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散歩道が『ぶんぶんロード』になっている

今朝も最近のお気に入りである朝の散歩に出掛けてきた。いつもの古墳の丘にある公園だ。出掛ける前にnoteの記事を読んでいたら、精神世界の鉄人というブログを書いていたトーマさんが亡くなられたと言う記事を見つけた。このことはまた別の機会に。トーマさんは私も実際にお会いしたことがある人で凄くエネルギーに満ち溢れた方、と言う印象だった。そんなこんなをしている内にお日様の光が室内に入ってきたので、慌てて出掛けたのだった。

さて、本題の散歩道の話である。数日前からだろうか、公園の茂みから「ブ〜〜〜〜〜〜ン」と言う低音の効いた、羽音のような音がすることに気づいた。妙に思っていると最近やたらと飛んでいる蜂が多いことに気づいた。まさかな?と思いながら頂上に向かって歩いていると、そのまさかであった。

数日前も数が多いとは感じていたが、今日に至っては公園を往復する間、ゆうに50匹以上(桁が違うかも?)は見かけたんじゃなかろうか。しかも道幅が3mくらいあるところが左右の草が伸び放題になっていて、2mくらいの道幅になっている。蜂との距離が近いのだ。私はビビりなので正直、途中で引き返そうかと思った。だが、その時、頂上の方から降りてくる人がいたのだ。その人は60代くらいの男性で何故かいつも頂上にいる時は上半身裸になっているのだ。今日も頂上から降りてくる際は裸のままだった。

裸になること自体は良い。私も裸族なので家の中ではすぐ上半身裸になる方だ。ただ、ここは家の中じゃない。しかし、それも私はあまり気にならない方だ。そこも問題じゃない。問題はこの蜂が四方八方に飛び交っている中でどうしてそんな堂々と裸になれるのか?ということだ。その男性は私の気持ちはなど知る由もなくそのまま公園を下りていった。

なんとか今日も頂上にたどり着くことが出来たので日の出を待ちながら、どうして蜂が怖いのかを考えてみた。考えている間にも2人ほど女性が上ってきた。彼女たちも毎朝見かけるので、きっと蜂が大量発生していることは知っているだろうと思うが怖くないのか、それとも表情に出ないだけなのか、いたって普通の様子に見えた。

私も日の出を眺めたあと公園を後にしながら、蜂が怖いと言うより蜂をキッカケとして私の内側に存在する恐怖が出てきたのかも知れないと思った。蜂は他の何かに言い換えても同じで、そもそも私の内側に恐れが存在していて、蜂はその象徴的なモノの1つかも知れないと思った。上半身裸の男性はまるで蜂の存在など気づいていないかのようだった。2人の女性も片方の方は堂々と歩いていて蜂の存在などまるで意に介していないかのように見えた。私も同じ所を歩いている筈なのに、世界に対する反応がまるで違うように思えた。

そもそも、いつ私は蜂が怖いと学習したのだろうか。確かに刺されることはあるし、アナフィラキシーショックと言うこともある。けれど必要以上に恐れるのは何かが違うように感じる。そして私は必要以上に恐れているように感じている。その正体は分からないが、もう少し考えてみようと思う。

最近こういうことをよく思うのだ。虫が怖いとか、食べ物の好き嫌いなど、そういったことを人はいつ学習したのだろうか?それって(私たちは)本当に怖いと思っているのだろうか?嫌いだと感じているのか?誰か(親や兄弟姉妹、先生など)が感じた感じ方や、思い込みをもとに学習したんじゃないだろうか。そんな可能性について考えている。

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