彫ることと残すことのあいだに -高橋健太郎展『内在する意志』
これは、高橋健太郎展『内在する意志』(2005年4月24日-5月1日/what's art gallery[宮城県仙台市])のために書かれたものである。美術評といえるものを書いたのは、このギャラリーのためだけであり、記憶にある範囲では、山内宏泰氏(2001年)、椎名勇仁氏(2001年)、青野文昭氏(2003年)、そしてこの高橋健太郎氏である。
初出:「what's art」(発行:what's art gallery/2005年)
辞書通りに考えるのならば、おおよそ彫刻というものは、素材を立体的に彫り刻んで、ある姿を形作るものである。精緻に作られたキリストの像を見て涙を流す人がいるとしても、何の変哲もない木材を見て感銘を受ける人はほとんどいないだろう。「私は木の中にすでにあるものをただ彫りだすだけ」というミケランジェロの逸話があるとしても、それが神の像であろうが、幾何学的な造形であろうが、数少ない天才の眼以外には、ただの木材のなかに隠された姿を見ることは難しい。
しかし一方、私たちは森にそびえる木々をただ眺めて感銘を受けることがあるのも事実である。森のなかの木々には天才のノミはかけられていない。そこに見えるのは小さな種子のなかに仕組まれ、日々の風雨との呼応によって作られた生命活動の過程である。木々に(人が見て思う)美しい姿に成長しようとする意志はおそらくないと思われるが、私たちは、緻密に計算されたかのような豊かな枝振りや、風雨にさらされつつ硬さと柔らかさを兼ね備えた樹皮や、強い日射しを遮る木の影に深い安らぎを憶える。かつては神の手にあると思われた枝々の複雑な伸び拡がり方すら、もはやアルゴリズムに置き換えられることは知っていても、木々に触れるときに感じるぬくもりは、人の遺伝子の中にある記憶が呼び起こす生理と言えるだろう。
つまり、木という素材は、それそのものが本来持っていた形や表情によって、すでに人々の心を動かすなにかを備えた素材といえる。鉄や石という素材は、あらかじめ定められた形があるものではないが、木は、生物として生きた形の記憶をとどめたものなのである。彫刻の素材として使われるもののなかで生物といえば木か象牙だろうか、元来与えられている記憶として特定の形を持つ素材を相手にするときには、その記憶を乗り越え、その記憶に縛られない形を掘り出すことが仕事となる。象牙から象の牙の彫刻を作っても一般的には意味を持たない。
高橋健太郎は鉄や石も使う作家ではあるが、今回展示された作品は、いずれも木を素材とする作品であった。しかし、主たる作品は何かの造形を掘り出すものではなく、むしろ、木材としてのシンプルな外形をどこかしら残している。フォルムとしてはそれほど複雑な印象はないのだが、ノミによって穿かれ、表面として残された痕跡には、内側に向けられた繊細さと大胆さが現れていた。その作品の表面には3つの様態がある。ひとつには、外皮や木目といった、素材となる木そのものがもっている表面。もうひとつは、ヤスリで研磨された滑らかな表面。そして、ノミの跡を荒々しく残しささくれだった表面。形のバランスというよりは、残され、磨かれ、穿かれた領域のバランスで作品が構成されているのだ。
たとえば、ギャラリーの中心におかれた黒い直方体の作品『内在する意志4』は、太さ40cm、長さ2mほどの木材4本を束ね、そのなかを削って空洞にしたものだが、表面はまるで古びた民家の大黒柱のようでもあり、近づいて継ぎ目から覗くと、なかは空洞になっており、その表面は荒々しくノミの跡が見える。遠目に見たときの重厚な印象と、中の空虚を知ったときの軽さ。さらに、床面からわずかに浮いていることが、重量感をゆるやかにほどく助けとなっている。
具体的な形を彫刻しているわけではない以上、『内在する意志』と題された作品たちは抽象と言えるのだろうが、その幾何学に還元されそうな外形に反して、ありきたりな表現を使えば、自然のぬくもりを感じさせるのである。木が本来もつぬくもりに寄り添うように、もしくは、そう感じる人間の生理との距離をうまく測りながら高橋は素材に向かっていたのではないだろうか。ささくれだったノミの跡を見せつつも「彫り刻む」という表現を使うことにためらいを憶えるのは、その繊細さが作品から感じ取れるからかもしれない。