきたということを知り、そういう方が書く文章とはどういうものだろうと関心がわいた。しかし、出産後の自分には「恋」という言葉が縁遠いものに感じられ、手に取らないまま月日が流れていたのだが、先日ふと思い出し、読み始めたのだった。

 早くに夫を亡くし、一人娘を育てながら国際的なドキュメンタリー作家として活躍してきた69歳の主人公。そんな彼女に突然訪れた最後の恋。世界中を駆け回り、私とは全く違う世界に生きるように見える60代70代の男女の物語は、馴染みのない国の料理を初めて食べたかのような印象を受けた。しかし、物語の終盤で東日本大震災が起こってからは、この2人が抱える苦悩とは実は普遍的なもので、自分とそう変わらないのではと思えるようになった。

 今朝読み終わり、私はなぜこの本を読むタイミングが今になったのか、ぼんやりとわかった気がした。映画『真実』を観た後でなければ、小説『わりなき恋』を読んでもそれほど残るものがなかったかもしれない。老いること。孤独であること。誰かを愛すること。誰かと共に生きること。最期までどんな自分でありたいのか、どう生きたいのかということ…。

 人生の折り返し地点を過ぎた今、突然たった一人きりになってしまった夜に、この2つの作品に触れたこと。今はまだはっきりと言葉にならないけれど、今日のこの経験が、いつか深い根となり私を支えてくれる。そんな気がした。

 私はいつも、ふと思い浮かんだ言葉や、ふと思い出した出来事を大事にしたいと思っている。後から振り返ると、それが大きな転機になったり、大事な縁へとつながっていくことが多かったからだ。

 息子と相方が帰ってくるまでの数時間。家族がいない間にやらなきゃと思っていたお風呂掃除はひとまず放っておいて、今日は今から、ふと頭に浮かんだことをおもいきり楽しんでみたい。彼らを笑顔で迎えられるように。

と書いていたら、突然何の連絡もなしに2人が帰ってきた。息子は寝起きで機嫌が悪く、疲れた相方は荷物を運びあげたら、すぐスマホでゲームを始めてしまった。笑顔で出迎えたのもつかの間。愚図る息子と疲れた相方を横目に、黙々と2人の荷物を片付けている内、一人きりで過ごした24時間が恋しく、時を巻き戻したい気分になった。

私は2人を家に残し、外に出た。車を走らせ十数分。今、日が沈みゆく公園の駐車場でこの文章を書いている。今日は気がすむまで公園を歩いて帰るんだ。ご飯の用意もしてこなくて家族に申し訳ないとか、息子が寂しい思いをしているかなとか、疲れた相方に無理させちゃうかなとか、そんな気持ちは全部忘れてしまって。

今日だけは、あの映画や小説のマダムたちのように、我が道を行くのだ。私がいなくても2人はきっと大丈夫。そう信じて顔を上げると、夜の帳が下りた空に、小さな星が1つ光って見えた。


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