「我ガタメニ躰ヲヒトツ(山内宏泰)」評
これは、2001年冬にwhat's art gallery(宮城県仙台市)で開かれた展示のために書かれたものである。山内氏は、宮城県気仙沼市のリアス・アーク美術館に勤め、2011年の東日本大震災後には多くの人が彼の仕事を知るところになった。一度なにかのシンポジウムの席でご一緒したが、かつてこの展示について書いたことがあり、顔が判別できないほど暗いギャラリーのなかで話したことがあるのを伝えることはできなかった。
初出:記憶なし(2001年)
山内宏泰の作品を見るとき、はじめにいつも感じるのは「見なくてもよいものを見てしまった」という感覚である。
核家族の時代に育った多くの人間がそうであるように、私は他人の死体というものを 直に見たことがない。ましてや解剖された人体など本でしか見たことがない。 ギャラリーの中央に座っている一体の「人間のようなもの」は、布の皮膚で覆われた その下には骨格まで作られており、その凝りように関心はするけれども、理科の教科書で見たような精密さはない。おそらく長い時間をかけて作ったことだろう、木で作られた骨格や朱色の布の筋肉、そして歯。それらは実際の人体とは比べようもなくつたない仕事である。だからこそ、本当の人体を目の当たりにするときに感じるであろう不快感はなく、ある種の滑稽さを感じつつ見ることができる。それでもやはり、等身大の全裸の男を見ると「見てしまった」という感じがする。その上、皮膚をめくれば筋肉が見えるのだ。
普段、我々の内部は隠蔽されている。皮膚の下は、鈍い光に照らされて赤黒いぬるぬるとした内臓があふれんばかりに詰まっているはずだ。どんなに美しい化粧をした人間も、その醜い姿を内部に抱えている。この作品を見るとき、私は人がその当たり前 の醜さを内部に抱えていることを思い知らされる。 では、この作品は醜いということなるのだろうか。それはこの人型のオリジナルであ る山内自身を醜いと感じたのか、あるいは、作品に誘発された自分の姿を醜いと感じたのか迷ってしまう。
山内によれば、この作品は自分のためのもうひとつの体であり、ぬいぐるみのようなものだという。つまり、私は「クマのぬいぐるみ」ならぬ「山内宏泰のぬいぐるみ」と相対しているのだ。 彼はこの愛くるしいのかもしれないぬいぐるみを抱いて街に出ることになるのだろうか。そのときにこそ、この作品の意味も外に晒されることになる。作品として自己の内面から生み出された、正しくは「生み出されなおした」自分の姿は、外の光にお それおののくことになるかもしれない。それとも、山内本人が、作品の親として、子でもあり自分でもあるこの人型を守ることになるかもしれない。ギャラリーという守られた空間から彼らが外へ出たときに、それは明らかになるだろう。
その意味で、この作品はまだ産み落とされたにすぎない。