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超短編小説 0026

『記憶の轍』

僕は、東京ドームが好きだ。
巨人ファンだからという理由もあるが、
子供の頃の、父との思い出があるからだ。

その頃はまだ、後楽園球場だったので、東京ドームは存在していなかった。

僕が物心ついた時から、画家の母は、毎晩飲み歩いて午前様。土日は、朝から、飲み友達とどこかに遊びに行ってしまったり、家にいても昼間は寝ているか、アトリエに籠っていた。

父は、当時、中学校の音楽教師だったので勤務時間や休日に関しては融通が利くし、夏休みや冬休みも多く取れる環境だった。僕の保育園の送り迎えは父がしてくれていた。父の勤務する学校の近くの保育園まで電車で通っていた。母と保育園に来た記憶は一つもない。なので、平日に行われる、家族遠足や運動会や学芸会などのイベントに両親に来てもらったことはなかった。

それでも、保育園で寂しいと思ったことは一度もなかった。保育園は僕にとって安心できる居場所だったからだ。家に帰ることが不安だった。酔っぱらった母に理不尽に怒られるか、ひとりで不安と恐怖を感じながら夜の留守番をするという毎日だった。

幼少期の僕は母が怖かった。

母は自分の人生に満足していなかった。学生の時からピアニストを目指し挫折し、絵画に出会ったが、常に見えないプレッシャーを感じながら生きていたようだった。そのプレッシャーと期待違いの人生から目を背けるために酒を飲んでいたのだ。
酔っぱらうと必ず、暴れた。特に僕のことを目の敵にしていた。「子供などいらなかった、親を喜ばすために産んだだけだ」「男じゃなくて女の子が欲しかった」「あの子は悪魔の子供だ」「あの三白眼が怖い」など、直接言われることもあったが、ほぼ毎日、布団の中で寝たふりをしながら聞いていた。子供の頃は、そんな憎悪を向けられても両親が家にいてくれることのほうが安心できた。

エレベーターが押せるくらいに背が伸びると、家でひとりでいることが、いてもたってもいられないくらい不安になると、6階からエレベーターで降りて、マンションの出入口に立って「神様無事にお父さんとお母さんを帰らせてください。」と祈っていた。そして両親の姿が見えると、慌てて階段で6階の家まで戻って寝たふりをした。勝手にエレベーターで降りたと知られたら怒られると思ったからである。

心配性と行動力はエスカレートしていき、マンションの玄関を出て、目の前の横断歩道を渡り終えたところで、すぐ横の交番のお巡りさんが声をかけてくれたことがあった。4、5歳の子供がパジャマで、泣きはらした顔で歩いているのだ、そりゃ声かけられるはずである。その時は、怒られるのではないかと、どきどきしたのだが、お巡りさんは優しく、交番でココアを出してくれた。冬の寒さと不安と緊張でがちがちになっていた体は温まり、安心したのを覚えている。
僕は子供の頃から大人に対してもしっかりしていた、行動から明らかなのだが、不安を見せずに、その時も、自分と両親の名前とマンション名を伝え、「6時くらいから出かけて行った、お父さんとお母さんの帰りが遅いので心配で来てしまいました。」と説明した。
日付は変わっていたが、ココアを飲み終えるころに、帰ってくる両親の姿が見えた。その日の母は悪酔いではなかった。ので、お巡りさんと談笑しながら僕を引き取った。

小学生になると、ひとりで家にいることに対する不安はほとんどなくなり、自分の時間を満喫していた、ゴールデンタイムはテレビでダウンタウンの漫才や欽ちゃんを観たりしながらのんびり過ごすのだが、見たい番組が終わると途端に寂しくなる。この時期は、母は飲み屋、父はパチンコ屋が日課だった。お金をもらいホッカホカ弁当を買って、おつりでおまけ付きのお菓子や、セブンイレブンでラムレーズンのアイスを買って食べていた。10時近くなると父を迎えにパチンコ屋に行った。当時は子供もパチンコ屋に入って空いていればイスに座ってもいいし、分けてもらった玉で打つマネをしても怒られなかった。たいていは父の席の後ろで、父の打つ台を観ていたが、出ているときは三百円もらってお菓子を買いに行き、時間を潰した。閉店後は、屋台のラーメン屋でラーメンを食べるのが嬉しかった。「お前が来ると運が落ちて、玉が出なくなる」といわれることもあったが、パチンコは出た時にファミコンのカセットを取ってきてくれるので嫌ではなかった。

僕が小学校3年生の時に母は入院した、産褥期ノイローゼーから始まり、うつ病、躁うつ病の診断を受けて通院していたのだが、自殺願望がひどくなり自分の意志で入院を希望したのだ。しかし、院内ではタバコが自由に吸えないと分かり、直ぐに退院したいと願い出るが、手首を切って救急車を呼ぶことが数回あったので簡単には退院させてはくれなかった。結局、1ヵ月半くらい入院した。精神科だからなのか分からないが、面会時間も厳しかった。一日に会える時間は決まった時間に僅かな時間だけだった。平日は朝早く面会した。休日も朝早く面会して可能であれば午後も面会した。

母の入院中は、静かだった。父はパチンコ屋に相変わらず行っていたが、寂しそうだった。
いや、寂しかったのだと思う、心はここにあらずだったのだろう。だから、いつもと違う場所に連れてってくれた。代々木公園でやっているイベントやプロレスを見に行ったり、後楽園遊園地で遊んだ後に後楽園球場で野球を観た。野球を観た後は、電車で帰れば20分くらいで帰れるのに、水道橋のビジネスホテルに泊まった。テレビで西部劇を観ながら僕は眠りについた。

楽しい場所に行けて、常に父がいて、ひとりじゃないことで僕は、ただただ嬉しかった。
野球観戦も嬉しかった。まだあの時の興奮は記憶に残ったままだ。寂しい夜を照らす、ナイター、外野自由席で大騒ぎする酒臭いおじさんたち、そのおじさんたちがベンチを詰めてくれて座らせてくれたこと、新聞を丸めた棒で声がかれるほど大声で応援したこと、原辰徳のホームランで歓喜して、周りにいた人達全員とハイタッチしたこと。試合後も興奮は止まなかった。
父と僕は後楽園球場で、ほんのひと時、現実を忘れて、違うことに集中できた。

大人になっても、あの一瞬を、思い出す。
子供の頃の自分の気持ちだけでなく。父の寂しさや。母の孤独。
ひとつの記憶の中にいくつもの感情が入り込み、記憶の存在が大きくなる。
短い時間だが、まるで、記憶の中で生きているような感覚。
いつか、抜け出せなくなるのかもしれない。

そんな記憶の扉を開けてくれるのが、東京ドームであり、この場所なのだ。
東京ドームができた時、僕は小学校5年生だったので、新しくできたそれにワクワクして、
行くたびに喜びしか感じなかった。
今も、東京ドームが好きだ、しかし、なぜか年月を重ねるにつれて後楽園球場という今は無き、思い出の場所が恋しくてしかたがない。

追記
この話は僕の幼少期の体験であり、ノンフィクションです。脚色の無い文章を改めて読み返すと結構大変な幼少期だったなと自分のことながら感慨深いものがありました。しかし僕の感性や想像力はこの環境があってこそだと思っています。母はもう他界しましたが、僕は母も父も愛しています。

《最後まで読んで下さり有難うございます。》

僕の行動原理はネガティブなものが多く、だからアウトプットする物も暗いものが多いいです。それでも「いいね」やコメントを頂けるだけで幸せです。力になります。本当に有難うございます。